真夏の夜の夢現

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 田舎の祖母は毎年必ず、お盆に迎え火を焚いた。  家の門口で、素焼きのお皿に置いたオガラを焚いた。明かりを灯した提灯が居間に吊り下がっていたことを、祖母が亡くなって十二年が過ぎた今でも覚えている。  お盆は、先祖の霊が家に帰ってくる――。  私は祖母を思い出しながら、墓で迎え火を焚いた。立ち昇る煙を見上げながら、浩介に会いたいと心の底から願った。  浩介が亡くなって一年が過ぎようとしている。なのに、彼を思い出すといまだに涙があふれる。  浩介は河原で仲間たちとバーベキューをしていて、川に流されて死んだ。  私たちは仲の良い夫婦ではなかった。付き合いが長かったせいで、結婚したときにはもう恋愛感情なんてものはなかった。  ただ一緒にいることが楽で、自分の好きなことに没頭しても嫌な顔をしない相手。気の置けない間柄――そんな認識でしかなかった。 「バカみたい。死んでから、かけがえのない人だったことに気づくなんて……」  嘆く声に涙が混じる。  日中三十五度を超えた気温は、夕方になっても涼しくならない。生温い湯の中を漂っているようなぼんやりとした空気のなかを、蝙蝠(こうもり)が飛んでいる。  マンションに帰ってきて、汗でべとついた体を洗い流すためにシャワーを浴びる。  脱衣所で体を拭いていると、テレビの音が耳に入ってきた。 「なんで? テレビつけていないのに……」  恐る恐るリビングを覗いてみると、ソファーに男性が座っている。 「え? 浩介……?」 「杏。ただいま」  日に焼けた四角い顔に、人の良い笑顔。のんびりとした性格を表す、呑気な話し方。  私は目を擦って、ソファーに座る人物を見つめる。  カーテンを閉めていない窓ガラスの向こうは夜の闇。窓ガラスに映るソファーに、浩介の姿はない。 「幽霊、なの……?」 「お盆だろう? 杏が迎え火を焚いてくれたから、来たんだ」  激しい感情が沸き上がるままに、浩介に抱きつく。厚みのある胸板を何度も叩く。 「バカッ! 勝手すぎる! なんで死んだの!! こんなのってひどい。なんでよ、どうしてよ! なんで……ひどい……」 「ごめんなぁ」  浩介の大きな手が私の頭を撫でる。  私は潤む瞳で浩介を見つめ、目を瞬かせた。 「目尻にシワがある……」 「へえー……、気がつかなかったなぁ」  浩介と出会ったのは中学校。野球部だった浩介は丸坊主で、お世辞にもかっこいい男子とはいえなかった。でも私は浩介の穏やかな眼差しが大好きだった。  今でも浩介の眼差しは穏やかなのだが、目尻にシワがある。    ――浩介が生きているときには、目尻のシワに気づかなかった……。  仕事に夢中になるあまり、生活時間がすれ違っていた。浩介の顔を注視したときなんてあっただろうか。  私は大粒の涙をこぼしながら、浩介の白シャツの胸元を掴んだ。 「ずっとここにいて。お願いだから、どこにも行かないで……」 「ごめんなぁ。それは出来ないんだ。ごめんなぁ」  浩介の謝罪は締まりがなくて、いつも私を苛つかせた。なのに間延びした謝り方が、今はこんなにも愛おしい。   「私ね……浩介が好きなの。大好きなの。浩介じゃないとダメなの。浩介を、愛している……」 「……ありがとう」  浩介は照れた顔で笑うと、私の後頭部に手を添えて胸にかき抱いてくれた。 「俺も杏が……その……好きだ。愛して、る……」 「つっかえた。言わされてる感アリアリ」 「いや、違う! 言いたくて言った。その……本当は生きている間に言うべきだった。杏、愛している。今までも、これからもずっと、愛している」  私は大粒の涙をぽろぽろとこぼした。  浩介が亡くなってから、悲しみと寂しさと後悔の涙ばかり流してきた。  喜びが震えて流す涙はとても温かく、心を幸せで満たしてくれた。  夏は境界線を崩して、渾然一体の状態にさせる。  伸縮する等圧線。突然の雷雨。太陽は人々を焦がして、思考を狂わす。    カラダとココロ。  現実と夢。  過去と現在と未来。  欲望と理性。  朝と昼と夜。  生者と死者。  夏は境界線を曖昧にして混ざり合わせ、人々を夢現(ゆめうつつ)の世界で惑わす。  私と浩介も真夏の夢の如く、愛を混ざり合わせた。  浩介と過ごした夜は果たして夢なのか現実なのか――。  お盆が過ぎ、日常生活に戻った私には判断がつかなかった。だが夢でなかったことを、二ヶ月後に知る。婦人科で妊娠していることを告げられた。  ✢✢✢    夏と秋と冬が過ぎ、春になった。  私は妊娠していることを直属の上司にだけ伝え、ギリギリまで働くことにした。  休憩室に向かうと、中から女子たちの騒ぎ声がする。   「岩井主任、妊娠七ヶ月だって!」 「やっぱり! あのお腹はそうだよね。でも相手って……。旦那さんって亡くなっているんじゃ……」 「他の人の子供なんじゃない? 寂しくてついってやつじゃないの?」  私は開けようとしていたドアノブを離し、休憩室を後にした。   「他の人の子供じゃない」  つぶやきは誰にも届かない。でもそれでいい。誰も信じなくてもかまわない。  私のお腹には、浩介の子が宿っている――。  お盆には、迎え火を焚こう。家に帰ってきた浩介が我が子を見てどんな反応をするのか、今から楽しみである。
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