幽棲

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幽棲

 私の宿の離れの井戸に夜な夜な女が腰掛けている。井戸は離れの中庭にあり毎夜毎夜顔の見えない女がぽつねんと腰掛けているのだ。女と言ってもうら若く、藤薊の浴衣をボロ雑巾のように着流している。髪は長く背に解いていて日に日に松葉色に染まっている。その女の周りだけ薄く仄かにぼやけて見えて、一目でもうこの世のものではないことが分かる。けれどこの離れは遠の昔に使われなくなっていて久しい。この井戸から湧く水は特別澄んでいるから、お得意様にのみ出す上級の茶を沸かす時にだけ使う決まりとなっている。その水を汲みに来るのは私の仕事だけれどお得意なんて滅多に来ないから井戸に女が腰掛けていようと特別仕事に差し障りはないのだ。けれど宿に泊まりに来る客達はそうもいかない。 「ねえチヨ」 「はい、奥様」 「あの離れなんだか嫌な感じがするわ」  あたくし近づきたくないのよね、できれば部屋を変えてくださる? 「やあお嬢」 「はい、旦那様」 「あの離れなんとかならないのかい」  薄気味悪くて仕方がない。いっそ取り壊してしまったらどうだい。  鼻の良い少数の客達は母屋まで幽かに漂ってくる瘴気をどうしても嗅ぎつけてしまい眉間に皺を寄せ顔を顰める。大女将に提言したこともあったが、 「けんどあそこは蔵としても使っているしねえ。何よりあの湧き水の井戸があんだろう、それを取り壊すってのはちっとねえ」  ほら、ご贔屓様方が五月蝿いだろうさ、分かるだろ?  女が井戸に腰掛けはじめたのはいつの事だったかもうなんとも覚えていないが、事実その頃から湧水を飲むお得意共がこぞって旨い旨いと言い出したのだ。茶のおかわりはないのか、もっとくれもっとくれと。これで酒でも作ればいい、そうすりゃここももっと大儲けだぞなんて突飛なことを言い出した輩も居た。流石にその時は大女将が笑顔でぴしゃりと断った。もしそんなことをすりゃあお客様らとあたいらの秘事は破られてしまいます、それで宜しくて?等と。  そんなことがあったから一度女将にも呼び出されたことがあった。 「チヨ、あんた本当に何にも知らないの」 「何の話でしょう、女将様」  いやあ、だからさ…。 「ほら、最近お客様が噂してるじゃない。離れの中庭が薄気味悪いって…これじゃ客足が離れてく一方よ、あたし大女将に叱られちゃうわ」  女将は大女将に比べて随分と華奢で性根も酷く警戒心の強い方だった。私は困ったな、もう中庭ということまで広まっているのかと思いながら、 「はあ、何も知りません」 「そう、なら良いんだけど」  莫迦な方、と胸の内で呟く。 「チヨ、けれどね」  急に女将がぐわりと恐ろしい顔になって、 「何かあったらすぐに知らせることよ。雨晒しだったあんたを拾ってやったのは他でもないあたし達なんだからね」  ええ、勿論ですとも女将様。 「隠し事など、このチヨの名に誓ってつきません」  分かっているなら宜しい。あゝ嫌だ、怖い怖い。そう言いながら女将は座敷を足早に出て行った。その蜻蛉柄の着物の裾を見ていた、彼女は酷く臆病者、けれど強気に見られたいのだ。金に目がない大女将、酒好きのお得意共、わざわざ勝ち虫の着物を取り寄せる怖がり女将、私の周りは莫迦が多くて大いに助かる。私はもう雨晒しの子供ではないことにこの宿ではまだ誰も気付いていないから、有難いことこの上ない。  今晩は新月。それに合わせて丁度無くなるように計算していた湧水を私は計算通り汲みに行くことになった。みな心配の言葉はきゃんきゃん口にしたが決して誰も付いてこようとはしなかった。私は特に夜目が効くほうで、そして離れへの道など目を閉じていても迷わず向かうことなどお手の物だった。  桶を持って石畳を渡っていく、お山の上から微かな提灯の灯りが見える。何処から来たのか一匹の蛍が私の肩に止まり、私はそれを指で摘んで口に含んだ。しゃくりしゃくりと咀嚼しゆっくりと飲み込む。少し苦い、甘いような光の鞘翅。そして見えてくる藤薊の女の影。まさかこんなに早く広まるとは思ってもみなかった。だから早めに対処しなければならない。 「今晩は」  丁寧に挨拶しているのに女は何も言わない。相も変わらず失礼な奴だ。 「もう此処には用はないでしょう。いつまで居座るつもりなの」  私は桶を置いて女の顔を隠す長い髪を手の甲ではらりとめくった。うちの宿の暖簾を思い起こさせて私は珍しく少しだけ笑えた。くすりくすりと笑いながら女の顔を覗き込んだ。虚空を見つめる女の真っ黒な瞳に無理矢理目を合わせた。名前も知らない女、けれど私の周りに居る莫迦共よりは幾分か賢かったこの女。  ねえ。 「あちらの世界にお帰りなさいな」  ゆっくりと、女の瞳に私が映った。やはり賢い女じゃないか、私は間違っていなかった。女が細い喉を震わせる。 「貴女が、こうしたのよ」  ええ、そうね。 「貴女が、突き落とした」  ええ、そうよ。 「この井戸の、深い底まで」  女が恨めしそうにそう言うので私は少し笑ってあっけらかんと答える。 「気持ち良かったでしょう?」  歌うように続ける。  心地良かったでしょう?奈落の果てまで落ちていくのは。知らない世界へ旅に出るのは。これ以上なくその身の血潮が踊ったでしょう。分かるわ、私もそうだったもの。 「でもね聞いて、幽霊さん。だからって此処に縛られていい理由にはならないの」  出て行って欲しいの、帰って欲しいのよ。貴女にとっての現世に。 「貴女の匂いは私の世界を狂わせ過ぎる」  ねえ?と問いかけると途端に女の瞳が揺らいだ。水面のようにさざなみが立ち、そしてぱたりぱたりと落ちていく。彼女は幽霊だから私は濡れない、どう足掻いても私の被毛を濡らすことはできない。 「私に帰れというの?あの世界に?」 「物分かりが良くて助かるわ」 「嫌よ、嫌。私は何処にも行けやしない。なのに私にあんな世界に帰れと言うの」  貴女が突き落としたのよ、貴女が私の背を押したというのに。そう女が私を睨む。 「今もこの井戸の中には私の血溜まりが残っている、私の千切れた四肢が遺ったまま。此処が私の墓標よ、誰にもそれを奪わせたりしない」  向けられるのは刃物のような怒りだ、このままではきっと怨霊になる。怨霊になる方がきっと彼女の為なのだ。けれど残念、私は魔物は好きではないから。 「私を呪う気?貴女の願いを叶えてやった、この私を」  その言葉に女がたじろぐ。愛らしい、髪をひっ掴んでまたこの井戸に放り込んでやりたくなる。 「あちら側の世界、隠り世から迷い込んで来て帰る術も分からずにただ絶望していたお前を、こうやって自由にしてやったのは他でもないこの私なのにね」  あゝ、そうだった、違ったね? 「お前達からしてみれば、私達の世界のほうを隠り世と呼ぶんだったね」  私は遠慮無くけーんけーんと笑った。久方ぶりだ、まだあちらの世に化けて出ていた頃、人を初めて喰った時以来の胸の高鳴り。 「人間は旨い、それはそれはこの上なく旨いんだよ。けれど私はそんな苦しい飢えにも耐えて可愛いお前の願いを叶えてやったんじゃないか」  初めて見つけたのもこの中庭だった、喰ってしまっても良かったんだ、けれど喰わずに我慢したのは私は今や白狐共に飼われている管の狐だから。微かな血の匂いでバレでもしたら大変だ、今度は私が殺されてしまう。  女は相も変わらず泣いていた、しとりしとりと小雨のように。何がそんなに悲しいのか、私はやっぱり皆目見当もつかない。 「お前が言ったんだよ。帰り方も分からない、帰っても待つひとなど居ないと。 だからお願い、自由にしてと」  女が絞り出すように、 「だから私を殺したの」  殺した?そう私は聞き返す。 「この上ない自由を与えたんじゃないか」  肉体を捨てさえすればお前達は何処にだっていける存在、お前が元いた世に憎い人間でもいるのならそいつら纏めて呪い殺すことだってできるのに。 「なのにどうしてそうしない?」  女が泣きじゃくる。 「だって、私、此処をどうしても動けないもの」 「お前が思っているだけだよ、そうありたいと願っているから」  女はとうとう、わんわんわんわん赤子のように泣き出した。 「私が悪かったというの?トト様もカカ様も、アニ様だって私を不気味がってた。みんなして私を奥座敷に仕舞い込んで」  女が立ち上がる、酷く滾り怒っている。私にとっては良い匂いがする、客や白狐共は莫迦ばかりだからこの美味しさに永遠気付かないのだ。これだから神格ばかり高い奴はてんで駄目。 「私に何も見えなかったら、変なものなんにも視えなかったら…私が何処にでもいる普通の可愛い子供だったら、みんなは私を愛してくれた?祝福されて生まれてこれた?」  私は幸せになれていたかしら。 「…化物の世で、こんな狐に、独り殺されずに済んだというの?」  私、たった独りで死なずに済んだの?  怨霊に半ば堕ちかけた女は私に掴みかかってくる、けれど所詮は人間。私にとってはおつまみ程度。すいすいと躱しながら空を切る女の腕をひょいと捻り上げると黄色い可愛い悲鳴を上げる。愛くるしい腕、もう喰べられないのが本当に惜しい。 「けれどねえ、此処にずっと居られても私も困るんだよ」  なんていったって宿屋の莫迦共はお前なことを気味悪がっているし。それはそうだと思わない?お前の世で私達が恐れられているように、こちらの世でも野放しのお前の魂は毛嫌いされるに決まっているんだ。  だからね、もう諦めよう。ここいらで私達、歩み寄りましょうよ。  女の丸い目に私が映る、にやりと笑う狐がはっきりと映っている。 「新しい名をあげるから」  私は女に近付いて長い髪を後ろで括ってやった。驚く女は意外と綺麗な顔をしていた。これは棚からぼたもちだ、私は途端に上機嫌になる。これから毎夜私が櫛で梳かしてやったって良いくらいだ。ほんのり紅でもひいてやれば私の隣に見劣りしないだろう。 「お前の名は、宵」  そう、新たな名前で女を呼んだ。 「私の名は、八千代」  八千代、と女が茫として私を呼んだ。身が震えた、心底悍ましいほどの快感。何も知らない人間を私という色に染めていく。何も知らない人間に私の真の名前を呼ばせる。この上ない愉悦。だからお前を喰わなかったのよ、来たるべきこの時の為に。 「宵。私の眷属になりなさい」  さすれば私が手を引いて何処までも連れて行ってあげよう、あちらへ行きたいというのなら旅行気分で赴こう。少しくらいの我儘も許してあげる、手鏡でも髪飾りでもなんでも言ってごらん。その代わり私の着物の帯は毎日忘れず結えること。それといつまでも汚い浴衣を着流していないでそれなりの反物を揃えること。 「なんて言ったってお前は今夜から、私の隣を歩く化物になるのだからね」  分かったね、宵。  良いね、宵。  言いつけを守りなさい、  私を主とし生きなさい、  新月の元で誓いなさい、  もうこれからは悪い夢など見させやしないから。  私は賢い魂が好き。 「これからの自由を謳歌しよう」  隠り世とはオサラバ、  新しい現世へ駆ける、  私達二人、野火のように。  
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