1話 アイコンタクト

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崖近くの木の陰に隠れるようにしながら、少女はそっと崖下を窺う。 音が聞こえてきたのは、崖下の方からだった。 (あ、大きな動物!) 少女が見つけた四本足の動物は、鹿毛の馬だった。 わらび形や腹帯が巻かれ、引き棒に繋がれたそれは馬車を引いていた。 馬が頭を下げると、その向こうに人影が見える。 (人間もいる!!) 少女は慌てて木の裏へと身を隠す。 (うわー、人間初めて見ちゃった! ど、どうしよう、見つかるとマズイよね……) 心臓がドキドキと大きな音を立てている。 少女の場合、それは恐怖というよりも、未知との遭遇への興奮だった。 (けど人間って、私たちよりずっと耳も目も利かないって聞くし……) すぐにこの場を去った方がいいと、頭では分かっている。 けれど、少女は自分の好奇心に勝てなかった。 (ここからなら、見つからない……よね?) そろり……と慎重に、少女は木の陰から崖下の様子を伺う。 (もうちょっとだけ……) 崖下では、馬車の戸が開き、少年が顔を出した。 「どうした?」 少年に声をかけられて、御者が慌てたように名を呼ぶ。 「菰野様! す、すみませんっ!」 御者と共に馬の様子を見ていた青年従者が、じとりと半眼になった。 「馬が落ち着かないので目隠しを付けます。問題ありません」 そう答えて、主人に視線で圧をかける。 ついさっき、危ないので出て来ないよう、よく言い含めて降りてきたというのに。 なぜ出てきたのか、と従者の顔には書いてあった。 菰野はそれに気付かないフリをして、馬の様子を見に行く。 馬は、よく慣れている馴染みの馬で、こんなことはまず起こらないような性格をしていた。 いつも温厚で、落ち着いた馬……だが今は、どこか怯えるように身を縮めている。 (ここが怖いのか……?) 菰野は馬の首を慰めるようにポンポンと叩いてやりながら、山の頂へと視線を投げる。 この山は、遥か昔から神の住む山と呼ばれていた。 この山に無闇に近付く者は命を落とすと言われている。 (母様が、妖精を見たという山だ……) 山を見上げる菰野の表情に気付いた従者は、切長の黒い瞳に後悔を滲ませ、僅かに眉を寄せる。 急いでいたとはいえ、主人をこの山に近づけるべきではなかった。と、従者は己の判断を責めた。 「装着できました」 御者の言葉に「すぐ出発します」と従者は答える。 「菰野様、中へお入りください」 促され「ああ」と少年主人は馬車の屋根に手をかけた。 ふと、視線を感じて顔を上げると、崖の上の木陰から金色の何かがはみ出していた。 確かに視線が合った。そんな気がして、菰野はそれを凝視する。 (こんな場所に人……?) 視線が合った感覚からそう判断してみるも、ここからでは離れ過ぎていてよく分からない。 (金色に見えるのは……髪なのか……? まさか、あれはーー……) 「菰野様、お乗りください」 言葉とともに、青年従者が主人の背を押す。 「うわぁっ」 すっかり気を取られていた菰野が、姿勢を崩しかけ、慌てて振り返る。 「あ、危ないじゃな……」 『危ないのは時間です』と顔に書かれている従者を見て、主人は「ごめん」と謝った。 「さあ、お早く」 「わ、分かったから、押すなって」 従者にぐいぐいと背を押されながらも、菰野はもう一度崖上へと視線を投げる。 (あれ、いない……) プチッと堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた気がする。 次の瞬間には、菰野は従者に抱え上げられ、車内に放り込まれていた。 「うわぁぁぁあっ」 「出してください」 素早く乗り込み、バタンと戸を閉めた従者の言葉を合図に、御者は鞭を振る。 馬車はガラガラと音を立て、走り出した。
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