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顔をあげる。誰もいない執務室が広く感じる。
あれから一時間経ち現在時刻は23時。終電までまだ一時間ほどある。
明日は二週間ぶりの休暇だから、これだけは今日中に終わらせなければ。
卓上の写真立てに視線を移す。息子と妻と俺の写真。息子は無邪気にピースサインをして、その後ろで俺と妻は笑っている。
明日だけは絶対に休まなければならない。遊園地に連れて行く、そう約束を交わしたんだから。
「疲れた……」
でも、この仕事も絶対に仕上げなければ。
夏期講習合宿を無事に乗り切るためには今作ってる資料が必要不可欠だ。
夏期講習は今週末から、資料作成の日程的にはだいぶ遅れている。
頭の中で終電から残り作業の時間を逆算する。ギリギリで間に合いそうだ。今日中に仕事を終わらして、明日は家族三人で遊園地に行くんだ。
マウスを握った瞬間、視界の端で何かが光った。微かに見える希望を打ち砕くように、電話が鳴っている。
「うっそだろ……」
2年前までは塾の電話は22時以降は繋がらない仕様になっていた。
そのルールを変えたのが一之瀬だ。
「保護者からの電話は我々へのSOSです。いつ何時だろうと塾講師はこのSOSに応える義務がある」
そう言って一之瀬は、誰かがこの塾にいる限りは電話が繋がる仕組みを作った。さらに一之瀬は胸を張って保護者に説明した。「我々は保護者からのSOSを逃さない」と。
一之瀬は誰よりも早く出勤し、そして誰よりも遅く職場に残っていた。だから常識外の時間にかかってくる電話はほとんど一之瀬が対応し、どんな非常識な声にも全て真摯に応えていった。
一之瀬がいなくなったあと、電話のルールは残った。そして常識外の時間でも相変わらず電話はかかってくる。
その電話に対応するのは最終話以降も残された俺たちだ。
「大変お待たせしました。応進ゼミナール市ヶ谷教室、松本でございます」
『あぁ、松本先生!よかった、繋がって!』
「もう帰るところではございましたが……いかがなさいましたか」
『それが聞いてくださいよ先生!うちのキヨくんがね、勉強しないって暴れ出して』
「なるほど」
『学習机とか本棚とかひっくり返して参考書も破り捨てました。本人もぼろぼろ泣いちゃって、もう私どうしたらいいか……』
「なるほど。大変な時にご連絡いただきありがとうございます。キヨくん、ちょっと疲れてるのかもしれないですね。明日担当の講師がキヨくんと面談させていただきますので」
『いや、あの』
「はい」
『主人もですね、その、キヨくんの態度にちょっと怒っちゃって。今家庭が大変なことになってるんですよ』
「はぁ」
『いや、はぁ、じゃなくてね?明日面談とか悠長なこと言ってられないんですよ!』
「ええと、つまり、我々にどうしろと?」
『わかるでしょ!?今から来てください!』
「いや、それはちょっと……こんな時間ですし」
『時間なんか関係ないでしょう!私達夫婦が貴方の塾にいくらお支払いしてると思ってるんですか!』
「そうは言われましても、この時間から家庭訪問というのは問題になりますし……規則的にもそういうことは出来ないことになってますんで」
『何が規則ですか!嘘つかないでください!』
「いえ、嘘というわけでは」
『嘘じゃないですか!聞きましたよ、去年あゆちゃん家のお宅にも深夜に家庭訪問してたでしょ?一之瀬先生って方が』
「一之瀬は既に退職してまして……」
『だから何だって言うんですか!別に一之瀬先生じゃなくて松本先生でいいですから!他の先生に出来て貴方に出来ない理由はないでしょ?早く家に来てください!』
「いえ、その……」
受話器を持つ手に力が入る。いっそこのまま握りつぶしてしまおうかと思うほど。
刻一刻と貴重な時間は過ぎていった。
「はい、では必ず面談時に申し伝えますので、明日はよろしくお願いします」
『はい、お願いしますね。……もっと私達保護者に真摯に向き合ってくださいね』
「大変申し訳ございません」
『もういいです、失礼します』
受話器を置いて、明日出勤の講師に電話の内容をまとめたチャットを飛ばす。
時計を見ると、終電までもう時間がなかった。何かで口を塞がないと愚痴と舌打ちが止まりそうになかったから、殆ど残ってない缶コーヒーを一口煽った。
スマホを見る。妻から何件かメッセージが来ていた。
【今日は遅くなりそう?】
【純也が明日の遊園地楽しみにしています♪】
【まだ仕事?】
【明日大丈夫だよね?】
【先に寝てます】
堪らない気持ちになったのでもう一口コーヒーを飲んだ。気分はまったく落ち着かない。
ふと、一之瀬と徹夜をした日を思い出す。
奴は愚痴ひとつ溢さず楽しそうに仕事をしていたな。
なぁ、一之瀬。
俺は何度も言ったよな?講師としての範疇を超えるなって。スタンドプレーをするならこの学習塾の看板を背負わず一人でやってくれって。
誰も居ない、もう日を跨ごうとしている執務室を見渡す。
受験の天王山、講師陣は誰も彼もが余裕がない。
そんな中で去年のお前が、『主人公様』が成し遂げたことが重くのしかかっていた。
さっきのような電話は珍しくない。
保護者は決まってこう言うんだ。「一之瀬さんならやってくれた」と。
その対応は今いる講師の負担になってる。お陰で俺は息子の誕生日に家に帰れなかった。
塾長は本部にガン詰めされてるよ。去年と同じ結果を出せって。お前が自分の時間全てを投げ打って出した成果を、今年も出せって言われてるよ。
なあ、一之瀬。双海のことを覚えているか。お前とずっと一緒に仕事をして、最終的にはお前が最も信頼を寄せていた講師だよな。
知ってるか、一之瀬。
双海は今休職している。
お前が最も信頼している塾講師は、木っ端微塵に壊れたんだ。
お前のいいところも悪いところも全て真似して、生徒第一で四六時中働いたあいつは、休日も勤務時間外も生徒のトラブルに首を突っ込み、やがて壊れた。
自分のことを蔑ろにし続けた結果鬱になったんだよ。
なぁ、一之瀬。
知ってるか、一之瀬。
誰も彼もがお前みたいには働けない。自分を捨てて生徒第一では動けない。誰にだって生活があって、その上に成り立っているのが仕事なんだよ。
お前が仕事としての役割を超えて成し遂げた成果を、組織と保護者はずっと求めてくるんだよ。
双海が病んで、塾長が上に詰められて、俺は家に帰れない。
こんな夏の夜をあいつは想像出来てたんだろうか。
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