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「僕、三月でこの塾を辞めようと思ってます」
三月頭の執務室、一之瀬が講師陣を集めてそう言ったとき、俺以外の全員が目を丸くして驚きの声をあげていた。
一之瀬とよく一緒だった新人の双海なんかは涙目になりながら一之瀬に詰め寄っていた。
「ど、どういうことですか一之瀬さん!」
「悪いな双海、もう決めたことだ」
「一之瀬さんこの塾に来た時言いましたよね!この塾に通う生徒を一人残らず合格させるって!約束破るんですか!?」
「その約束は、お前が叶えるんだ」
「一之瀬さん……」
「大丈夫、双海ならやれる。俺が最も信頼する塾講師なんだから」
双海が涙を流しながら一之瀬に寄りかかる。そしてその場にいる全員は一之瀬の一挙手一投足に注目する。いつもこうだ、何かするたびに一之瀬は輪の中心で、あいつの言葉に皆感情を揺さぶられる。
まるで漫画の『主人公』だ。
「僕、昔から学校の先生になるのが夢だったんです」
双海を宥めながら一之瀬は自分の夢を堂々と語る。次々に出てくるやつの教育論、生徒への熱い思いに皆が涙し一之瀬との別れを惜しんだ。
確かにあいつほど生徒思いの塾講師は見たことがない。
塾の外や通っている小学校の問題にも首を突っ込み、時には小学校教師、時には保護者を敵に回して生徒の気持ちを救ってきた。
勤務時間も厭わずに。
一之瀬は輪の中心でまだ喋っている。自分の夢を掲げた後、各講師との思い出を語り始めた。
「松本さんには色々叱られました。講師の範疇を超えるんじゃないと言われて反発したこともありました。今なら貴方の言葉がわかります。貴方の厳しさに多くのことを学ばせて頂きました。今までありがとうございます」
あいつが俺の前に来て深々と頭を下げる。俺はそんなことはやめてくれといい、最後は二人で握手を交わした。
犬猿の中だった俺たち二人が握手をしたことに周りの講師陣が驚きの声を漏らし、その後自然と拍手が起こった。
まるで物語の最終話だ。
一つ確かなことがある。あいつはとてもいい奴だ。俺もあいつの人間性は嫌いじゃない。性格は良いし顔もイケメン、おまけに講師としての腕前もとんでもない。俺の息子の勉強を見てもらうなら、講師は絶対一之瀬がいい。俺なんかよりよっぽど良い講師だ。
でも、同僚としてはもう二度と一緒に働きたくない。
なぁ、一之瀬。
知ってるか、一之瀬。
最終話の後も俺たちの生活は続くんだ。
お前以外の周りにだって、当たり前のように生活があるんだよ。
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