Prologue

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 喧騒に溢れた大通りから小径に入って10分ほど、歩く。  家、家、夏の濃い緑が繁った空き地、家、小洒落たカフェが入ったビル、マンション、そしてまた空き地。駅近で繁華街と言って差し支えない立地なのに、一本道を内に入っただけでこんなにも空気が違う。木が多い。夏の濃い緑の匂いが強い。じぃじぃと鳴く蝉は夏の風物詩だ。私は流れる汗をそのままにして足を進めた。目的地はもう、すぐそこだ。  その小さな建物に窓はない。  けれど、閉塞感はない。  私はそのギャラリーを初めての個展会場に決めた。  エントランス側は一面ガラス張りになっていて、ギャラリーのいちばん奥に居ても、緑あふれる向かいの公園がよく見える。それが良かった。公園。緑でいっぱいの。今日も樹々が葉を広げて痛いほどの夏の日差しを受け止めている。夏の緑は、深い。息をすぅーと吸い込むと、夏の匂いが胸いっぱいに広がりそうだ。まぁ、実際はエアコンの乾いた空気が肺に満ちるだけだけれど。私はふうとひとつ息を吐いて、壁に向き直った。一歩、二歩、下がって全体を見渡す。白い壁に飾った絵を眺めていく。ひとつ、ひとつと、順に。目を動かす。  今の、私の、絵。   個展の開催は明日からだ。でも最終準備日の今日の方が緊張していて、明日は意外と泰然と構えていられる気がする。たいがいのことは始まってしまいさえすればなんとかなるものだ。私は、絵の位置をああでもない、こうでもないと、並べ替えたり、やっぱり違う絵の方がいいのかも知れないと、別の絵に変えて、また、戻したり、タイトルを付け直したり、そんなことを繰り返して数時間をすごした。きゅう、と、お腹がなる。何か食べに行こうと、入り口のガラス戸を開けた。一歩足を出すだけで、湿度の高い熱い空気がむわっと肌に纏わりついてくる。冷房で冷えた体に熱気が心地いい。蝉は来るときと変わらずジージー、ミンミンと元気な合唱を続けている。私は胸をそらし、ぐっと体を伸ばして空を見た。とじわりと滲んだ汗がこめかみを伝って落ちる。青い空には真っ白な入道雲。夏……だ。なんて鮮やかなんだろう。  『みなちゃん』    彼が呼ぶ僕の名前がとても好きだった。アイスをよく半分こにした。彼はいつも右足から靴から履いていた。玄関に置かれた大きな汚れたスニーカー。僕に触れた、手。一緒に歩いた、道。かさかさ鳴るスーパーの袋。思い出とるにたらないことばかり。でも、そのわずかな想い出が、今の私を作っている。
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