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「駅前に新しいカフェができたんだって」
隣の席の和泉は唐突にそう言って、左手のチュロスを一口齧る。僕は本に栞を挟んだ。
教室内はエアコンが効いていて夏場と何ら変わりない。季節を感じるとすれば、僕と彼女の制服が半袖から長袖に変わったことくらいか。
「へえ、どんなカフェ?」
「カフェ自体はビルの十七階にあるんだけど、入口は一階にあってね。入口から店まで坂道と岩場が続いてて、プチ登山体験ができるらしいよ」
「過酷すぎだろ」
なんだそれ。ちょっとお茶でも、って気持ちで入るにはハードル高すぎないか。
「でも秋はね、すっごく紅葉が綺麗なんだって。あと店長おすすめメニューのマロンカプチーノもおいしそうなの」
「僕はコーヒー頼むけど」
「二宮くんはコーヒーに溺れたらいいんだ」
和泉は呪詛を唱えるように言って、ぱくりとチュロスをまた一口齧る。
その様子を見て苦笑しながら「じゃあ」と僕は提案した。
「じゃあもしそのマロンカプチーノがおいしかったら僕におすすめしてほしい」
「コーヒーしか頼まないのに?」
「和泉のおすすめなら信頼できるから」
「……仕方ないなあ。じゃあおいしかったら一口あげるよ」
言葉とは裏腹に嬉しそうな笑みを浮かべる彼女。わかりやすいな、と僕も笑う。
しかし和泉のおすすめを信用しているのは本当だった。彼女が「これ二宮くん好きだと思う」と持ってきたものにハズレがないのだ。
彼女のおかげで僕の好きなものは増えていき、僕の世界は広がった。
ちゃんと生きる、ってのは色々あるんだな。
「でも、登山か……」
「いい汗かいた後のカフェは格別かもよ」
「コーヒーよりスポドリのほうが嬉しくないか?」
「良い景色見ながらカプチーノ飲めるの最高じゃん」
彼女は話しながら食べ終えたチュロスの包み紙を固く結んだ。
そして立ち上がりゴミ箱まで歩み寄ると、置くようにそっと入れる。そういえば最近シュート見てないな、とふと気付いた。
それから振り返って、和泉は僕と目を合わせる。
「ね、行こ」
彼女は微笑む。それを見た僕はいつものように言葉を失う。
二宮くんは選んでるんだよ、と和泉は以前言っていたが、この瞬間の僕に選択肢はなかった。
「……いいよ」
僕が頷くと、彼女は「やった」と笑みを深くした。それだけで僕の心は満たされてしまう。
ああ、まったく。
どうやらこの魔法はまだしばらく解けそうにない。
(了)
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