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「旅行の前日はわくわくして眠れなくなるって言うけど、あれ絶対嘘だよね。むしろわくわくし疲れて眠くない?」 「でも授業中くらいは起きとけよ」  左手のショコラデニッシュを口に運びながら、和泉は隣の席で問題を解いていた。四時限目の数学の授業で居眠りしていた彼女に課せられたペナルティだ。  外では雨が降っており、今日はいつもより少し教室内が騒がしい。 「あーなんで数学なんてあるんだろ」 「役に立つからだろ」 「何の役に立つのよこれ。日常生活で数学とか使わないでしょ」 「日常生活じゃなくて、今後の人生にだよ」  僕は手元の文庫本をぱらぱらと捲る。各ページにはびっしりと文字が印刷されており、いくつかの漢字にはルビが振られていた。わざわざ難しい漢字を憶えなくたって小説は読める。 「芸術的才能がなくても勉強ができればいい大学に入れる。いい大学に入ればいい会社に入れる可能性が高まるだろ。それが良いか悪いかはわからないけどさ、今の日本じゃ学歴は凡人でも手に入れられるアピールポイントだ」  僕は天才じゃない。だから勉強する。それだけだ。  そう言い終えると二人の間に沈黙が流れた。エアコンが音を立てて稼働し、季節や天気を忘れさせようとする。ここは風流とは程遠い場所だな。 「二宮くんはちゃんとしてるよね」  隣を見れば、彼女はペンを止めてこちらを見ていた。目が合う。 「予定はちゃんと立てるし」 「夏の夜に一人で彷徨(さまよ)いたくなかっただけだ」 「授業中はちゃんと起きてるし」 「怒られたくないからな」 「毎日ちゃんと生きてるし」 「もう褒めるとこ無くなってんだろ。てか別に全部褒めてないか」  まあ生きてるだけで褒められるなら苦労しないよな。  そんな僕の思いとは裏腹に、和泉は真っ直ぐな眼差しで言った。 「褒めてるよ」  そして彼女は一度だけ(まばた)きをする。  ぱちり、と音が聞こえた。 「二宮くんが言う『それだけ』が私には光って見える」  その言葉は僕の中に優しく響いて、あたたかく広がっていく。  嬉しいとか恥ずかしいとかこそばゆいとか、そういう気持ちをごちゃ混ぜにしたものが喉に詰まって言葉が出ない。 「……そっか」 「うん」  なんと言えばいいかわからなかった僕を置いて、言いたいことは言ったとばかりに彼女は問題の続きを解き始めた。左手には食べかけのデニッシュが揺れている。  今の僕なら、見事な放物線を描くシュートを決められる気がした。  
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