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第一話
春。吉原の桜は美しく咲き誇る。ここの桜は実らない。ここは嘘の国。だから、実が無い。
日々、男は欲を満たす為に女を買う。それが繰り返される妓楼街。夜見世の始まる時分だから、三味の音が囃したてている。張見世に居並んだ女達はどれも綺麗だ。大行灯で照らされた化粧て白い顔に朱がさしこみ、綺麗さに拍車をかけている。愛らしい顔の者もいれば、不細工の者もいる。ここはそういうところ、好きな相方を見つけて、一晩しっぽりすりゃあ良い。
で、おれは女を買いにこの辺りを歩いているわけではない。ただの往診の帰りだ。おれは医者だから、方々の妓楼から声をかけられる。やれ女郎が指を切っただの、心中をはかっただの、色々なことが目まぐるしく起こる。それがやっと落ち着いての、帰り道だ。
さすがに大見世には多くの女郎がいる。それだけに、好みの相方を見つけるのも容易くなる。だが、ここは見世が大きいだけあって、女のお勤め代もそれなりにはするだろう。妓夫に声をかけて値を聞いた男が「下直だな、アッハッハ」と言いながら引き下がっていった。高くて買えやしなかったんだろうな。
おれはこうした人の生活を見るのが好きだ。人が生きていることを感じる。人々の息や声、すべてが心地良かった。病なんてなければ良い。医者なんていないほうが良い。そう思いながら歩く。薬箱がカラカラ鳴った。使わなかった丸薬が転がっているようだ。亡くなった者には、薬は必要無い。何度も「ありがとうございました」と言われた。お礼なんて言われるようなことはしていない。おれは、助けられなかった。また、ひとり、仏さんになっちまった。
涙は見せない。泣いたら、止まらなくなるから。苦しいけど、笑うしかない。そうしておかないと、皆が、心配する。これから診る患者だって、これから出会う人にだって、これから生きていく人にも、誰にも心配されないように、笑う。おれは、笑っていないと、いけない。
にゃあ、と猫の声がした。白い猫が青い目をこっちに向けている。これは、幼馴染の小焼の伯母――おつるさんが飼っている猫だ。猫は何度も鳴く。おれについて来いと言っているようだった。
足先をそちらに向ける。猫が駆ける。ああ、やっぱり、ついて来いってことだったのか。猫を追っていく。人の波に逆らうように、猫は人の隙間を縫っていく。おれは肩がぶつからないように避けるのに必死だ。こういう時、赤い目の鬼なら一瞬で道が開くんだろうな、なんて思って幼馴染に怒られる自分を幻視した。
猫が座っているのは、小見世の前だ。いすゞ屋、と書かれている。何でこんなところに? 張見世に猫が入ろうとする。頭が入ればなんなく中に入れる。だからって、ここに入るのは駄目だろう。捕まえようとしたら、目の前に白い手が見えた。猫は女郎に抱えられていた。
「あんた、この猫の飼い主かい?」
「いや、おれは飼い主じゃねぇけど……」
顔を上げる。キッとつりあがった目に意志の強さを感じる。濡れたような艶やかな髪を両兵庫に結っている女だった。目の下にほくろがある。それがまた婀娜っぽい。少し、気が悪くなる。そういや最近ご無沙汰だったな。
「……なんか、どっかで見たことある顔だね?」
「あー、おれ、この辺よく通るからな」
「いや。ああ、思い出した。あんた、医者だ! 名前は、夏樹。伊織屋の若旦那様だろ?」
「お、おう。よくわかったな。そうだよ」
「わちきの妹を看取ってくれたろ? ほら、ともゑ屋にいたろ、深川って子さ」
「っ、あ、ああ、そっか……。あんた、深川の、姉ちゃんか」
どういう顔をすれば良いかわからない。深川を、おれは助けられなかった。苦しむだけ苦しませて、亡くした。血を吐いて、苦しかったろうにな。目に涙が溜まってくる。頭を振って、気をしっかりする。駄目だ。こんなところで。
「泣きたいなら泣けば良いさ。そうだ、夏樹せんせ、馴染みの見世が無いならわちきと遊んでくんなよ」
「あ、はは。遊ぶ、なぁ……」
「ここ小見世だろ? 端っこにあるもんだから、滅多に客が来ないのさ。わちきを助けると思ってあがってくんなよ。医者は人助けするもんだろ」
これが、おれと春日の奇妙な出会いだった。
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