第二話

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第二話

 見世の暖簾(のれん)をくぐる。見世番(みせばん)遣手(やりて)、それからさっきの女郎がいた。 「いやぁ、夏樹先生。ようこそおいでくんなまし。先生ほどの名医がうちのような小見世に来てくださったなら、評判も上がりやすよ」 「あはは、おれは名医でもねぇよ。ただのしがない町医者ってところさ」 「あいあい。さあさ、こちらにどうぞどうぞ! 春日! 粗相のないようにね!」 「わかっておりんすよ」  女郎の名前は春日というらしい。細見を読んでいたわけではないから、どんな名前の女郎だとかもよくわからない。身代金(みのしろきん)もいくらだか。お勤めさせるのだから、それなりには取るだろう。何で聞かずにあがっちまったかなぁ……。うっかりしちまったや。  おそらく、春日の部屋だと思う。きっちり片付いた部屋には飾り箪笥。鏡台や化粧箱、他には琴が立てかけてあった。あまり広くはないが、部屋持ちなのだから、この見世の御職(おしょく)なのかもしれない。  客として女郎の部屋にあがったことはないので、なんだか新鮮な気持ちがする。往診には来るけど、こうやって女郎と飲むのは初めてだ。様式的に盃を酌み交わし、遣手は下がった。部屋に残されたのは、春日とおれだけだ。 「で、改めて挨拶しとこうか。わちきは、春日でありんす。どうぞよしなに」 「お、おう。おれは夏樹。言わなくても知ってたっぽいけど、養生所の医者だよ。あと、薬問屋伊織屋の息子だ」  改めて自己紹介をする。春日は今年で二十二歳になるそうだ。おれより六つ下か。生まれは北の方だと言った。冬は雪深くて寒い地域だったと言う。女郎の身の上話はたいていが嘘だと聞いたことがある。どこまでが本当かわからない。だが、信じてもらえないのもつらいと思う。おれは、信じてやりたいな。  紫煙が舞う。春日の吸っている煙草の煙だ。煙管の先からふわふわ、舞っていた。おれも吸いたくなってきたな。 「なあ、それ、おれにもくれ」 「おや? 夏樹せんせ、イケる口なのかい?」 「おう、煙草はよく吸うよ。肺が悪い奴が近くにいなかったらな」  春日から煙管を受け取る。吸い付けだかなんだか、客と女郎がこうやって一つの煙管で煙草を呑むってのが流行ってると聞いたことがある。  ゆっくり吸う。口に煙を溜めて、呑み込む。それから吹いた。クセの無い味がした。独特の苦味はあるけれど、後味にはすっきりしている。かと言って甘いわけでも喉にカッとくる重さがあるわけでもない。良い調合をされた煙草だった。他の女郎が吸ってるのを貰ったこともあるが、甘くてあまり好みではなかった。けど、春日の煙草は辛めで重みがある。 「けっこう重めの煙草を吸ってんだな」 「他所の女郎は甘いやつを吸ってるけど、わちきはこれぐらいないとね。夏樹せんせには重かったかい?」 「いいや、おれはこれくらいのが好きだよ。自分で調合もしてっけど、こういう混ぜ方も良いな。今度真似してみるか」 「真似したら、わちきにくんなよ」 「ああ、そのつもりだよ」  と、返せば春日は笑っていた。  すぐ横に座り、空になった猪口(ちょこ)に酒を注いでくれる。煙管を返して、酒を飲む。これも辛口の酒だった。濃い目の味わいで後味に僅かな苦味がある。さらっとした飲み口でキレがあり、淡麗だった。ふと、太腿を撫でる手に気付く。ぞわっと、刺激が腰を這い上がる。 「せんせ、見世先での話の続きしようか。泣きたいなら、泣けば良いさ。医者ってのは、大変だろ?」 「っ、そりゃあな」 「深川ーーいいや、おみつはね、夏樹せんせが診てくれて良かったと思ってるよ。流行病(はやりやまい)だからって見捨てず、最期まで看取ってくれたってね。あの子はしあわせもんだよ。きちんと最期まで付き合ってもらえたんだから」 「でも、おれは……助けられなかったんだ……」 「結果的にはそうだ。でもさ、せんせ。あんたのお蔭で、助かった人もいるそうだよ」  助かった人もいる。助からなかった人もいる。おれが助けられなかった人もいる。あともう少し早くわかっていたら、助けられた。怪我人も、病人も、一手遅いだけで、それだけ死んじまう。おれがもう少し学んでいたら、助けられたかもしれない。おれがもう少し早く来ていたら、助かったかもしれない。春日の顔が滲んで見える。頬が濡れる。手が、頬に添えられる。 「そうさ、泣けば良いさ。夏樹せんせは、よくやってんだから」 「おれ、は……っ……、…………」 「よしよし、泣きな泣きな。ほらほら、わちきの胸を貸してあげるよ」  腕を引かれ、倒れこむ。胸の谷間に埋まるように頭を抱えられた。少し、苦しい。滝のようにどっと流れだした涙が止まらない。さすがに声をあげることはできないけれど、なんだか胸に突っかかっていたものが取れた気がした。  胸がやわらかいからか、肌から甘い香りがするからか、両方だからかわからねぇけど、さっき太腿を撫でられていたこともあってか気が悪くなる。片袖で涙を拭い、片手で胸を掴んだ。やわらかい、かなり。って、いきなり掴んだら駄目だな。慌てて手を離す。 「ンッ、泣いてすっきりしたから、コッチもすっきりしたいって?」 「いや、初会だから、床入れはしないんだろ。ちょっと触りたくなったから、つい。わりぃな」 「うちは小見世だから、そういうの、あんまりきっちりしてないさ。夏樹せんせぐらいさ、そうやって『初会だから』とか言うの」 「あはは、そっか」 「……それに、得手吉(えてきち)が、こんなになってんのに、そのまま帰らせたりしたら、わちきの技が悪いのかと思われちまうよ。さっ、せんせ。今夜はたんと遊んでいきな」  爪先でおれの脚の付け根を撫でた後、春日は布団に座り、簪を引き抜いた。
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