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 静流ちゃんは昇が好き。昇は静流ちゃんが好き。私は昇が好き。翔は私のことを好きだと言った。  四方向の気持ちは、おそらく四人全員が分かっていた。でも翔は私への気持ちを絶対に口にしなかったし、これから先も口にすることは無いと思っていた。それは、翔が優しいから。  本当は泣き止んだ後すぐに仕事に戻るべきだった。昇に受け入れて貰えないことは始めから分かっていた。だからどれだけ悲しくてもいつも通りそれを受け入れて、いつも通りの顔をして仕事に戻るべきだった。翔がいつも通り優しく、ただ慰めてくれるだけだったのなら、そうすることが出来たと思う。 ――好きだよ、茜。 昇も、私が好きだと言う度にこんな気持ちになっていたのだろうか。そんなとこ言わないで、と。そんなことを言わないでいてくれたら、私はこれからも優しい翔に甘えながら一緒に過ごしていけたのに。···なんて酷い。ずっと翔を傷付けながら過ごして来たことは心の底では分かっていた。昇が私に対してしていることを私は残酷だと思っていたのに、同じ事を私は翔にずっとし続けて来たのだ。  翔が黙って部屋を出て行った後、私は逃げるように青井家をあとにした。まだ十時前。外は明るく、お使いでもないのに制服を着て歩いていることに酷く罪悪感を覚えた。でも今は会社に戻れない。青井家にいることも出来ない。うまくいかなくなった時、私は正面から立ち向かって行くことが出来ない。  家に着くと庭先に婆ちゃんが居た。 「どうしたの、茜ちゃん。」 婆ちゃんは慌てて駆け寄って来た。 「···ちょっと気分悪くて。早退して来た。」 私の両手を、婆ちゃんは冷たい両手で優しく擦る。 「そうかい。じゃあ横になっといで。ちゃんと寝るとね、体も気持ちも楽になるよ。」 ボロボロと泣く私に婆ちゃんは何も聞かなかった。  頭まで布団を被ってきつく目を閉じた。目を閉じても、さっきの昇の顔が、翔の声が、離れない。何が悲しくて泣いているのか分からない。ただこうやって泣いて逃げている私は、誰よりも狡くて卑怯に思えた。  青井兄弟との出会いはもう二十年以上前。私は出会った時の事を覚えていない。物心ついた頃には当たり前のように二人がそこにいた。  始めから翔は私に優しかったわけではないし、私も翔に甘えていたわけではない。おばさんとうちの母さんの仲が良くて、なんとなく私達も一緒にいた。それだけ。絵本や図鑑ばっかり読んでいる翔は、話しかけても返事をしてくれないことが多くてつまらなかった。私は公園に出掛けたり、外でボールや縄跳びをして遊んだりしたかった。それに付き合ってくれたのは小学生だった昇。面倒くさそうにしながらも私を外に連れ出してくれた。時々笑ってくれるのが嬉しくて、昇を笑わせるために目一杯お喋りをした。あの頃は、ちゃんと返事をしてくれていた。楽しくて愛しくてかけがえのない時間だった。  私と翔は小学校に入学し、同じクラスになった。教室でも翔の様子は家にいる時と変わらない。休み時間になれば、持ってきた本や図書室で借りた本を座ってじっと読んでいる。集中していると周りの声が聞こえないらしく、授業が始まったことにも気付かず先生によく注意されていた。私は、翔がそういう子だと分かっていたけれど周りは翔に対してそれ程寛容ではいてくれなかった。クラス内で班決めをする時に、先生は「好きな子同士」と言う。それは翔をひとりぼっちにさせる言葉だ。クラスメイトが班決めのためにざわついている中、翔はじっと本を読む。何とも思っていないのかもしれない。後で入れる班に入れば良いと思っているのかもしれない。私は同じ班になろうとしていた女子の話をなんとなく聞きながら、翔を見ていた。ほんの少し顔を上げた翔の目はとても不安げだった。眼鏡の奥の大きな目が揺れている気がした。やっぱり平気なわけがない。翔は悪い子じゃない。物知りで賢いし、話すと優しい。絶対に誰かのことを悪く言わないし、人のせいにもしない。 ――翔、こっちおいでよ。 嫌がられたら無理矢理にでも引っ張っていこうとしたけれど、全く抵抗されなかった。 ――ありがとう、茜。 小さな声でそう言った翔は嬉しそうに笑っていた。それからなんとなく翔のことを放っておけず、登下校は毎日一緒にしたし学校でもよく話すようになった。こっちから心を開けば、翔はちゃんと応えてくれる。昇といるとドキドキワクワクした。翔といると落ち着いた。青井兄弟と過ごす時間は、私にとってかけがえのないものだった。  勉強が出来た翔は、運動も卒なくこなしていた。走るのも速いし、球技だって上手い。ただ本人に目立とうとする意思が全く無かった。先生が公表しない限り翔のテストがいつも満点だったことは皆知らなかっただろうし、球技でチーム戦をする時に翔がいるチームが必ず勝つことも皆が気付いていたかどうかは分からない。いろんなことが出来るのに翔は何一つ自慢しなかったし、翔自身がそれを凄い事だと思っているように見えなかった。いつも昇と自分を比べている気がした。昇より勉強が出来るのに、昇より得意な運動もあったのに。野球をしている昇を、手先の器用な昇をいつも羨ましそうに見ていた。翔の凄い所を褒めても翔はあまり喜ばない。その理由になんとなく気がついたのはおばさんがいなくなる少し前だった。  翔はおじさんの前だと少し緊張している。ほんの少し背筋を伸ばす。そして昇とおじさんが一緒にいる所を少し離れた所からただ見ている。そんな翔の姿を、後ろからおばさんが静かに見ていた。  おじさんは優しかった。学校帰りに翔と一緒に工場に寄る私にもとても良くしてくれた。もちろん昇にも翔にも優しかった。分け隔てなく···そう見えていたけれど、本当は昇が一番で翔は二番だった。昇を褒める時、「さすが俺の子だ」と言う。でも翔を褒める時はそう言わない。昇と翔のお母さんが違うことは知っていたけれど、それが原因なのか単におじさんの中で兄弟に優劣があるのかは分からなかった。翔は昔からその兄弟間の差を痛い程に理解していた。だから自分に無くて、昇にある物が欲しかったのだと思う。  昇も恐らく、翔との間に出来ていた壁に気付いていた。でも何も言わなかったし、どうにかする事も出来なかったと思う。おばさんだけが、翔の気持ちをちゃんと分かってあげていたと思う。翔とおばさんの間には壁が無かった。でも、おばさんは翔を残して居なくなった。  熱が出た翔を、おじさんも昇も私も救ってあげることが出来なかった。おじさんと昇も、おばさんが居なくなった現実を受け入れるので精一杯だったのだと思う。でも私は違う。ちゃんと翔を救ってあげなくちゃいけなかった。翔は何度も私を助けてくれた。九九が覚えられなくて居残りさせられた時。友達と喧嘩した時。クラスメイトに虐められそうになった時。爺ちゃんが死んだ時。いつも翔がいた。私の腕にそっと触れて言う。 ――大丈夫だよ。 翔にそう言われると安心した。大丈夫かもしれないと思えた。なのに私は、翔を救う光にはなれなかった。  静流ちゃんが現れて世界は変わった。翔は静流ちゃんに救われて、昇にとっても光になった。おばさんは翔だけの光だった。でも静流ちゃんは違う。  おじさんの一番は昇。静流ちゃんの一番は昇。私の一番は昇。昇ばかりが一番になる世界で、翔はどんな気持ちで居たのだろう。それでも私は、昇の事が好きだった。  どれくらい時間が経ったのか、目を開けると被っていたはずの布団は胸辺りまで下がっていた。十二時少し前。一時間以上は眠っていたようだった。昼休みになったら昇から連絡が来るかもしれない。いや、まず家を見に行くだろう。十二時を過ぎるのを待って、私は会社に電話を掛けた。 「はい、青井鉄工所です。」 ワンコールで熊田さんが電話に出た。 「···笹島です。」 「おう。大丈夫か、お前。」 「···すみません。」 「社長が今様子見に行ったけど、会ったか?」 やっぱり昇は家に様子を見に行ったようだ。青井家に私の姿が無ければ、後で連絡が来ていたかもしれない。 「いえ、もう自宅なので。」 「そうか。で、いつまで休む?」 私達の状況をどこまで分かっているのか、熊田さんはそう尋ねた。 「お前、今年の有給一回も使ってないだろ。もう年末は仕事も大してねぇからこのまま冬休み入って良いぞ。」 私の返事を待たずにそう言った。明後日まで休み。そしてそのまま年末年始の休みに入る。そんなに逃げて良いのだろうか。 「···あの、」 「茜。たまには休め。」 熊田さんは時々、有無を言わさない物言いをする。厳つい顔で大きな声。人をからかうのが好きで、ちょっとウザい。でも優しい。 「事務で何か分からんことがあったら電話するからな。」 「···はい。ありがとうございます。」 また涙が出そうになるのを堪えて電話を切った。  眠ったつもりだったけれど、目の下の大きなクマは全く消えていなかった。頭がボーっとする。でも熱は無いし、咳も鼻水も風邪のような症状は何も無い。スウェットのまま部屋を出ると、味噌汁の匂いがした。 「おはよう、茜ちゃん。」 キッチンには婆ちゃんがいた。父さんも母さんももう仕事に出ている時間だった。 「ごはんはどれくらい?」 食べるか食べないかじゃない。食べる前提で婆ちゃんは尋ねる。 「···ちょっとだけ。」 「はいはい。じゃああっち座って待ってて。」 忙しい親の代わりに、ご飯を作って私の話し相手になってくれるのは昔から婆ちゃんだった。世話は焼きたがるけれど、しつこく話を聞き出そうとは絶対にしない。いつも私から話し出すのを待っていてくれる。 「今日の沢庵はおいしいよ。」 庭の畑で採れた大根を使って婆ちゃんは毎年沢庵を漬ける。炬燵に入った私の前に並べられたのは、小盛りのご飯と野菜たっぷりの味噌汁、甘い卵焼きと沢庵だった。何もしなくても温かくておいしいご飯が食べられて、家の中は掃除されていて服も洗濯されている。私にとっては当たり前の日常だけれど、おばさんが居なくなってからの青井家はそうじゃない。  ただ家の中でボーっと過ごした。婆ちゃんは家の中や外をうろうろしている。平日の日中はいつもこんなふうに過ごしているらしい。特別なことは何も話さない。「夕飯は何が食べたい?」とか「外が冷えてきた」とか、そんなことばかり。  昨日の昇と翔の顔が時々浮かぶ。私は逃げた。どんな顔をして二人に会えば良いのだろう。昨日のことは無かったことにして、翔の気持ちを無視しながら昇を追い掛ける日々に戻れば良いのだろうか。部屋に置きっぱなしになっている携帯電話は、時々確認しても誰からの着信も無い。家族と、昇と翔以外私には何も無い。  有給休暇をほぼ何もせずに終え、年末年始の休みに入った。父さんは明後日まで仕事らしいけれど、母さんは今日から休みだった。 「元気なら掃除手伝って。」 窓ふき用の雑巾とバケツを渡されて二階に追いやられた。古い家だけど、家の中は婆ちゃんが毎日綺麗にしてくれている。こういう窓とか高い所等普段やらない所だけを毎年母さん先導で掃除するのが恒例だった。ボサボサの髪を一つに結んで、部屋から一番分厚いパーカーを持ってくる。二階の部屋の窓を全て開け放ち、冷たい水に浸した雑巾を絞ろうとした時、部屋で携帯電話の着信音が鳴っているのに気が付いた。  画面には‘青井鉄工所’の文字。今日はもう休みのはずなのに。誰からの電話なのか分からないままその電話に出ようとした私の頭の中には、昇の顔しか浮かんでいなかった。 「···もしもし。笹島です。」 「おう、茜!」 携帯電話を耳から遠ざけたくなるような大音量。 「どうだ、元気になったか?」 「あ、はい。お陰様で。仕事、すみませんでした。」 「その仕事なんだがよ。悪いけど、ちょっと来れるか?年始早々に必要なもんの確認を急ぎでやりたいんだが。俺じゃ分からんことがあってな。」 昨日で仕事納めだったというのに、熊田さんは工場にいるようだった。 「今からですか?」 面倒くさいからそう尋ねたわけじゃない。 「そうだ。」 「あの···」 昇は、社長は居るのかどうか尋ねようかと思った。居てほしいのか居てほしくないのかは分からない。 「社長はいない。」 先に熊田さんはそう言った。 「さっきここに来る時に、翔と二人で車で出掛けるのを見たぞ。だから家にも居ないな。」 安心したような、でもどこかがっかりしている自分がいた。顔は合わせづらいけれど、仕事としてなら会える気もした。でも今そこに昇が居ないのなら、年明けに仕事で会うまできっと私は会えないだろう。 「分かりました。今から行きます。」 着たばかりのパーカーを脱いで外着に着替える。一階の掃除をしていた母さんに雑巾とバケツを返して外に出た。昼を過ぎて少しは暖かくなってきたけれど今日も外は寒い。  工場までは徒歩三分。青井家までの距離と同じだ。熊田さんがさっき言っていた通り、青井家に車は停まっていない。二人揃ってどこへ行ったのだろう。普段昇と翔が二人で出掛けることはあまり無い。買い物はそれぞれ休みの日に行っているようだし、どこかに遊びに行くなんてことはあの二人はしないだろう。翔の体調が悪化して病院に行ったのだろうか。おばさんが亡くなったことに何か関係のあることなのだろうか。聞けば答えてくれる。でも聞かなければ、私は何も知らない。 「お疲れ様です。」 誰も居ない機械室を通り抜けて事務所の扉を開けた。 「おう、来たか!悪かったな。」 休日のはずなのに熊田さんは作業着姿で、私服で来た私が場違いのような気がした。 「制服で来た方が良かったですか?」 「なんでだよ。今日休みだろ。」 「だって熊田さん作業着だから。」 「俺は良いんだよ。」 「···私服、ダサいんですか?」 「うるせー。」 そう言って立ち上がった熊田さんは事務所の奥にある冷蔵庫を開けて缶ジュースを一本取り出した。 「今日の給料な。前払い。」 扉の前に立ったままの私に差し出した。外の寒さで体の芯まで冷えているのに、冷蔵庫でよく冷やされたりんごジュースを渡された。 「なんでりんごジュース?」 「好きだっただろ、それ。」 「何年前の話をしてるんですか。」 「俺の中では二、三年前くらいだな。」 まだおばさんがいた頃、翔と一緒に学校帰りにここに寄っていた。宿題をしているとお菓子やジュースが貰えて、このりんごジュースは会社宛てにお歳暮で届いた時しか飲めない物だった。おばさんと平田さんが翔と私のためにいつも箱ごととっておいてくれていた。翔がオレンジジュース。私がりんごジュース。今思えば、翔はオレンジジュースが好きだったわけじゃなくて、私にりんごジュースをいつも譲ってくれていたのかもしれない。 「あの頃は平和だったな。」 そう言って熊田さんは、自分のデスクの上にある飲みかけの缶コーヒーを一口飲んだ。私もそう思う。昇と翔がいて、おじさんとおばさんが笑ってて、熊田さんも平田さんも優しくて、私自身そんな大きな問題も無く毎日呑気に暮らしていた。心を掻き乱されるような出来事は無かったように思う。おばさんがいなくなって、静流ちゃんが現れるまでは。  電話で熊田さんが言っていた急ぎの確認は十五分程で終わった。どれも私が先方に電話対応した件で、誰にも引き継がないまま休んでしまっていた。 「悪かったな。休みなのに。」 「いえ、私こそ中途半端にしていてすみませんでした。」 頭を下げると、大きな手が私の後頭部を覆った。 「茜。」 「···はい。」 「少しは休めたか?」 「···はい。」 「なら良い。」 心地の良い大きな手が離れて行った。 「お前はもう帰って良いぞ。俺はもう少ししたら帰る。」 「何かあるなら手伝いますけど。」 「いらん。俺の仕事だ。」 熊田さんは‘しっしっ’と私を追い払うように右手を動かした。 「···じゃあ帰ります。」 デスクに視線を落とした熊田さんとはもう目は合わなかった。見ていないことは分かっていたけれど、一応浅く頭を下げてから事務所を出た。機械室の方は寒かった。マフラーをきつく巻いて、誰もいない機械だらけの通路を歩いて行く。自分が勤めている場所なのに、ここは落ち着かない。昇を傷付けようとする人は皆いつだって敵に見えた。ずっと事務所に籠もっている私と違って、昇は就業時間の半分程はこっちで過ごす。いつもどんな気持ちでいるのだろう。これから先もこんな敵だらけの場所でずっと過ごしていくのだろうか。 ···ガッターン!!! 背後から大きな音がして、勢いよく振り返った。機械室ではなさそうだ。来た道を走って戻って、事務所の扉を開けた。 「···熊田さん?今の音って」 さっきまでデスクにいた熊田さんの姿が見えなくて、事務所の中へ足を進めた。 「熊田さん!!」 デスクの足元に熊田さんが倒れていた。 「大丈夫ですか?!」 私の声が届いているのか分からない。眉間に皺を寄せて目を固く閉じた熊田さんは、荒い呼吸と小さな呻き声を漏らすだけで返事をしない。左半身を下にして倒れている熊田さんの右肩を強めに何度も叩いた。 「熊田さん!熊田さん!」 返事は無い。ここには私と熊田さん以外誰も来ない。焦りと恐怖で涙が出そうになるのを必死に堪えて、震える手でなんとか三桁の番号を押した。
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