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翔
安藤さんの声は、電話越しだと静流ちゃんとよく似ていた。
静流ちゃんと電話で話したことは数える程しかないけれど、電話の出方と言うかその抑揚がそっくりだった。
連絡先を貰った翌日、火曜日の夜に電話を掛けた。兄さんも一緒に、静流ちゃんに貸していたという本を受け取りに行きたいと伝えると快く了承してくれた。そして急だったけれど、兄さんが年末年始の休みに入る今日会うことになった。僕も休みで、安藤さんも自宅にいるようだった。
普段以上に会話の無い半日を過ごして、昼食に兄さんが作った温かいうどんを食べた。僕の熱は解熱剤の力を借りずに自力で下がろうとはしない。ずっと治まらない頭痛と目眩にも徐々に慣れてきたように思う。
「そろそろ出るか。」
安藤さんとの約束の時間は午後一時半。安藤さんの家に伺うことになっていた。メモに書かれた住所は、静流ちゃんが通っていた高校の近くだった。この前安藤さんと会ったあの橋を渡った先にある街だ。
本を返すだけなら外で会えば良かった。近くに喫茶店や飲食店もある。でも安藤さんも僕もそんな案は出さなかった。今日がどんな日になるのか分からない。安藤さんは未だに兄さんを恨んでいるのだろうか。あの時のように責めるつもりなのだろうか。この前の様子からは、そんなことをしようとしているようには見えなかったけれど。僕は、そして兄さんは、再び安藤さんを前にした時どうするのだろう。静流ちゃんが持っていたという本をただ受け取って帰ってくるだけになるのだろうか。僕は、僕が知る事実と違う事実が安藤さんの家にあれば良いのにと思った。静流ちゃんが死んだ理由が本当は全く違うものだったとか、自殺ではなかったとか、妊娠なんてしていなかったとか。僕が見たあの悪夢が無かったことになるはずなんてないのに、それでもまだ光を求めていた。
「大丈夫か?」
運転中の兄さんがこっちを見ることなく口を開いた。
「大丈夫だよ。」
兄さんが具体的に何を心配して尋ねたのか分からなかったけれど、分からないまま返事をした。「大丈夫?」と聞かれた時に、僕は「大丈夫」以外の返事の仕方を知らない。静流ちゃんはそれに気付いてくれていた。だから静流ちゃんは僕に「大丈夫」という言葉を言わせない。今隣で頭を掻いている兄さんも本当は分かっているのかもしれない。ただ兄さんは、静流ちゃんよりずっと言葉を選ぶのが苦手だった。
「兄さんこそ、大丈夫?」
「···大丈夫だ。」
兄さんが大丈夫ではないことは明白なのに、敢えて僕は同じ事を尋ねた。兄さんから返ってくる言葉は分かりきっていたのに。
住所が示す所で兄さんは車を停めた。古い静かな住宅街で、車通りも人通りも少ない。僕だけ車から降りて周りの家の表札を見ていくと、瓦葺の屋根に茶色い壁のこじんまりとした一軒の家の門に‘安藤’と書かれていた。門の隣には二台分程の駐車スペースがあり、軽自動車が一台停まっていた。インターフォンを押すと‘ビー’っと古い音がした。家の中から足音が聞こえて、安藤さんが玄関から出て来た。
「車よね。そこに停めてくれる?」
あまりに自然に、まるで普段から会っているような口調でそう言う。一瞬戸惑ったような顔をした兄さんは、安藤さんの指示通り軽自動車の隣に車を停めた。でもなかなか車から出て来なかった。玄関からは、軽自動車が邪魔をして運転席の様子が分からない。
「···すみません。」
なかなか姿を見せない兄さんの様子を見に、僕は安藤さんに小さく頭を下げてから車に駆け寄った。車のエンジンは既に切れている。運転席には真っ直ぐ前を向いたまま動こうとしない兄さんの姿があった。その表情から何を考えているのかは全く分からない。運転席の窓を軽く叩くと、兄さんは少し驚いたような顔をしてゆっくりシートベルトを外した。
「こんにちは。久しぶりね、昇くん。」
車を降りた兄さんに安藤さんはそう言った。十年前、最後に言葉を交わしたあの時とは比べ物にならない程優しく穏やかな声だった。
「···ご無沙汰、してます。」
兄さんは立ち止まって深く頭を下げた。
「寒いから上がって。」
安藤さんは少しだけ眉尻を下げて、僕達を迎え入れた。
「ごめんなさいね、古い家で。中もあまり綺麗じゃないのよ。」
通されたのは、玄関を上がってすぐの部屋。うちと似た間取りの、キッチンとリビングが続く広めの居間だった。ダイニングテーブルは椅子が二脚だけ。座るよう促されたのはテレビの前にあるソファだった。茶色い革張りのソファはひんやりと冷たく、所々にある細い傷が目についた。再婚をしたのだろうか。名字が変わっていることも、アパート暮らしだった安藤さんが一軒家に住んでいることもそれなら簡単に説明がついた。三人掛けのソファに兄さんと並んで座ったけれど、兄さんは家の中に入ってから一言も話さずただじっとしていた。
「どうぞ。」
安藤さんはソファの前のローテーブルに湯呑を並べると、一人掛けの籐の椅子に腰を下ろした。
「この家ね、私の実家なのよ。兄弟はいないし、両親も他界したから今は私だけなのだけど。」
そう言って静かに一口お茶を飲んだ。
「いつか静流と一緒に住もうと思っていたわ。」
隣に座る兄さんの手がピクリと動いた。
「十年間、一日だってあの子のことを思い出さない日は無かった。」
安藤さんは真っ直ぐ僕の顔を見た。
「···この前あの橋で翔くんに会って、もしかしたらあなた達もそうだったのかなって···いえ、そうだったら良いなと思った。だから、久しぶりに誰かと静流の話をしたくなって。」
十年前もこんな感じの人だったのだろうか。思い返せばこんなふうに改まって話をしたことは無かった。思い出せるのは、スーツを着て仕事に行く姿と、静流ちゃんに笑いかける優しい顔と、兄さんを責めたあの時の姿だけだった。
そして安藤さんは僕から兄さんへ視線を向けた。
「あの時は、大勢の前であんなことをしてごめんなさい。その後、きっと大変だったでしょう。」
――その孕ませた子、死んだんですよね。
十年経ってもまだ消えていない。兄さんは小さく首を横に振った。
「良いんです。俺は責められて当然だった。」
それは妊娠させたことなのか、自殺を止められなかったことなのか。安藤さんは俯いて黙っていた。
「本当にすみませんでした。」
安藤さんの次の言葉を待たずに兄さんは深く頭を下げた。安藤さんは小さく首を横に振った。頭を下げている兄さんには見えていないだろう。
「理由が欲しかった。どうして静流が死んだのか分からないままじゃなくて、原因を探し出して、責めて責めて責め続けないと生きていけなかった。」
安藤さんの瞳が揺れる。
「でも結局、真実を知っているのは静流だけ。残された人間はただ想像することしか出来ない。···あなた達は、何を想像した?やっぱり妊娠?本当に、あなたとの子どもが出来ていたの?」
十年前とは違う、落ち着いた口調だった。顔を上げた兄さんは、真っ直ぐ安藤さんの顔を見た。
「俺は、」
ゆっくり静かに呼吸を整えるように、一度だけ大きく肩を動かした。
「妊娠が事実だとしたら、その子どもの父親が俺であって欲しかった。ずっと、そう思っています。」
それは、子どもの父親は兄さんでは無いと言っているように聞こえた。安藤さんにもそう聞こえたのだろうか。揺れる瞳が兄さんを捕らえて離さない。
「···そう。そうよね。静流はあなたの事、本当に好きだった。私から見ても分かるくらいに。相手があなたなら、静流は向き合った気がする。···分かっていたわ。ちゃんと、分かっていた。」
溢れかけた涙をしまい込むように、安藤さんは俯いて強く目を閉じた。
――昇の子どもだったなら、なんで静流ちゃんは死んだの?なんで昇を置いて行ったりしたの?
茜も分かっていた。兄さんとの子どもなら、静流ちゃんは逃げないはずだと。大人には言えなくても、せめて兄さんには何か言えたんじゃないかと。僕も思う。静流ちゃんから何を言われても兄さんは絶対に逃げなかったと。
「昇くんは静流から聞いてた?私と静流の血が繋がって無かったってこと。」
俯いたまま話す安藤さんの言葉に僕は驚いて目を見開いた。その言葉を聞いても兄さんの表情は少しも変わっていなかった。
「はっきり聞いたわけじゃないです。ただなんとなくそうなのかなって。」
「···そう。静流は夫の連れ子でね。夫は静流が中一の夏に病気で死んだの。いろいろ身辺の整理を終えて本当はこの家に住もうと思ったのだけれど、私の両親が良い顔しなくて。会ったこともない中学生の女の子を突然孫として迎え入れるのは難しかったみたい。それで、あのアパートで暮らすことになって。」
僕達が静流ちゃんと出会った時、静流ちゃんもまた大事な家族を失って間も無かった。そんなことを微塵も感じさせずに、ただ僕達に光を与えてくれた。
「血が繋がっていなくても静流のことは可愛かったし、とても大事だった。仕事で遅くなることで一人ぼっちにしてしまうことに罪悪感もあった。でも、あなた達と出会って静流は毎日楽しそうだった。本当に、本当に。喧嘩らしい喧嘩もしたことが無いし、反抗されたことも無い。うまくいっていると思っていた。でも、それは静流の我慢や優しさで成り立っていただけだったと思う。」
それは違うような気がした。でもうまく言葉に出来る気がしなかった。
「妊娠したこと話せなかったのは、」
涙が一筋頬を伝った。
「私が、子どもをつくれない体だったのを知っていたからだと思う。」
二筋目の涙が頬を伝った。
「だから、そんなこと静流が相談できるわけなかったのよ。」
安藤さんの言うことは、安藤さんの想像でしかない。でも否定は出来ない。妊娠していたのが確実に兄さんの子どもなら、静流ちゃんはちゃんと打ち明けていたのかもしれない。兄さん以外の誰かとの、しかも合意の上で出来たわけじゃない子どもだったのなら、静流ちゃんはどう考えただろう。――中絶したい。出来る事なら誰にも知られずに。でも母親には言わなければいけない。子どもが出来なかった母親に、‘中絶したい’と言わなければいけない。言わないままでいれば、いずれ周りに知られてしまう。兄さんが自分の子どもじゃないと気づいたら···父さんとの子どもだったと知ったら···
――お願い、誰にも言わないで。昇には絶対に言わないで。
恐怖と絶望。死ぬ前の静流ちゃんは、一体どんな世界に居ながら僕達に笑いかけてくれていたのだろう。僕は、どうして何もしなかった?僕だけが知っていた。僕だけが、静流ちゃんを助けられたかもしれないのに。
「あの日、あなたを責めている時も本当は気付いていた。妊娠の真相がどうであれ、私も静流を追い詰めた側の人間なんだって。」
静流ちゃん、ごめんなさい。
「だから、本当にごめんなさい。」
静流ちゃん。静流ちゃん。
「···たぶん、あなたには知られたく無かっただろうに。あなたも知らないままでいた方が幸せだったかもしれないのに。」
本当に、ごめんなさい。
全部想像でしか無い。ここに静流ちゃんはいないのだから。本当はただの事故だったのかもしれない。あの検査薬は他人の物で本当は妊娠なんてしていなかったのかもしれない。兄さん以外に好きな男がいて、その男との子どもだったかもしれない。もしかしたらその男に殺されたのかもしれない。それとも、妊娠とは全く別の事で悩んでいたのかもしれない。学校で虐められていたのかもしれない。想像だけならいくらでも出来る。
でも静流ちゃんが父さんに抱かれていたことは、揺るぎない事実だ。合意じゃない。静流ちゃんは苦しんでいた。それは僕の想像だけれど、あの光景は僕の中に悪夢として居座り続ける程、常軌を逸したものだった。そしてそれを知っているのはもう僕だけ。僕しか知らない。僕だけが知っている。目の前にいる、静流ちゃんを最も愛していた二人は知らないのに。
長い沈黙。安藤さんが鼻をすする音だけが時々聞こえる。兄さんは俯いたまま微動だにしなかった。
「ごめんなさいね、泣いたりして。···静流に会っていく?」
安藤さんは僕達の返事を聞く前に椅子から立ち上がった。
「二階にね、静流の部屋を作ったの。ここで一緒に暮らすことは叶わなかったから形だけなのだけど。」
僕より先に立ち上がった兄さんは、居間を出て行こうとする安藤さんの後ろをゆっくりついて行く。僕はその見慣れた背中を追い掛けた。
ギシギシと音が鳴る直線の階段を上っていく。階段の上には小さな窓があって、薄暗い階段に光を差し込んでいた。
「ここなの。」
階段を上がってすぐの扉を安藤さんが開けた。電気をつけていないのに明るかった。
窓際に置かれた見覚えのある勉強机の上に、小さな花瓶いっぱいの花。その隣には笑っている静流ちゃんがいた。高校の制服を着て、こっちを向いて笑っている。静流ちゃんがいなくなってから、静流ちゃんの写真や映像を見ることは無かった。十年前の姿のまま目の前に突然現れた静流ちゃんは、僕の記憶の中の静流ちゃんよりずっと綺麗だった。
――翔が読んだ中で、一番面白い本を教えて。
静流ちゃん、僕はどうすれば良かったのだろう。どうすれば、今も兄さんの隣で笑っていてくれただろう。込み上げるのは懐かしさじゃない。後悔ばかりだった。
隣にいた兄さんが、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。一歩一歩踏みしめるように進んでいく背中は、見たことがない程弱々しく感じた。笑っている静流ちゃんの前に辿りついた時、聞き取れない程の声で兄さんが何か言った気がした。
「···兄さん。」
声をかけても反応は無い。でも次の瞬間、両手で頭を抱えるようにして兄さんは床に崩れ落ちた。大きな音と共に膝をついた兄さんの背中は震えていて、聞いたことのない嗚咽混じりの声が聞こえてきた。
「静流、静流、静流」
この前、茜を前にして静流ちゃんの名前を呼んでいた時とは違う。もっと苦しくて悲しくて、たまらなく好きだったのだとこっちまで伝わってくるような声。
「静流、静流」
隣で安藤さんが泣いていた。たぶん安藤さんはこの十年間、静流ちゃんを思って何度も何度もこうやって泣いたのだと思う。でも兄さんは、一度だって泣けなかったんじゃないかと思う。
兄さんの背中を見つめていると、安藤さんが静かに部屋の中に入って行った。そして兄さんの横をゆっくり通り、静流ちゃんの写真が飾られた勉強机の上から一冊の本を取り出した。安藤さんは泣き崩れる兄さんを一度見つめて、僕の方へ戻って来た。
「これ、翔くんの本なのよね?」
そう言って差し出された本は、僕の物では無かった。でも知っていた。
「···これ、静流ちゃんが持っていたんですか?」
手が震えて、差し出された本に伸ばせない。
「えぇ。うちで見たことの無い本だったし、図書館の物でも無かったから静流に尋ねたことがあったのよ。それで、あなたに借りたんだって。」
視界が歪む。でも目の前の本ははっきりとそこにある。僕はこの本を知っている。でも僕の物じゃない。あの日、ただ僕がそこで読んでいただけの本。本当の持ち主は‘早紀さん’だ。
――早紀、おいで。
――翔、ごめんね。巻き込んでしまって、ごめんなさい。
悪夢の中に登場するあの本の行方なんて気にしたことは無かった。でも片付けた記憶はない。床に残ったままでも無かった。静流ちゃんはあの時、何を思ってこの本を持ち帰ったのだろう。分からない。分からないけれど、これだけは分かる。あの日の出来事は、悪夢なんかじゃない。紛れもない現実だったのだ、と。
「···翔くん?」
優しい安藤さんの声。兄さんが静流ちゃんを呼ぶ声も聞こえる。悲しいと思う。苦しいと思う。大事な人が急にいなくなって。どれだけ考えたって理由もはっきりしない。僕が見たあの日の出来事が100%静流ちゃんが死んでしまった原因なのかは分からない。でも関係ないわけがないと思うんだ。だって、あんなに傷付いた静流ちゃんの顔はあとにも先にも見たことが無かったのだから。
僕のこの十年間の苦しみは、悲しみではなく罪悪感が占めている。静流ちゃんを守れなかった罪悪感。兄さんや安藤さんに真実を言えない罪悪感。あんなに酷いことをした父さんを嫌いになれない罪悪感。
――翔。全部、言葉にしても良いんだよ。
静流ちゃんが笑っている。兄さんの後ろ姿と、笑っている静流ちゃんが景色と一緒に霞んでいく。
「···ごめんなさい。」
僕は安藤さんから本を受け取れず、廊下に膝と手をついた。
「ごめんなさい、本当は知っていたんです。」
額を冷たい廊下につけると、十年前のあの雪の上を思い出した。
「静流ちゃんが、···静流ちゃんが、襲われたこと、知っていました。合意じゃなかった。たぶん、それで静流ちゃんは望まない妊娠をした。」
体中を埋め尽くしていた罪悪感が、喉から溢れ出てくるようだった。
「兄さんにも誰にも言わないで、って。でも静流ちゃんは死んじゃって。僕は知っていたのに。たぶん僕しか知らなかったのに。」
次から次へと溢れ出るのに、僕の中の罪悪感は減らない。
「···相手は、誰だったの?」
頭上から降ってきた安藤さんの震える声。僕は顔を上げる勇気も無く、ただ床に額を押し付ける。
「···それは、知りません。教えてくれませんでした。」
そして僕は嘘をつく。体の中の罪悪感はまた増えていく。封じられた喉をこじ開けようとする。でも僕はそれを飲み込むしか出来ない。これ以上の真実は、兄さんを深く深く傷付けるものでしかないのだから。これだけは、静流ちゃんが絶対に兄さんに知られたく無かったものだと思うから。
「···そう。そうだったの。そんなこと···」
嗚咽と共に安藤さんの声が消えていく。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」
安藤さんの泣き声と僕の声が重なる向う側で、兄さんの言葉にならない大きな声が聞こえた。
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