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 初めて会った時、笑い方が義母さんに似ていると思った。義母さんがいなくなったばかりで、人の笑った顔に飢えていた。誰も笑えなかった。親父も翔も暗い顔をして、茜も気を使って下手な愛想笑いをするだけ。  小さい頃、義母さんが言っていた。‘目の前にいる人は、自分の鏡なんだ’と。相手が笑っていれば自分も笑える。自分が笑っていれば、いつか相手も笑ってくれる。義母さんという鏡を失って誰も笑えなくなった。そんな時に現れたのが静流だった。  静流は嘘をつくのがうまかった。いつだって平気なふりをして笑う。その笑顔があまりにも普段と変わらなくて、俺は何にも気が付けない。人より目立つ容姿のせいで、学校でうまくいかないことが何度かあった。毎日顔を合わせていても、俺はそれに気付けない。結局いつも後になって、静流ではない別の誰かから聞かされる。それでも静流は‘大丈夫’と、‘なんでもない’と言う。恐らく俺が知らないだけで、たくさんの問題や悩みを抱えながらあんなふうに笑っていたのだと思う。  死ぬ直前、静流はやっぱりいつもと同じように笑っていた。最後に会ったのは、前日の夜だった。母親が帰宅するまでの間、静流の部屋で一緒に勉強をしていた。静流も俺も頭が悪くて、二人で高一の数学の問題をあぁでも無いこうでも無いと必死になって解いていた。でも結局解けなくて、翔なら解けるかも、なんて笑っていた。翔はまだ中一だったのに。  まだ中一だった翔がこの十年間、必死に静流との約束を守って生きてきた。もっと早く教えてくれたら良かったのに、なんて言えるはずも無い。誰にも知られないことが静流の願いで、それを翔に押し付けたまま死んでしまったのだから。ずっと、翔が静流の死について何か知っているような気はしていた。翔の告白の内容も、想像しなかったわけじゃない。でも改めてそれを事実として受け入れるのは、苦しかった。誰かが静流に触れて、傷付けた。腹の底が煮えたぎるように熱くて、でも指先は恐ろしく冷たい。この感情が悲しみなのか怒りなのかそれとも別の物なのか自分でもよく分からない。  憔悴した様子の翔を車の後部座席に乗せた。体が熱い。熱が上がっているようだった。外まで見送りに来た安藤さんは、無理矢理泣くのを止めたような顔で、心配そうに翔を見ていた。後部座席で俯いている翔は、安藤さんとも俺とも目を合わせようとしない。 「···今日は、すみませんでした。」 車のドアを閉めて、安藤さんに向かって頭を下げた。 「私こそ、本当にいろいろごめんなさい。」 また安藤さんの声が震えた。  ここに来る前、またこの人に責められるんじゃないかと思っていた。むしろ十年前よりきつくひどく責めて貰いたかった。俺が、静流の子どもの父親かもしれないと、その瞬間だけでも思いたかった。事実じゃないことは俺自身が一番分かっているけれど。でも、もうそんな幻想は抱けない。静流に触れたことなんて無かった。子どもの父親は俺じゃない。俺は、ただ静流を助けてやれなかっただけ。気付くことすら出来なかった。無力だった。 「翔くん、辛かったでしょうね。」 その言葉に俺は頷くだけ。 「真実を、教えてくれてありがとう。」 翔に聞こえるようになのか、さっきまでより大きな声でそう言った。深く、深く頭を下げた安藤さんの肩は震えていた。 「静流のことを、愛してくれてありがとう。」  駐車場から車を出して、来た道をまた走っていく。ここに着いた時、既視感があった。思い出したのはついさっき。一度だけ、静流に連れられて自転車でこの辺りに来たことがあった。理由を聞いても静流は何も言わない。ただあの家を、少し離れた場所からじっと見ていた。それは安藤さんに伝えた方が良かっただろうか。  家に着くと後部座席で翔が眠っていた。荒かった呼吸は幾分か落ち着き、比較的穏やかな寝息に変わっている。  翔は何故静流の秘密を知っていたのだろう。何か決定的な物を見たのだろうか。だとすれば相手の男のことを知っていてもおかしくない。静流が相談したのだろうか。俺には何も言ってくれなかったのに。  後部座席のドアを開け、翔の肩を叩くと薄っすらと目が開いた。 「歩けるか?」 そう尋ねると小さく頷いた。覚束ない足取りの翔を支えるようにして家の中に入った。俺の部屋で寝かせようかと思ったけれど、そのまま翔の足は二階へ向かった。部屋に着いて、安藤さんの家で俺が無理矢理着せたコートを脱ぐと床に座り込んだ。 「翔、ちゃんと布団に」 腕を掴んでそう言おうとした時、翔は両手で俺の腕を掴んできた。服越しでも分かるほど熱を持った手は、震えていた。 「···兄さんは、僕の事怒ってる?」 泣きそうな顔で尋ねる翔に、首を横に振った。 「一人で抱え込ませて悪かった。」 出来る事なら俺も、その秘密を、その約束を、その痛みを分かち合いたかった。でも何も知らなかった。それは翔のせいじゃない。翔への怒りは少しも無い。悲しみと一緒に虚しさが込み上げるだけだった。  翔をベッドに寝かせて一階へ下りる。居間から携帯電話の着信音が聞こえてきて、初めて俺は携帯電話を持っていないことに気が付いた。手に持った瞬間に音は消え、画面を見ると茜からの着信が十二件も入っていた。こんなに連続で電話を掛けて来たことなんて今まで無かった。掛け直すとワンコールで出た。 「昇、どうしよう。」 明らかに動揺した声。 「どうした?」 「熊田さんが」 「···熊田さん?」 「さっき一緒に工場に居たんだけど、急に倒れたの。救急車呼んで、私も一緒に病院に来たの。治療は終わったんだけど起きなくて。」 ――ちょっと体の中に悪いもんが見つかってな。すぐ死ぬようなもんじゃねえけど、そろそろゆっくり過ごすのも良いかと思ってよ。  嫌な予感がした。まだ何も整理が出来ていなかった頭の中に、新たに流れ込んでくる。 「どこの病院?」 「···中央病院。」 静流が運ばれた病院だった。 「奥さんには連絡したのか?」 「事務所で連絡先調べてる余裕なくて。熊田さん、今日携帯持ってないの。」 「分かった。事務所に寄ってからすぐそっちに行く。」 「うん。」 電話に出た時より、茜の声は落ち着いたような気がした。 「ありがとう、昇。」 こんなことが無ければ、きっとあのまま年始の仕事始めまで茜と顔を合わせることは無かっただろう。  工場の扉は鍵が開いたままだった。茜は鍵を持っていない。そもそもそんな余裕なんて無かっただろうけれど。事務所に入り、ついたままの暖房を切り辺りを見渡した。熊田さんのデスクの周りには物が散乱していて、椅子も倒れている。大体片付けをしてから戸棚にある社員名簿を取り出した。殆どの社員は入社した時に書いた物のまま。何十年も前の記録がそのまま挟み込んである。熊田さんのも同じだった。親父と一緒にこの青井鉄工所を作った直後の記録だった。 ‘熊田満’ 親父より三歳若い。 ‘熊田晴子’ 配偶者欄に書かれた奥さんの名前。熊田さんより二歳若い。家族は配偶者だけで、子どもの名前は無い。 ‘···RRRRR’ 連絡先に書かれていた自宅の電話に掛けたけれど、コールが鳴り続けるだけで誰も出ない。そして留守番電話に切り替わった。自宅の電話番号をメモに写し、とりあえず病院へ向かうことにした。  車を走らせているこの道は、十年前にがむしゃらに走った道だ。雪が降る夜に、真っ白な道を裸足にサンダルを履いて走り続けた。後ろを追いかけて来る翔を気にする余裕は無かった。走って走って走って、静流に会うために走っているのに、静流のことを考えないように必死だった。考えるとろくでもない物ばかりが浮かぶ。泳げない静流が真冬の夜の川に落ちた。大丈夫だろうだなんて思えなかった。動かない静流の姿が何度も頭にちらつくのを、笑っている静流の姿でかき消した。  親父が倒れた時は、俺が一緒に救急車に乗った。外の景色を見ている余裕なんて無かった。気付いたら病院に着いていて、気付いたら親父は死んでいた。  駐車場に車で入るのは初めてだった。案内板に従って立体駐車場へ向かい、駐車券を取って薄暗い駐車場内に入った。  考えてみれば、大したことの無い病気で熊田さんが仕事を辞めるなんておかしい話だった。一から自分で作り上げた会社を、あの人が大切にしていることは見ていれば分かる。俺が社長になった後、定年退職後はパートで良いから雇ってくれ、なんてふざけ半分に言っていたくらいだ。  携帯電話には茜から、熊田さんの病室を記したメッセージが届いていた。受付を素通りし病室へ向かった。  エレベーター内のフロアの案内から、熊田さんがどんな病気なのか大方予測出来てしまう。エレベーターを降りて、疎らに入院患者がいる廊下を進んで一番奥にある個室に辿り着いた。たった扉一枚なのに、その向う側が果てしなく遠いような気がした。見たくないこと、知りたくないことが待っている予感がして扉に手を伸ばせなかった。 「ご家族の方ですか?」 後ろから声をかけてきたのは看護師だった。 「···いや、同じ職場で。」 それだけ答えると、看護師は目の前の扉をいとも簡単に開けて俺に入室するよう促した。開いた扉の奥の方にいた茜と目が合った。 「目、醒めませんか?」 立ち止まったままの俺を一瞥して先に入って行った看護師が、茜に尋ねる。茜は黙って首を横に振る。ゆっくり中に入ると、ベッドに横たわる熊田さんがいた。いや、本当に熊田さんなのか自信が無い。点滴に繋がれ、青白い顔で静かに眠っている。熊田さんのこんな姿は見た事が無かった。普段の大声を、今の姿からは想像出来ない。 「昇。」 近付いて来た茜に名前を呼ばれて我に返った。 「奥さん、連絡ついた?」 ただ首を横に振った。 「熊田さん、まだ起きなくて。···病気、知ってた?」 「···詳しい事は何も。こんなに悪いとも聞いてなかった。」 口に出さなくても茜の不安さは十分伝わってきた。 「···熊田さん、熊田さーん!分かりますか?」 突然看護師が少し大きな声を出した。そしてさっきまでピクリとも動かなかった左手が僅かに動いたように見えた。 「先生呼んで来ますね。」 そう言って看護師は小走りで病室を出て行った。茜がベッド横に駆け寄る。 「熊田さん、大丈夫ですか?」 返事は聞こえない。茜と反対側のベッド横に立つと、ゆっくり熊田さんがこっちに視線を向けた。そして小さく口元を動かした。分からなくて顔を近付けると、息のような声が聞こえた。 ‘年度末までもたないな’ 俺が理解したのが分かったのか、弱々しく笑った。聞き取れなかったらしい茜は、困った顔でこっちを見ている。何も言えなかった。こんな時、なんて言ったら良いのだろう。 ‘大丈夫、俺がしっかりやるから’ ‘そんな弱気なこと言わずに早く治して’ 何も言えない。どっちも本心じゃない。熊田さんを失った会社はどうなる?でも治せと言った所できっと治らないのだろう。熊田さんが自ら会社を退こうとしたのは、恐らくそういうことだ。 ――兄さんにも誰にも言わないで、って。でも静流ちゃんは死んじゃって。 どうして今なのだろう。どうして今、また失うことを考えなければいけないのだろう。皆勝手だ。母さんも義母さんも静流も親父も、皆いなくなった。残された俺は、高い、果てしなく高い山を越えるように這いつくばってでも進んで行くしか無かった。それがどれだけ苦しいことだったか。歯を食いしばっていないと前へ進めない。だから、涙すら出なかった。良い事も悪い事も忘れられない。でも、思い出として口にする事も出来ない。消化出来ない気持ちが渦になり、止められない程大きな塊になっていた。  どうして静流は死んだ?どうして義母さんは俺達を置いて居なくなった?どうして親父は俺に全てを押し付けて死んでいった?理由は、頭では理解している。でも気持ちは取り残されたままだった。  俺と翔も連れて行こうって、一瞬でも考えてくれたのだろうか。どうして俺じゃなく、熊田さんに全てを任せようとしなかったのか。どうしてあんな風に義母さんを傷付けたのか。どうして、俺には何も話してくれなかったのか。どうして、一人で死んでいったんだ。  どいつもこいつも全部勝手に決めて、勝手に居なくなった。熊田さんまで居なくなる。もう嫌だ。もうたくさんだ。俺は、もう――··· 「昇!!」 薄暗い立体駐車場の中で、後ろから茜の声が何度も聞こえたけれど振り向く事も返事もしなかった。運転席に座ってエンジンをかけようとした時、勢い良く助手席の扉が開いて息を切らした茜が乗り込んで来た。怒ったような顔で俺から目を逸らさない。そんなことすら疎ましく感じた。 「どこに行くの?」 「お前には関係無い。」 「関係ある。熊田さんどうするの?奥さんとも連絡ついてない。まだ、何か喋ろうとしてたよ。なんで逃げるの?」 早口で、でもはっきりと言葉をぶつけてくる。もう、放っておいて欲しかった。 「ねえ、のぼ」 「もう嫌なんだよ!!」 汚い物を吐き出すように大声が出た。茜の目が大きく丸くなって、言葉が消えた。 「もう嫌なんだ。残されるのが。置いていかれるのが。どうにか受け入れて進もうとしたって、また次が来る。熊田さんの次は誰だよ。お前か?翔か?次々居なくなって、それでも必死になって生きてくのがもう馬鹿みたいに思えて仕方ないんだ。」 「じゃあ、どうするの?」 声が震えている気がした。真っ直ぐ、俺から目を逸らさない。思い浮かんだ言葉は、心の奥底にずっとあったものだった。 「···置いていく側になれば楽になれるのかもな。」 言い終わった瞬間に、左頬に強い衝撃を受けた。衝撃と共にバチンと重い音がした後、茜が右手を挙げたまま睨んでいた。 「死んだら許さない!!」 驚いて、声が出なかった。 「翔と私を守ろうなんてもう考えなくて良い。会社だって、いらないなら誰かにあげれば良いじゃん。全部捨てたって良い。でも、死ぬのは絶対許さない。」 強く掴まれた両肩。茜に殴られたのも怒鳴られたのも初めてだった。 「だいたい、何で全部引き受けようとするの?文句言えば良いじゃん。もう死んじゃったんだから、誰も傷付かない。昇ばっかりが我慢する必要なんてない。」 大きく開いた茜の目から涙が溢れた。 「私は皆嫌い!子ども二人を残して男と出て行くなんて信じられない。昇に会社のこと押し付けて死ぬなんて勝手過ぎる。あんなに大事にされてたのに、何も言わずに死ぬなんてなんでそんな酷いことが出来るの?おばさんもおじさんも静流ちゃんも、皆嫌い。大嫌い。そんな人達のせいで、昇まで死ぬなんて絶対に嫌!!」 そのまま茜は泣き崩れるようにして俺の太腿辺りに顔を埋めた。大声で泣く茜の背中を見下ろしていたら、何故か泣けてきた。
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