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 しばらく経って、昇の大きな手が背中に触れた。 「···悪かった。」 微かに聞こえたその一言で、私の涙はようやく止まった。 「悪かった、茜。」 もう一度、今度ははっきり聞こえた。体を起こすと、温かかった昇の手はそっと背中から離れて行った。そして、静かに泣いていた。昇が泣いているのを見たのは、初めてだと思う。おばさんが居なくなった時も、静流ちゃんが死んだ時も、おじさんが死んだ時も、昇は泣いていなかったのに。一人の時はちゃんと泣けていたのかな。いや、たぶん泣けないままここまで来てしまっているような気がした。 「熊田さんのこと以外で、何かあったの?」 何となくそんな気がして尋ねると、僅かに瞳が揺れた。今日、翔と二人で出掛けていたことに関係あるのかもしれない。昇が口を開くのをじっと見ていた。 「···ありがとな。」 優しい顔でそれだけ言って涙を拭った。やっぱり何も教えてくれない。分かっていた。でも目の前で泣いてくれたから、少し期待しただけ。 「熊田さんの家、行ってみるか。」 そう言って、車のエンジンを掛けた。さっきの姿が嘘だったかのように、普段と変わらない顔をして。  熊田さんの家は病院から車で五分程だった。私も昇もここに来るのは初めてで、家を探すのに少し時間が掛かった。そろそろ四時だ。外の空気が段々と冷たくなって来た。  木造平屋の古い一軒家。それ程高くない木の塀の向こう側には、畑と花壇が見えた。家の前にハザードランプを点滅させたまま停めて、車を降りた。玄関の前に立った昇が古いインターフォンを押すと、高い音でピンポーンと鳴った。しばらく待ったけれど応答はない。家の中から物音も聞こえない。もう一度インターフォンを押そうとした時、隣の家から腰の曲がったお婆さんが出て来た。 「こんにちは。熊田さんにご用?」 優しそうなお婆さんはそう言いながら近付いて来た。 「はい。奥さんにお会いしたくて。今はいらっしゃらないですかね?」 私がそう言うとお婆さんは何故か目を丸くした。 「熊田さんの奥さんはもう随分前に亡くなったよ。ここに住んでるのは満くん一人さ。」 私も昇も言葉を失った。  車は再び病院へ向かう。 「この前も普通に奥さんの話してたよね。ほら、貰った大根も奥さんが作った物だ、って。」 熊田さんはよく奥さんの話をする。奥さんが作ったという家庭菜園の野菜をくれる。大きな声で照れ臭そうに、でも嬉しそうに奥さんの事を話す。あれは、全部嘘だったのだろうか。  病院に着くまで昇はほとんど何も話さなかった。眉間に出来た皺は、考え事をしている証。昇も知らなかったのだろう。一体いつから?どれくらいの期間、もういない奥さんの話をあんな風にしていたのだろう。  ノックしても返事は無かった。静かに扉を開けて昇と二人で中に入ると、顔を動かしてこっちを見ている熊田さんと目が合った。軽く左手を挙げている。 「よう、悪かったな。」 ベッドに近付くと、普段と変わらない口調でそう言った。でも声量は普段の十分の一くらいだ。顔色は悪いし、ベッドに横になっているだけでとても弱々しく見えた。 「···本当ですよ。めちゃくちゃびっくりしたんですよ、私。救急車なんて初めて乗りました。」 わざとおどけてそう言うと、熊田さんは少し笑った。その笑顔も見た事がない笑い方で、なんだか胸がザワザワした。会話は上手く続かなくて、すぐに静まり返る。何も言わない昇は、眉間の皺をさっきより増やしていた。そして、熊田さんを真っ直ぐ見下ろして口を開いた。 「家族に連絡取ろうとしたけど繋がらなくて、家まで行きました。」 熊田さんは目を閉じて、一度だけ深く息を吐いた。 「隣の婆さんにでも聞いたか?」 昇は頷く。そして熊田さんは眉尻を下げて笑った。 「まあそういうわけなんだ。悪いが明日で良いから、着替えとか取ってきてくれねぇか。居間の奥の部屋の箪笥に入ってる。鍵は作業着のポケットだ。」 まるで明日の仕事内容を話すような言い方だった。 「で、テレビの下の引き出しに封筒があるからそれも持ってきて欲しい。」 「分かりました。」 昇はそう返事をして鍵を受け取ると、病室から出て行った。 「茜。」 追いかけようとした所を呼び止められた。 「頼んだぞ。」 笑顔は無かった。私は今何を頼まれたのだろう。でも聞き返せなくて、ただ黙って頷いた。  病室のすぐ外で昇が待っていて、扉を開けた瞬間驚いた。病室の扉が閉まったのを確認すると無言で歩き出して、駐車場に着いても何も話さなかった。 「乗っても良いの?」 運転席に乗り込もうとした昇にそう尋ねた。いつもと同じ、何を考えているのか分からない表情でこっちを見ていた。 「お前が嫌じゃないなら。」 それだけ言って昇は運転席に乗り込んだ。私は何も言えずに、助手席の扉を開けた。 「···さっき、叩いてごめん。」 エンジンを掛けようとした昇は一瞬手を止めてこっちを見た。 「いや、助かった。」 エンジンが掛かる。 「俺の方こそ、悪かった。」 さっきの事なのか違う事なのか、昇が何について謝っているのか分からない。  昇の事を想う大きな大きな気持ちのほんの片隅に、ずっと諦めの気持ちは存在していた。この前の事があって、今はもう半分以上を占めている気がする。昇が静流ちゃんから離れられない事は分かっていた。分かっていたから、静流ちゃんの身代わりになれば愛してもらえると思った。でも、私の心がそれを受け入れられなかった。どんな形でも良いから昇と一緒にいたいなんて、ただの綺麗事に過ぎなかった。結局は、ちゃんと‘私’として普通に愛されなければ満足しない。自分の気持ちを美化し過ぎて無償の愛だと錯覚していた。本当は、静流ちゃんに勝ちたくて仕方なかったくせに。  静流ちゃんが現れて、昇はよく笑うようになった。昇の色々な表情を見る事が出来たのは静流ちゃんのおかげだ。でもきっと静流ちゃんは、昇が声を荒げたり泣いたり弱音を吐く所なんて見た事は無かったと思う。さっき昇が私だけの前で泣いた。不安な気持ちを打ち明けてくれた。もう静流ちゃんには勝てないと分かって諦めているはずなのに、それでも私は弱った昇の姿を見てほんの少し優越感を覚えた。馬鹿みたいだと思う。本当に、馬鹿だと自分で思う。 「うちで夕飯、食ってくか?」 家の最寄りの信号で止まると、ずっと黙っていた昇が口を開いた。 「珍しいね。昇からそんな事言うの。」 そう答えると、昇はガシガシと頭を掻いた。 「いや、···茜がいれば翔も気が紛れるかと思って。」 ボソボソと答える昇はこっちを見ようとしない。 「···翔と、何かあった?」 頭を掻く手をピタリと止めて昇が口を開こうとした瞬間、信号が青に変わった。薄暗い道の向こうの方に工場の屋根が見えて来た。もうすぐ青井家に着いてしまう。 「私は、あったよ。」 何も答えない昇の言葉を待たずにそう言った。 「何が?」 昇は真っ直ぐ前を見たまま。 「‘好きだ’って言われた。この前、昇が出て行った後に。」 「···そうか。」 「翔の気持ち、ずっと知ってた。優しくしてくれる翔の隣は居心地が良かった。だから‘好きだ’って言われた時に思ったの。そんな事言わないでいてくれたら、このままずっと一緒に居られたのにって。」 車は工場の前にゆっくり停車した。 「昇もたぶん、私にそう思ってたんだよね。ずっと。だから最後に一回だけ。」 もう車は停まっているのに、前を向いたまま動かない。 「ずっと、昇が好きだよ。私の事を、静流ちゃんより好きになってくれる可能性はある?」 俯いて、目を閉じて、深く息を吐いてから昇はゆっくり目を開けた。そして真っ直ぐ私の顔を見た。 「無い。」 たった一言。 「···うん、分かった。」 それ程悲しいとは思わなかった。 「もう昇を困らせるような事は言わない。でも、私は絶対に離れない。もし熊田さんが会社から居なくなっても、私はずっと昇の側にいて、ずっと味方でいる。これから先、昇を絶対一人にはさせない。」 それだけは静流ちゃんに出来なかった事。そして私なら出来る事。 「私は昇を置いていかない。だから、昇も私の事を置いていかないで。」 翔に好きだと言われるまで分からなかった。もう静流ちゃんはいないのだから、私を選んでくれれば良いのに。ずっとそう思っていたし、静流ちゃんが居なくなった事をチャンスだとさえ思った。でも昇は静流ちゃんしか見えていなかった。今も、たぶんこれから先も変わらない気がする。  もしかしたら翔も同じ事を考えていたのかもしれない。昇が私を好きになる事なんて無いのだから、翔を選べば良いのにと。翔と居れば、たぶんずっと穏やかに笑って生きていけると思う。あの場所は暖かい。それが分かっていても、私は翔を選べない。  昇は左手で顔を隠すようにして、一度だけ大きく頷いた。その大きな手にも、掻いてぐしゃぐしゃになった髪にも、広い背中にも、私が触れられる日はきっと来ない。でも、隣には居られる。それで良い。もうそれで良いんだ。 「鍋食べたい。冷蔵庫、何か入ってる?」 「···白菜と豚肉ならある。」 「じゃあミルフィーユ鍋だね。」 「···あぁ。」 「すぐ寝ちゃうんだから今日はビール禁止ね。」 そう言うと、隣で昇は笑った。  数メートル進んだ先の駐車場に車を停めて、数日ぶりの青井家に入った。居間に翔がいないのを確認してから、私は一人で二階へ向かった。階段を上ってすぐの部屋の扉をノックすると、中から物音が聞こえた。 「翔。一緒に夕飯食べよう。」 扉を開けずに声を掛けると、数秒経って静かに翔が出て来た。まだ優れない顔色。眠っていたのか寝癖がついていた。眼鏡の奥の瞳が揺れていた。 「翔。ごめんなさい。」 瞬きもしないように翔を真っ直ぐ見た。揺れた瞳は、たった一度の長い瞬きの後、同じように真っ直ぐ私を見ていた。 「大丈夫。ちゃんと、分かっていたから。」 優しく、とても優しく答えてくれた。  三人で鍋の準備をしながら、翔に熊田さんの話をした。驚きながら熊田さんを案じていたけれど、不安そうな視線の先にあったのは昇の後ろ姿だった。たぶん昇は翔に工場内の事や仕事の話はしていない。でも私は頻繁に翔に話していた。昇が周りと上手くいっていない事、熊田さんがいるから成り立っている事。熊田さんの病気が良くなったとしても、今までのように居てはくれなくなるだろう。 「明日、茜はどうする?」 出来たての鍋を炬燵に運び終え、昇が一番に腰を下ろした。 熊田さんの荷物を取りに行く話だ。 「私も行くよ。翔は?」 「僕は明日仕事だから。」 翔の視線の先にあるカレンダーを見ると青色のペンで‘早’と書いてある。 「近いうちにお見舞いに行くよ。」 病院に行ったらそのまま入院させられそうな顔をしている翔。弱々しく笑ったその顔は何を考えているのか分からない。    昼過ぎに青井家に行くと、車の前で昇が立って待っていた。 「ごめん、遅かった?」 約束の一時にはまだなっていない。 「いや。」 それだけ言って車に乗り込む。  昨日受け取った鍵を持って、昨日行ったばかりの熊田さんの家へ向かう。病院からは車で五分程だったけれど、青井家からは十五分程掛かる。静流ちゃんが川に落ちたあの日、走り続けた道を車で通り過ぎて行く。車ならあっという間だ。  熊田さんの家は昨日と何も変わらない。でも、奥さんと二人で仲良く暮らしている家だと思って訪れた昨日とは違う。  車を停めて、昇が玄関の鍵を開けた。引き戸がカラカラと音を立てる。無言で進んで行く昇の後について私も家の中へ入った。居間と思われる部屋の引き戸は開いていて、廊下と同じ温度をしていた。頼まれた着替えはこの奥の部屋。一度廊下へ出て奥へと進む。襖を開けると、畳張りの和室に箪笥と立派な仏壇があった。 「奥さん、綺麗な人だったんだね。」 初めて見る奥さんは、優しく笑っていた。 「そうだな。」 昇もその写真をじっと見ていた。  箪笥の中の雑に畳まれていた服達を、昇は丁寧に畳み直して紙袋に入れていく。青井家の洗濯物はいつも綺麗に畳まれていた。おばさんがやっていた事を当然のように昇と翔がやっていて、それは今でも変わらない。熊田さんも奥さんが居なくなった後、そうしていたのだろうか。 「後はなんだっけ。あ、封筒か。」 この和室にテレビは無い。居間のテレビは低い棚の上にあった。昇がしゃがんで引き出しを開けるとすぐに見つかった。封筒を手に取った昇は中身に違和感を感じたのか動きを止めた。昇の後ろに立っていた私は、それが何なのか全く分からなかった。 「どうしたの?」 尋ねると昇は振り向いて、その封筒を見せてくれた。 「金が入ってる。」 分厚くずっしりと重そうな封筒は、厳重に封されるわけでなく中身が見えかけた状態で無造作に引き出しの中にしまってあった。厚みは三センチ程だろうか。 「これを持って来いって事、なんだよね?」 昇は眉間に皺を寄せたまま、首を傾げた。  病室に着くまで昇は何も喋らなかった。 「よう。悪かったな。」 昨日と同じ台詞を、昨日より幾分か良くなった顔色で熊田さんは言う。 「起きてて大丈夫ですか?」 ベッドに座っている熊田さんは私の顔を見て笑った。 「そんな心配しなくても大丈夫だ。」 「これ、着替えです。足りない物があれば言って下さい。」 昇がベッド横の棚の上に持ってきた紙袋を置いた。 「おぉ、ありがとな。」 「それと、」 昇は紙袋の中から、あの封筒を取り出した。差し出された封筒に熊田さんは手を伸ばさない。そして、一度の深く息を吐いた。 「それは社長に···いや、会社に返す金だ。」 真っ直ぐ昇の顔を見て熊田さんはそう言った。 「意味が分からないんすけど。」 昇は封筒を差し出した手を引っ込めない。 「この金は、十三年前に無断で引き出した会社の金だ。」 昇の眉間に皺が寄る。十三年前。静流ちゃんと出会った年だ。そして、おばさんが居なくなった年···そこまで思い出して気が付いた。 「絵美ちゃん···お前の母さんと平田が居なくなった時に一緒に消えた金だよ。」 「待って。あれはおばさんと平田さんが持って行ったんじゃないの?」 昇と熊田さんの顔を交互に見た。昇は黙ったまま。熊田さんは私を見て悲しげに笑った。 「あの二人と消えた金は何の関係も無い。騒ぎに乗じて俺が盗んだ。そして皆まんまと二人が盗んだと思ってくれた。」 「なんでそんなこと、」 「どうしても必要な金だった。申し訳無かった。」 そう言い切って、熊田さんは深く頭を下げた。顔を上げない熊田さんになんて言えば良いのか分からない。昇はやっぱり黙ったまま、熊田さんの後頭部をじっと見ている。  長い沈黙の後、口を開いたのは昇だった。 「何に必要だったのかは、聞いたら答えてくれますか?」 下げていた頭をゆっくり上げた熊田さんは眉間に皺を寄せて黙ったまま俯いていた。 「···奥さんに関係ある事ですか?」 熊田さんが顔を上げた。 「たぶん、熊田さんは自分のためにそんな大金を使わないですよね。」 昇がそう言うと、熊田さんはフッと笑った。 「買いかぶり過ぎだ。結局は、俺の為に使ったようなもんだ。」 そして昇とも私とも目を合わせることなく、話し出した。 「あいつが、晴子が体を壊して入院して、余命宣告を受けたのが十四年前だった。しんどいのに心配かけないように黙ってたら、もう治せない所まで来ていた。出来る治療は大体やった。でも治らなかった。あいつも‘もう良いんだ’なんて言う。良いわけねぇ。探し続けて、新しい治療方法を見つけた。可能性があるなら何にでも縋りたかった。どんだけ金が掛かっても。···でもそこそこ貯めてあった金もどんどん減っていった。でも続けてりゃ、効果が出るかもしれない。金が足りないなんて理由で死なせたく無かった。その時、絵美ちゃんと平田が出て行こうとしているのを偶然知った。あの二人なら会社の金を引き出せる。全部捨てて出て行こうとしていたあの二人になら、消えた金の責任を全部押し付けられるんじゃないかと思った。」 強く握られた拳を隠すようにして昇は、目を合わせない熊田さんを真っ直ぐ見ていた。 「義母さんが金を盗んだなんて信じられなかった。だからこの前平田さんがうちに来た時に聞いたんです。でも平田さんは本当何も知らないようだった。」 「平田が来たのか?何しに?」 「義母さんが死んだ事を伝えに。」 熊田さんの表情が消えていく。 「···そうか、そうか。」 昇の、握られたままの拳にさらに力が入ったような気がした。言葉が出て来ないのか選べずにいるのか、昇の口から次の言葉は聞こえてこない。 「そのお金で、奥さん治療出来たんですか?」 口にしてから後悔した。 「治療は受けた。でも効果が出る前に···いや、結局効果は無かったんだろうな。半年ももたずに死んだよ。」 言葉を重ねる度に憔悴していく熊田さんを見ていると、次の言葉を選ぶことさえ躊躇った。 「親父には、奥さんが亡くなった事話したんですか?」 熊田さんは弱々しく笑って首を横に振った。 「修ちゃんには言えないさ。お前は覚えていないだろうが、早紀ちゃんが死んだ時は本当に大変だったんだ。絵美ちゃんには悪いが、本当に早紀ちゃんは修ちゃんにとって全てだった。再婚して家族四人幸せそうに暮らしていても、日常のあちこちに早紀ちゃんを思い出すスイッチみたいなもんがあった。スイッチが押される度に、少しずつ壊れていくみたいだった。そんな奴に、嫁が死んだなんて言えねぇだろ。」 私は、昇の実のお母さんに会った事は無い。部屋の奥の仏壇にある写真でしか顔を知らない。どんな人だったのかも何も知らない。おじさんとおばさんは仲が良かったように見えた。でも、おばさんは平田さんと居なくなった。おばさんも‘一番’になりたかったのだろうか。 「こっそり葬儀終わらせて、会社の事務手続きも自分でやった。親戚と近所以外誰にも晴子が死んだ事は言わなかった。そうしたらお前らは、晴子が生きているように接してくれた。それが嬉しかったんだ。本当は死んでないんじゃねぇかって思える瞬間がある事が。」 時々くれる野菜。さり気なく出て来る会話の中の奥さん。本当はもういない人だなんて、疑いもしなかった。 「厄介だよな。生きてるうちに喧嘩別れでもしたら、こんな風に死ぬまで引きずることもねぇのに。」 何度も静流ちゃんのことを狡いと思った。あのまま何事も無く生きていたら、いつか昇と別れる日が来たかもしれない。そうしたら昇はこんな風に静流ちゃんを思い続ける事も無かったかもしれない。死んだ人にはもう勝てない。だって、一番愛してた瞬間で止まってしまっているのだから。 「辞める前に金を返したかった。会社もお前も、修ちゃんも絵美ちゃんも平田も、全部を裏切るような事をした。本当に申し訳無かった。」 そう言って深く、深く頭を下げた。熊田さんのやった事が、理解出来ないわけでは無かった。奥さんを守りたかった。その一心だったのだと思う。なんて、熊田さんを肯定する事で自分も許されたいと思っている私はやっぱり狡い。好きな人を守るためについた嘘なら許されるなんて、そんな都合の良い事にはなるわけ無いのに。  昇は何も言わない。熊田さんも頭を下げたままだった。私は、どちら側でも無い。どちら側でも無いから、何も言えない。ただ悲しいなと思う。こんな形で、熊田さんが会社を離れる事が。いっそ黙っていれば良かったのに。無かった事にして、皆で笑って熊田さんを送り出せたら良かったのに。そうすれば、昇の心に傷を増やす事も無かったのに。 「この金で、熊田さんの病気は治りますか?」 突然昇は持ったままだった封筒を熊田さんに突きつけるように差し出した。熊田さんは困惑した顔で昇を見た。 「今、熊田さんが居なくなると困ります。年度末までは働くってあんたが言ったんだ。それまでは辞めさせない。むしろ親父や俺に悪いと思っているなら、責任持ってちゃんと定年まで働いて下さい。」 熊田さんの瞳が揺れた。 「···馬鹿な事を。」 毛深い大きな手で顔を隠した熊田さんは、たぶん泣いていた。 そうか、昇は許したんだ。
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