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「もしもし、翔。ちゃんと食べてる?もう昇ったら、心配なら自分で聞けば良いのに私に電話掛けろってうるさくて。」 電話の向こうで翔が笑う。隣を見ると昇が眉間に皺を寄せて睨んでいた。  四月。翔はアルバイト先の葉月書店を辞めて、卒業した大学の近くで就職をした。電車を乗り継いで二時間程の場所だった。  誰にも知らせず就職活動をしていた翔。すべてを一人で決めた後に報告された私達はただただ驚いた。でもそれまでより明るい表情の翔を応援しないわけにはいかない。何か言いたげだった昇もその言葉を飲み込んだようだった。 ――飯、ちゃんと食えよ。 昇が翔のことを心配しないわけがない。でも、別々に歩んでいくことを、あの兄弟は選んだのだ。    熊田さんが入院して何日か経った頃から、翔の熱は少しずつ下がっていった。何がきっかけだったのかは分からない。  何度もお見舞いに行って、色々な話をした。でもお見舞いに行く毎に、熊田さんは弱っていた。あの大きな声は二度と出なかった。大きな毛深い手も気づけば頼りない程細くなっていた。  そして二月初旬、静かに息を引き取った。救急車で運ばれたあの時、既に治療は難しい状態だったらしい。数年前からこっそり一人で闘病していた。そして偶然にも、熊田さんの病気は奥さんと全く同じだったという。熊田さんは笑って言った。 ――あいつがどれだけ苦しんだか分かって良かった。 今苦しいのは熊田さんなのに。それでも奥さんを思い続けるのは、愛なのか執着なのか分からない。それは私も昇も同じだ。私の昇への想いも、昇の静流ちゃんへの想いも、もしかしたら大半を執着が占めているだけのような気もする。気持ちに名前をつけるのは自分だ。愛だと思えば愛になる。  でも昇に‘好き’と言うのを止めて、ただそばにいる毎日は思っていたより楽だった。友達として、幼馴染としてなら、昇は私に笑ってくれた。冗談めいた事を話したり、本当に時々だけれど静流ちゃんやおばさんの話をしたり。前進なのだと思う。  今も電話で翔と話しながら昇をからかっていると、横から肘で軽く小突かれる。静流ちゃんにはたぶんこんなのことをしなかった。でもそれは静流ちゃんは恋人だったから。私は友達だから。  私もちゃんと前進している。    どうして家を出て行こうと思ったのか、翔はちゃんと話してくれなかった。‘やってみたい仕事がある’そう言われれば納得出来ないわけではないけれど、モヤモヤは残った。 「どうして翔は、ここから離れようと思ったんだろうね。」 電話を切った後、隣にいる昇に尋ねてみた。 「義母さんの墓参りの時に言ってたんだ。」 ――体の中に溜め込んだ物が溢れて、溢れて、溢れ尽くしたら、消えたんだ。静流ちゃんが言ってた通り、言葉にするってちゃんと意味があったんだね。  昇はその言葉の意味がよく分からなかったらしい。私はなんとなく分かるような気がした。私の気持ちも似ているのかもしれない。昇への気持ちが溢れて溢れて、溢れて尽くしたら少し穏やかになった。消えることはないかもしれないけれど、意味はあったと思う。翔の中から何かが消えた。熱が下がって笑えるようになった翔にとってそれは、大きな一歩だったのだろう。ここにしがみつかなくても大丈夫になれる大きな一歩。  結局、静流ちゃんの死の真相は分からないまま。もしかしたら私が知らないだけで、翔や昇は何か答えに行き着いたのかもしれない。ただきっと、どんな答えであっても明るいものではない。それでも二人が受け入れて前に進もうとしているのならそれで良い。 「そう言えば、あれってS市のお菓子だったんだよね。」 熊田さんの葬儀が終わり、少し経った頃。二月の中頃に平田さんと墓参りに行った昇と翔は、昔工場で食べたあのお菓子を見つけて買って来た。 「本気で探そうと思えば、探せたんだろうな。」 おばさんと平田さんはS市の郊外で暮らしていた。S市には青井鉄工所の元請けの企業があって、平田さんは仕事でS市に行った時にあのお菓子を買ってきてくれていたらしい。車で一時間程掛かるその街は、この辺りとどことなく雰囲気が似ていたと翔は言っていた。おばさんのことが大好きだった翔はその景色を見て何を感じたのだろう。そしてその数日後、翔はこの家を出て行くことを話してくれた。  熊田さんのいない会社はどこか静かだった。静かな工場の中で、昇の声が響いた。 ――俺一人では難しい事がたくさんあります。皆さん、助けて下さい。 従業員の前で頭を下げる昇を見て、涙が出そうになった。熊田さんがいないこの場所で、昇はちゃんと戦って行く覚悟をしていた。 ――しょうがねぇな。 そう言って昇の隣に立ったのは富里さんだった。  熊田さんの指名で工場長となった富里さんは、少しだけ優しくなったような気がする。相変わらず口は悪いけれど。 ――昇。 ――昇くん。 そしていつからか、従業員達は昇のことを‘社長’と呼ばなくなった。でもそれは、なんの敬意もない肩書き呼びよりずっと良い。  金曜日の仕事終わり。翔が居なくなっても、私は毎週青井家で夕飯を食べる。 「ねぇ、昇。」 「なんだ。」 正面に座る昇は、出来たての唐揚げをビールで流し込むように食べている。 「翔、何食べてるかな。」 「さっき電話で聞けば良かっただろ。」 「ちゃんと食べてるかな。」 「どうだろうな。」 「コンビニとかインスタントとかばっかりな気がする。」 何でも卒なくこなすくせに、料理だけはまるで出来ない翔。心配なのは食事のことだけじゃない。昔から世話を焼くのが当たり前だった。勉強も運動も翔の方が何でも上手に出来ていたのに。思えば、翔が大学生で一人暮らしをしていた時はあまり心配をさせてくれなかった。でも今は違う。私が変わったのか翔が変わったのか分からないけれど。 「母親みたいだな。」 そう言って昇は小さく笑った。 「明日、翔のとこ行ってみるか。」 「約束してたの?」 「いや。」 「じゃあ電話してみよっかな。」 唐揚げを揚げ始める前に掛けたばかりの翔にまた電話を掛ける。 「もしもし、翔。ご飯何食べた?――え、唐揚げ弁当?私達も唐揚げ食べてる。」 電話の向こうて翔が笑う。 「明日さ、昇と一緒に翔の所遊びに行きたいんだけど。」 翔の返事を聞いて、私はいい気分で電話を切った。 「翔、なんだって?」 昇はいつの間にか二本目のビールを開けている。 「‘待ってる’って。あと、」 「あと?」 「‘僕もそっちに行こうと思ってたんだ’って。」 昇は素直に嬉しそうな顔をした。大学生で一度家を離れた時の翔は、おじさんが亡くなった時とその後の一度以外は全然帰って来てくれなかったから。 「何かおかず作って持って行くか。」 そう言った昇は飲みかけのビールを炬燵に残したまま、キッチンに向かった。
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