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月曜日。今日は遅出のシフトで、起床した時兄さんは既に仕事に出掛けた後だった。普段通りキッチンにはおにぎりが二つと、鍋に作られた味噌汁がある。兄さんが作る朝食は母さんの味に似ている気がする。
洗濯物を干して居間の掃除を済ませると、出掛ける時間になっていた。靴を履いて扉を開けようとした時、いつも閉まっているはずの玄関の鍵が開いていることに気がついた。きっと兄さんが出るときに閉め忘れたのだろう。念の為居間に戻ると、キッチンの隅に兄さんの家の鍵が置きっぱなしになっていた。今日の帰宅はきっと僕より兄さんの方が早い。兄さんが忘れた鍵をコートのポケットに入れて再び玄関へ向かった。
外へ出ると工場の音がよく聞こえる。敷地は別だけれど隣に建っている工場。こんなに近くにあるのに、僕は母さんがいなくなったあの日以来、中に入ることはほとんど無くなった。従業員が皆工場内にいる時間帯は特に。元々、母さんのいないあの場所に僕の居場所は無かったのだ。
「···あの、おはようございます。」
道に面したシャッターから中を覗くと、動いてる機械と数人の人影があった。僕の声は機械の音にかき消されて誰にも届いていない。
「おう、翔!何やってんだ?」
後ろから大きな声と共に肩を叩かれた。驚いて振り向くと、熊田さんが仁王立ちしていた。
「···熊田さん。おはようございます。これ、兄さんが忘れていったので。」
ポケットから鍵を取り出す。
「そうか。昇なら今事務所だ。」
「···じゃあ渡しておいて貰っても良いですか。」
そう言って僕は熊田さんに鍵を差し出す。熊田さんは一瞬何か考えるように停止してから、毛深い大きな手で鍵を受け取った。
昔、青井鉄工所の出入り口は三ケ所あった。道に面した所にある搬入口を兼ねたシャッター。この前僕が兄さんを探すために使った工場へ通じる扉。それから事務所にもう一つ。学校帰りに事務所で宿題をやっていた時は、その事務所にある出入り口を使っていた。でも今はもうない。元々事務員しか使っていなかったし、母さん達がいなくなって以降使われなくなっていたたらしい。そして兄さんが社長になってすぐに、大きな棚を置いたことで姿を消した。別にあの棚は、あの場所に置く必要は無かったと思う。でも僕は直接兄さんに、あの扉を隠した理由を聞くことは出来なかった。兄さんがいつも何を考えているのか僕にはさっぱり分からなかったけれど、あの扉は僕と同じように兄さんの中でも母さんの象徴だったのだろう。今でも僕は母さんを思い出す時、その景色は家ではなく事務所だった。兄さんもそうなのかもしれない。あの事務所の扉を開けると、中で母さんが‘おかえり’と笑ってくれる。兄さんが塞いだ扉は、僕達と母さんを繋ぐ扉だ。
「鍵、悪かったな。」
仕事を終えて家に帰ると、ちょうど風呂から出たばかりの兄さんと顔を合わせた。
「そうだ、翔。金曜日の忘年会。お前も来るか?」
「行かないよ。」
乾いた笑いと共にそう答えると、兄さんは小さく頷いて居間の方へ歩いて行った。僕は靴を脱いで、コートを片付けるためにそのまま二階へ向かった。
毎年行われる青井鉄工所の忘年会。毎年同じ居酒屋の二階にある座敷を貸し切って従業員全員で行われる。父さんが社長だった時から変わらない。皆でわいわいするのが苦手な兄さんが今も父さんから引き継いで続けている。僕も母さんがいた頃は夕飯ついでに参加していた。その後は兄さんが行かなくなったこともあって、家で二人で夕飯を食べて過ごしていた。兄さんがどう思ってたのかは分からないけれど、僕はお酒を飲んでいつもより大声で話をするおじさん達が苦手だった。酔っているからなのか、ただお酒のせいにしているだけなのか、人を傷付けるようなことを皆平気で言う。父さんも母さんも笑って受け流していたけれど、僕はあの場所がいつだって不愉快だった。
「おはよう、翔。」
火曜日。今日も遅出のシフトで昨日と同じ時間に家を出た。工場の前を通り過ぎようとした時、敷地内から茜の声がした。
「おはよう、茜。」
僕は足を止めて声のする方を見た。黒い膝丈スカートに、白いブラウスの上に着たチェック柄のベスト。よくある事務の制服を着た茜は寒そうに身を抱えてシャッターの前に立っていた。
「寒くないの?」
「寒いに決まってるでしょ。お客さんが来るから待ってるの。すぐ来ると思ったんだけど。」
今日は風も冷たくて寒い。少し離れた場所でも茜の唇の血色が良くないのが分かった。僕は首に巻いていたグレーのマフラーを外しながら敷地内に入った。
「帰りに兄さんに渡しておいて。」
そう言ってマフラーを茜の首に掛けた。
「いいよ、翔寒いでしょ。自分のコート取ってくるから。」
茜は慌ててそう言ったけれど、僕は首を横に振って再び道に出た。
「戻ってる間にお客さん来たら困るんでしょ。ちゃんと返してね。」
茜の次の言葉を待たずに僕はその場を立ち去った。
茜は毎週金曜日の夜、うちで夕飯を一緒に食べる。別にそういう約束をしているわけではないのだけれど。金曜日僕のシフトはだいたい早出で、六時半には帰宅する。工場も金曜日はなるべく定時で帰れるようにしているらしい。詳しく聞いたことはないけれど、定時に仕事を終えた兄さんと茜はそのまま近所のスーパーへ行き夕飯の材料を買って帰っているようだった。傍から見ればきっとそれは恋人同士で、従業員の中にも二人が付き合っていると思っている人は多いはずだ。でも兄さんにその手の話をしてくる人は恐らくいないだろうし、茜も親しい人以外には一線を引いて接する。あの二人の間に何もない事を知っているのは、もしかしたら本人達と僕だけなのかもしれない。昔からあの二人の関係は変わらない。いつだって茜の一方通行だ。僕は別に二人がどうなろうと構わないけれど、茜にとって唯一二人きりになれる金曜日の夕方だけは邪魔せずにいようと決めていた。
閉店後の作業が長引いて、家に着いたのは九時を過ぎていた。マフラーの無い首元は、朝より冷たくなった風でとても寒かった。
「ただいま。」
足早に玄関に入ると、兄さんの靴の隣に見慣れた茜のパンプスが並んでいた。
「おかえり。」
居間から茜が顔を出した。金曜日以外でこんな時間に茜がいるのは珍しかった。しかも事務服ではなく、私服だった。
「マフラー、昇に渡しておくの忘れてたから。」
僕の顔を見て考えていることを察したのか、茜は言い訳をするようにそう言った。
「朝ありがとう。ごめん、翔寒かったよね。」
事務服姿をより、今のような細身のジーンズの方が茜はよく似合う。
「あれからお客さんはすぐ来たの?」
「うん。ありがとう。マフラー助かった。」
「そっか。兄さんは?」
「テレビ観ているよ。」
茜と一緒に居間に入る。
「おかえり。」
定位置でテレビを見ている兄さんが微動だにせずそう言った。炬燵の兄さんが座っている場所のすぐ近くには、さっきまで茜がそこに座っていたであろう形跡があった。茜がいつからいたのか分からないけれど、ここで二人で過ごしていたようだった。マフラーを僕に返しに来たのではない。茜は兄さんに会いに来ただけだ。兄さんと茜がこの先どうなろうと別に僕は構わない。ただ、時々無性に虚しくなる瞬間があった。
「じゃあ明日頼むな。」
帰ろうと立ち上がった茜に、兄さんはそう言った。
「うん。おじさんによろしく伝えておいて。」
兄さんは小さく頷くだけで返事をしなかった。茜はほんの少し悲しげに笑って、兄さんを見下ろしたまま言う。
「昇、好きだよ。」
兄さんは何も言わない。茜もそれ以上何も言わずに扉の方へ歩き出した。
茜が帰った後の家は静かだ。テレビの音だけが響く居間で、僕は黙々と夕飯を食べる。
「明日、半休?」
「あぁ。午後には仕事に戻る。」
「じゃあ九時頃には出た方がいいね。」
「そうだな。」
それだけ会話をして、僕は食べ終えた食器を片付けにキッチンへ向かった。食器を洗っているとテレビの音が消えて、兄さんが歩いて来た。
「風呂入って寝る。」
「うん。おやすみ。」
兄さんは右手で頭をぐしゃぐしゃと掻きながら廊下へ出て行った。明日は父さんの命日だった。僕は一日休みで、兄さんは午前休を取って墓参りに行く。近くに墓地はたくさんあるのだけれど、兄さんの実母である早紀さんが亡くなった時に、父さんは海の見える高台の墓地にお墓を建てた。早紀さんは海が好きだったらしい。青井家の墓として建てられた墓には早紀さんと父さんの二人が眠っている。車で一時間程かかる距離にある墓には頻繁に行くことが出来ず、お盆に訪れて以来でとても久しぶりだった。
「午後から雨らしいね。」
兄さんが運転する車の助手席で、僕は携帯電話で天気予報を見ていた。朝起きた時はよく晴れていた空は時間が経つにつれてどんどん暗くなっていく。
「···傘無いな。」
予報では午後からの雨だけれど、今にも降り出しそうだった。車の中に傘は積まれていない。赤信号で車が停まると、兄さんは頭をぐしゃぐしゃと掻きながら窓から空を見上げていた。
段々と民家も車通りも減ってきた。僕達の乗った車は墓地へ続く海沿いの坂を上って行く。
「誰もいないね。」
駐車場に車を停めて外に出ると、空気がとても冷たかった。海からの風も吹いていて、思わず身を縮めた。線香とロウソクとライターが入った袋を後部座席から取り出した兄さんは、普段通り背筋をピンと伸ばして立っていた。背の高さはそれ程変わらないはずなのに、いつも兄さんの方がとても大きく見える。僕自身からも、他人からも。
手桶に水を汲んで、墓地の奥へと進んで行く。右手には墓石が並び、左手下方には冬の海が広がっていた。僕と兄さん以外誰もいない。足音と、海風の音だけが聞こえる静かな空間だった。段々に並んだ墓地の中腹くらいに父さんと早紀さんは眠っている。僕が墓石に水を掛けている間に、隣で兄さんは袋から線香とロウソクとライターを取り出していた。
「···火つかんな。」
カチカチとライターをつける音と共に兄さんが呟いた。
「風のせい?」
「いや、ライターがダメみたいだな。」
風を避けても一向に火がつく気配はなかった。
「線香無理だ。悪いな、親父。」
兄さんは諦めて袋の中に線香とロウソクとライターを片付け出した。兄さんも僕も普段家でライターを使う習慣がない。今日持ってきたのは、去年の命日に用意した物だった。今年のお盆の墓参りの時はちゃんと火がついたから、持ってくる時に確認しなかったようだ。潔く諦めた兄さんを見て僕は小さく笑った。
「じゃあこれだけ。」
アルミホイルに包まれた二つのおにぎりをショルダーバッグから出して、墓前に置いた。母さんがいなくなってから、うちの朝食は毎日おにぎりと味噌汁になった。早く起きる父さんと兄さんが一日交代で作る。同じように作っているはずなのに、父さんと兄さんのとでは味が違う気がした。僕は兄さんの作る朝食の方が、母さんの味に似ていて好きだった。でも兄さんがあの一件以降母さんの事をどう思っているのか分からないから、それを伝えたことはない。兄さんのおにぎりを供えて、手を合わせた。僕の方が先に目を開けて、まだ手を合わせている兄さんを横目で見た。兄さんは父さんや早紀さんに何を思っているのだろう。
「ねぇ、兄さん。」
僕の声に反応して、兄さんは目を開けた。
「聞いたところで意味はないんだけど···。今、可能なら父さんに会いたいと思う?」
僕の質問に、珍しく兄さんは小さく笑った。
「親父のあとを継いでから、教えて貰っておけば良かったことが山のように出て来た。三年経ってもまだ出て来る。親父がいればなって思うことはある。」
珍しく兄さんが多く話していた。普段は相槌ばかりで長い会話にはならない。
「けどそれは俺が未熟なだけで、親父には関係ない。俺も別に、会いたいと思うわけじゃない。」
そう答えて兄さんは、供えていたおにぎりを手に取った。
「···腹減った。翔も食うか?」
「うん。」
差し出されたおにぎりを受け取って、アルミホイルを開けている兄さんの横顔を見た。今日ならもう少し兄さんと話が出来るだろうか。
「···兄さん。」
僕は受け取ったおにぎりを持つ手を下に下ろした。
「静流ちゃんには、会いたいと思う?」
おにぎりを口元まで運んでいた手が一瞬止まって、兄さんはゆっくり目を閉じた。
「···どうだろうな。」
目を開けてそう言った兄さんは、おにぎりを一口食べた。
「言いたいこととか、聞きたいことはないの?」
「···俺が言いたいことや聞きたいことは、たぶん全部あいつを追い詰める。なら、会わない方が良いのかもな。」
兄さんは二口目のおにぎりを口に運んだ。
「兄さんは、それで良いの?」
「···別に良い。どうせ忘れられないんだ。なら俺だけで良い。あいつを追い詰める必要はない。」
兄さんはいつだってそうだった。言葉にも表情にもその感情を出すことはないけれど、いつだって自分より静流ちゃんを大切にしていた。少なくとも僕と茜にはそれが分かっていた。静流ちゃんには伝わっていなかったのだろうか。
風が強くなり、雨が降り出した。早足で車に戻り、僕は助手席でさっき食べ損ねたおにぎりを食べた。兄さんは何も話さない。次第に雨が強まり、ワイパーが視界を行ったり来たりする。僕は、さっき自分が兄さんにした質問を思い返していた。僕自身はどうだろう。父さんや静流ちゃんにもう一度会えるとしたら、何て言葉を掛けるだろう。二人を前にして僕はちゃんと言葉にすることが出来るのだろうか。
本降りになった雨の中、兄さんの運転する車で会話もなく家に向かっていた。道が混んでいたせいで、十一時半を過ぎてしまっていた。昼休憩中には出勤したい兄さんは空いてきた道を、普段より少し速度を上げて車を走らせていた。
「昼食どうするの?」
家の駐車場に車を停めた時、ちょうど十二時のサイレンが雨の音に混ざってかすかに聞こえて来た。
「朝の残りがあるからそれ食ったら出る。」
そう言って兄さんは車の外に出た。駐車場から玄関まで屋根のない道を小走りで進むと、玄関の前で鍵を持ったまま兄さんが立ち止まっていた。
「どうしたの?」
「···何かある。」
兄さんの目線の先を追うと玄関のドアノブに紙袋が一つ掛かっていた。
「茜が置いていったとか?」
「···いや、茜は俺が午後から出勤すること知ってるだろ。」
それもそうだ。ただ茜以外に、こんな風に荷物を置いていくような間柄の人は僕にも兄さんにも思い当たらなかった。僕が考えている間に、兄さんは、ノブから紙袋を取った。
「何が入っているの?」
尋ねると兄さんはゆっくりと紙袋の中身を取り出した。
「···菓子だな。」
箱に入ったお菓子。この辺りで見かける物ではないけれど、僕も兄さんもそのお菓子に見覚えがあった。僕はこのお菓子がとても好きで、普段あまり甘い物を食べない兄さんもこれはよく食べていた。このお菓子と共にある風景は青井鉄工所の事務所だった。
「···これって、」
「悪戯だな。」
記憶を辿った先にある光景を思い浮かべながら僕が発しかけた言葉は、兄さんが冷たく言い放った言葉に掻き消された。兄さんは紙袋の中へ箱を戻して玄関の鍵を開けた。そして靴を脱ぎながら玄関を上がってすぐの隅に、その紙袋を投げるように置いた。僕は何も言えないまま兄さんから少し遅れて靴を脱いで中に入った。
キッチンで立ったまま昼食を済ませた兄さんは、紺色の作業着を身に纏う。
「いってらっしゃい。」
「···おう。」
振り返ることなくそれだけ答えると、兄さんは出掛けて行った。今日は雨の音で、工場の機械音は聞こえない。玄関の鍵を掛けてから、さっき兄さんが投げるように置いた紙袋を拾い上げた。中の箱にはやはり見覚えがあった。兄さんは‘悪戯だ’と言い放ったけれど、悪戯でこんなお菓子を置いていく人がいるだろうか。懐かしい大好きなお菓子だったけれどなんとなく食べる気はしなくて、僕は紙袋ごとキッチンの隅にそっと置いた。
金曜日。普段は茜のために早出で仕事に行くけれど、二人が忘年会で出掛ける今日は数カ月ぶりの休日だった。
「休みなのに早いな。」
居間の扉を開けると、作業着を着た兄さんがキッチンに立っていた。
「目が覚めちゃって。」
「そうか。朝飯そこにある。」
「うん。ありがとう。」
いつも通り作られたおにぎり。鍋にはまだ温かい味噌汁が入っていた。
「今日は忘年会だったよね。」
「あぁ。翔も来て良いからな。」
「もう子どもじゃないんだから行かないよ。兄さんが酔い潰れたら迎えには行くから。」
笑ってそう答えると、兄さんは居心地の悪そうな顔で頭を掻いた。酒に弱い兄さんは、毎年忘年会の途中で酔って寝てしまう。その度に父さんや熊田さんが家まで連れ帰っていたらしい。僕がこの家に戻って来てからは、その役目は僕のものになった。今年で二回目になる。食器を片付けながら、一昨日から同じ場所に置きっぱなしになっている紙袋に目をやった。手を洗ってしっかりと拭いてから、紙袋の中のお菓子の箱を取り出した。箱の封を開けて中身を一つ取り出す。見た目はなんてこと無い普通の饅頭だ。白い皮の中に薄黄色の餡が詰まっている。一口食べると、昔と全く変わらない味が口の中に広がった。事務所の机に置いてあったお菓子。これがあった日、僕は兄さんの分をポケットに入れて家に帰る。
――これも翔が食って良いんだぞ。
兄さんはいつもそう言う。でも僕はその会話の後に、兄さんがいつもより少しだけ頬を緩めてこのお菓子を食べている顔を見るのが好きだった。
――また平田さんに買ってきて貰おうね。
そして、後ろで僕達を見ていた母さんは笑ってそう言った。
図書館で借りてきた本を炬燵で読んでいたら、いつの間にか眠っていた。本を読むのことは僕の生活の一部だ。集中して本の世界に入り込んでいる間は、他に何も考えなくて良い。余計なものや感情が何も無い世界だけが目の前に広がる。この世界が無かったら、僕の生活はここまで成り立って来なかったと思う。
――翔、図書館に行こうか。
夢の中で、母さんは僕に笑い掛ける。
――翔、行きたい所ははあるか?
父さんはそっと僕の頭に手を乗せる。
――翔が読んだ中で、一番面白い本を教えて。
静流ちゃんは僕の世界を理解しようとしてくれる。皆優しかった。優しい手だった。でも、皆居なくなった。僕を残して。僕と兄さんを残して。兄さんを残して。
RRR····
突然鳴り響いた着信音で目が覚めた。炬燵で突っ伏して眠っていた僕は、慌てて手元に置いてあった携帯電話を見た。液晶には茜の名前が表示されていた。
「···もしもし。」
「もしもし、翔。そろそろ昇を迎えに来れる?」
茜の言葉を聞きながら時計に目をやると、いつの間にか八時半を過ぎていた。
「早いね。」
「···うーん、まぁね。」
茜は言葉を濁す。
「何かあった?」
「何かあったわけではないんだけど。なんだか今日空気が悪くて。」
茜の声色でなんとなく今日は楽しい忘年会ではないのだろうと察した。電話を終えて、コートを羽織り財布と鍵を持って玄関を出た。風は無いけれど、空気は刺すように冷たかった。僕が吐いた息が真っ白になって消えていく先に、一面の星が見えた。十年前のあの日と同じ日とは思えない程、僕の目に映る景色は何もかも違っていた。
――どうせ忘れられないんだ。
一昨日の兄さんの言葉が頭に浮かんだ。十年前のことを思い出すと、僕は息苦しくなる。兄さんは、今日ちゃんと正しく息をして過ごせたのだろうか。
車を五分ほど走らせて着いた居酒屋の駐車場は割と空いていた。ここは駅が近くにある。青井鉄工所の従業員も電車通勤や徒歩·自転車通勤の人が多かった。車を停めて店の入り口へ向かうと、人影が見えた。
「翔。」
人影が先に僕に気付いて声を上げた。
「なんで外にいるの?」
また上着も着ずに事務服のままで立っていた茜。
「今まで上にいたんだけどさ。昇が、出てろって。」
「そんなに酔ってるの?」
茜は首を横に振る。
「酔ったフリをしているだけ。」
その言葉の真意がよく分からなくて黙っていると茜が僕の右手を引っ張って店の中に連れ込んだ。
「今日、熊田さんいなくてさ。」
ぼそっとそう言った茜の横顔はいつになく弱々しかった。
「···そっか。」
「熊田さんがいないってだけで、皆好き勝手言ってて。」
「···うん。」
「私が昇を守ろうと思ったのに、逆に‘出てろ’って。」
悔しかったのだろう。弱々しい横顔とは裏腹に、僕の右手を掴む手の力はとても強かった。僕はその手に、左手でそっと触れた。
「大丈夫だよ。」
何の根拠もない言葉。でも僕は‘大丈夫’と誰かに言われるとどこか安心する。茜も同じだったら良いのだけれど。
「···ありがとう、翔。」
小さな声でそう言った茜は、二階へ続く階段に向かって先に歩き出した。
二階には、階段を上った左右に広い座敷が二間ある。一階の賑やかな声が遠くなるのと同時に二階からの声がよく聞こえる。階段を上り終えて左側の襖に茜が手を伸ばした。
「社長は結婚しないのかい?」
襖の向こうから聞こえた大きな声に、茜は伸ばしていた手を引っ込めた。
「笹島(ささじま)ちゃんと付き合ってるんじゃないんですか?」
突然自分の名前が出て来た茜は、驚いたように目を見開いた。
「···笹島は子どもの頃からの友達ですから。」
酔ったような兄さんの声。兄さんが茜のことを名字で呼ぶのを僕は初めて聞いた気がする。
「またまたぁ。まぁでもやる事はやってるんでしょ?」
茜の手が震えるのが分かった。襖の向こう側で誰がどんな顔をして話しているのかは分からない。でも、とても不愉快だった。
「そういうんじゃないですから。」
受け流すように答えた兄さん。肩書は社長だけれど、従業員のほとんどが兄さんより年上で勤続年数も長い。昔からの流れで兄さんは敬語を使う。周りの人が社長になった兄さんへ使う敬語は、どこか兄さんを馬鹿にしているような感じがして気持ちが悪い。
「でも社長って手ぇ早いんでしょう?」
「え、そうなんですか?」
笑い声とともに続いていく不愉快な会話。茜は震える手をぎゅっと握り締めた。僕はこれから始まるであろう会話の内容がなんとなく想像がついて、胸がざわざわした。
「ほら、昔女の子孕ませたって。」
その言葉で、襖の向こう側のざわつきが一瞬静まった。僕も茜もその場に立ちすくんだままで、動けなかった。
「社長がまだ学生だった頃にさ。この辺りじゃちょっと有名な話でしたよね?」
「そんで、その孕ませた子死んだんですよね。」
とにかく不愉快だった。
「そのうち笹島ちゃんともデキ婚するんじゃねぇかって。」
高らかに笑う低い声。兄さんのことが気に食わないとしても、酔っていたのだとしても、今こんな所で軽々しくしていい話ではなかった。確かにあの頃噂は広がっていたけれど、従業員の中にも知らない人はたくさんいるはずだ。それに、違うのだ。兄さんと静流ちゃんは···
「···違います!!」
勢いよく襖を開けて声を上げた茜がはとても怒った顔で、でも今にも泣き出しそうだった。一歩足を踏み入れた茜に、座敷にいた全員の視線が注がれた。
「昇はそんなことしていないし、今もしない!」
茜の目から涙が溢れた。
「···私に、そんなことするわけない!!」
誰よりも驚いた顔をしているのは兄さんだった。二十年近く一緒に過ごして来て、兄さんは茜がこんなふうに泣く姿を見たことが無かったと思う。さっきまで騒がしかった室内はしーんと静まり返っていた。肩で息をしながら黙って泣く茜の背中にそっと触れながら、僕は茜より前に出て座敷に足を踏み入れた。
「···翔。」
兄さんがポツリと僕の名前を呼んだ。
「兄がいつもお世話になっています。これ以上飲んでご迷惑をお掛けするといけないので連れて帰りますね。」
自分でも驚くほど淡々と話していた。
兄さんの顔と、テーブルにあるグラスの量を見ても、兄さんが今日はさほど酔っていないのは分かっていた。でも、僕達はこの場にいない方が良い。誰もがそう感じているはずだった。
「···俺、たぶん明日には忘れてると思うんで。」
兄さんはゆっくりと立ち上がりながら口を開いた。
「皆さんも忘れて下さい。」
酔っているような雰囲気を醸し出しながらも、兄さんの口調は妙にはっきりとしていた。誰一人として口を開かないまま、兄さんは僕と茜の所まで足を進めて、
「お疲れ様でした。」
とそれだけ言って座敷をあとにした。
外に出ると兄さんは早々に助手席に乗り込んだ。僕は運転席の扉の前に立って茜が来るのを待った。
「お待たせ。」
コートと鞄を持って小走りで店から出て来た茜は、ちらっと助手席の様子を確認してから後部座席に乗り込んだ。
誰も、一言も話すことなく五分間のドライブが終わった。
「茜、このまま家まで行こうか?」
「大丈夫。昇が寝るのを見届けてから帰るよ。」
僕にまで作ったような笑顔を向けてそう答えた茜は、車を駐車し終えると、早々に降りて助手席のドアを開けた。
「昇、着いたよ。」
「···あぁ。」
目を閉じていた兄さんは、ゆっくりと体を動かした。恐らく寝たふりをしていただけだろう。表情も足取りもしっかりとしていた。兄さんは先に歩いて行き、自分で玄関の鍵を開けた。
「翔、悪かったな。」
居間に入って作業着の上着を脱ぎながら、兄さんは僕の顔を見ることなくそう言った。
「兄さんが酒に弱いのは今に始まったことじゃないから。」
「そうだな。」
わざとおどけて言った僕の言葉に、兄さんは薄っすらと笑みを浮かべた。
「···茜も、悪かった。気にするなよ。」
兄さんは茜の顔も見なかった。茜はただじっと兄さんの後ろ姿を見ていた。ただじっと。恐らく色々な思いを向けながら。そして掻き消しながら。
「風呂入ってくる。」
なんとなく気まずいこの空気から逃げるように兄さんは居間から出て行った。少し遠くで風呂場の扉が閉まる音がして、それと同時に茜が大きなため息をついた。
「ご飯、ちゃんと食べれたの?」
「···どうだったかな。なんかあんまり覚えてないや。」
熊田さんが不在の中で兄さんをどう守るかずっと必死だったのだろう。仲の良い人間を増やさないかわりに、傍にいる兄さんや僕のことはいつだって大切にしてくれる。それが兄さんなら尚更。
「これ、食べる?」
朝、再び紙袋の中にしまったお菓子の箱を取り出した。
「···懐かしいお菓子。」
そう呟いて茜は手を伸ばした。
「これってあれだよね。昔、事務所で宿題やってた時におばさんがくれたやつ。」
茜の記憶の中にもちゃんと残っていたこのお菓子。
「これってどこに売ってるの?この辺の店で見たことないけど。」
茜は包を開けて、出て来た饅頭を一口食べた。
「玄関に掛けてあったんだ。誰からなのかは分からない。」
僕の言葉を聞いて、二口目を食べようとしていた手がピタリと止まった。
「大丈夫だよ。僕も朝食べたから。お腹痛くなったりしてないよ。」
「いや、そういうことじゃなくて。」
茜は怪訝な顔で僕を見た。
「兄さんは怖い顔して‘悪戯だ’って言ってた。」
「え、じゃあ本当に、おばさんが来たってこと?」
茜の問いに僕は黙って首を傾げた。僕も、恐らく兄さんもそうじゃないかとは思っている。ただそれを言葉にしたのは茜だけだった。でも本当に母さんだったとして、僕達が好きだったお菓子を持って今更何のためにやってきたのか分からない。だって母さんは、僕達のことを捨てたのだから。
「···なんだか、嫌な感じだね。」
吐き捨てるようにそう言って茜は残りの饅頭を口の中に押し込んだ。茜は僕と兄さんがなんとなく口に出来ない言葉を、まるで全て分かっているかのように言葉にしてくれる。少なくとも僕は、母さんがここにやって来たかもしれないことについて百パーセント嫌悪感が占めている訳ではなかった。ただ、‘なんだか嫌な感じ’なのだ。
「茜と喋ってると安心する。」
ポツリとそう言うと茜は饅頭を噛みながら首を傾げた。
「翔も昇も、言いたいことを言わなさ過ぎるんだよ。」
饅頭を飲み込み終えた茜は小さくため息をついてそう言った。僕は苦笑いを返すしか出来なかった。兄さんも僕もいつも言葉が足りない。足りないから伝わらない。
「喋ってたのは私と静流ちゃんばっかり。」
「そうだったね。」
「でも結局静流ちゃんも、言いたいこと言えてなかったのかもね。」
茜の表情が陰る。茜は、ずっと好きだった兄さんが静流ちゃんと付き合い出してからも、静流ちゃんのことが好きだった。姉のように慕い、親友のように笑い合っていた。静流ちゃんが死んでしまったと聞かされた時の茜はこの世の終わりのような顔をして、大声で泣いた。茜が声を上げて泣くところを見たのはそれが二度目だった。でも茜は、兄さんの前では絶対に泣かなかった。だから兄さんは、今日茜が居酒屋であんなふうに泣く姿を見てとても驚いたと思う。
「私の事、嫌いになってるかもなぁ。」
目が合った茜は寂しそうに笑った。
「‘知らない男と一緒にいた’なんて嘘ついて、静流ちゃんがいないのを良い事にずっと昇と過ごして。···まぁあんな嘘、昇ははなから信じていなかったけど。ずっと私のこと嘘つきだと思ってるんだろうな。」
茜がついた嘘は、静流ちゃんを傷付けるための嘘じゃない。兄さんを守るための嘘だった。それは兄さんも分かっているはずだ。きっと静流ちゃんだって。
十年前、中野静流という女の子が十六歳で自ら命を絶った。彼女のお腹の中には小さな命が宿っていた。その父親が誰なのか。当時彼女の恋人であった兄さんは疑われていることを承知で黙秘を貫いた。兄さんを想っていた茜は、兄さんを守るために嘘をついた。静流ちゃんが知らない男と一緒にいる所を何度も見た、と。静流ちゃんがどうして自殺したのか本当の所は分からない。ただ誰もが、妊娠したことにより絶望したのだろうと思ったはずだった。その相手が兄さんなのか別の男なのか、皆がどちらだと思っているのかは知らないけれど。
僕の記憶には穴がある。静流ちゃんが死んだ時とその前後のことが鮮明に浮ばない。思い出そうとすると頭痛がして、その後おかしな夢を見る。その夢は、言葉に出来ない程に恐ろしく悲しい。でもいつも全く同じで、まるで現実だったかのように鮮明だ。僕の曖昧な記憶よりずっと。その夢に襲われる度に僕は夢中で本を読んだ。ただ無心で。僕の心がその夢の恐ろしさから解放されるまで。集中して本の世界に入り込んでいる間は、他に何も考えなくて良い。余計なものや感情が何も無い世界だけが目の前に広がる。この世界が無かったら、僕の生活はここまで成り立って来なかったと思う。
「翔、ずっと気になってたんだけど。」
茜は俯いていた顔を上げた。
「静流ちゃんが死んだ時、どうして翔は謝ってたの?」
記憶にないことを言われて、僕は首を傾げた。
「‘静流ちゃん、ごめんなさい’って。何度も何度も謝ってた。」
僕の記憶の中にはそんな光景は無かった。あの日···十年前の今日は雪が降っていた。とてもとても寒い日で、泳げない静流ちゃんが小さな橋の上から川に落ちたと近所の人が教えてくれた。兄さんと慌てて病院へ行き、冷たくなった静流ちゃんと会った。兄さんは何も言わなくて、後から来た茜は兄さんのいない所で泣いていた。仕事で遅れた静流ちゃんのお母さんは病院の廊下で崩れ落ちて泣いていた。僕は――
――ごめんなさい。静流ちゃん、ごめんなさい。
フラッシュバックのように頭によぎった光景。あの日の僕が泣いている。逃げ出すように走って病院の外に出て、冷たい雪の上にただひたすら頭をつけた。吐きそうな程に苦しくて、寒さのせいではなく体中が震えていた。
――翔、お願い。誰にも言わないで。
静流ちゃんが泣きそうな顔で笑って言った。ねぇ静流ちゃん、何の話をしているの?
――翔、今見たことは忘れて。言わないで。昇には絶対に言わないで。
僕の手を握った静流ちゃんの手はとても冷たかった。僕は何を見たんだっけ?
――翔、ごめんね。巻き込んでしまって、ごめんなさい。
どうして静流ちゃんが謝るの?静流ちゃんは悪くない。悪いのは···そうだ、悪いのは全部――
「翔。」
突然手に触れた温かい感触で、頭の中にいた静流ちゃんの姿が途切れた。
「翔、どうして泣いてるの?」
心配そうな茜の顔が目の前にあった。左手は茜に握られていた。僕は右手で自分の頬に触れた。
「翔?」
目の前にいる茜の顔が霞んでいく。ちゃんと起きているはずなのに、あの夢の中の光景が鮮明に浮かんだ。
あれは夢なんかじゃない。全て現実だったのだ。
僕は静流ちゃんの子どもの父親を知っていたのかもしれない。
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