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昇
翔がこんなふうに熱を出して寝込むのはニ度目だった。
「翔、大丈夫かな。」
眠っている翔を暗い顔で茜が見ていた。
「風邪だろ。茜もそろそろ帰れ。」
おそらく風邪を引いているわけではない。
「翔どうしちゃったんだろう。」
俺の言葉が聞こえていないのかのように茜は喋り続ける。
風呂から出ると、荒い呼吸で床に座り込んでいる翔を、茜が名前を呼びながら支えていた。いつから熱があったのか、翔の体はかなり熱かった。片腕を肩に担いで二階まで連れて行くと、翔はベッドで意識を失うように眠り出した。眠っている翔の頬が微かに濡れていて、茜に気付かれないようにそっと袖で拭った。
「翔、さっきなんか変だった。」
「変?何がだ。」
「···二人で、静流ちゃんの話をしていたの。」
言いづらそうに茜は答えた。静流が死んでから、俺と茜の会話の中に静流の名前が出てくることは無かった。
「あの時のこと思い出したのかな···でもそれとも違う感じがした。あの日、翔が泣きながら謝ってたの。なのに覚えてないみたいで。」
「···そうか。」
俺は、あの日からうまく静流の話が出来ない。
眠っている翔から離れようとしない茜を追い出すように玄関に連れて行くと、渋々靴を履き出した。
「···送るか?」
俺の言葉に茜は驚いた顔をした。
「今日のことは昇のせいじゃない。だから気にしなくていいよ。」
靴を履き終えた茜は真っすぐに俺の目を見て言った。今日の忘年会は最悪だった。俺にとっても、茜にとっても。
「私は、昇から同情が欲しいわけじゃない。」
いつから茜はこんな顔で俺を見るようになったのだったか。
「好きだよ、昇。」
そうやって女の顔をして俺を見る。
「···あぁ。」
いつもそれしか言えない。応えられないなら突き放すべきなのだろう。でも茜を失いたくはなかった。女としてはいらない。ただ友人として、幼馴染として、同僚として、俺には茜が必要だった。
ペットボトルの水を持って二階の翔の部屋へ向かった。階段を上ってすぐ、一番手前が翔の部屋。翔の部屋の斜め向かいにあるのが昔俺が使っていた部屋。そして一番奥にあるのが親父と俺の実の母親が寝室として使っていた部屋だった。あの部屋に入ったことは数える程しかない。翔の産みの親である義母さんがこの家にやって来てからは、一階の奥の和室が夫婦の寝室になっていた。義母さんが出て行った後、親父は再び二階の寝室で過ごすようになった。空いた一階の和室は今俺の部屋になっている。
部屋に入ると虚ろな顔をした翔がこっちを見た。熱で視界がボヤけているのか、単に眼鏡を外していて見えていないのかは分からない。
「目、覚めたか。」
「···ごめんなさい。」
弱々しい声。意識があるのかどうか分からない。寝ぼけてうなされているような感じだった。俺は早足で近づき、それ以上翔が喋らなくても良いように顔の前にペットボトルを差し出した。
「ごめんなさい、静流ちゃん。」
それでも翔の言葉は止まらない。
「翔、大丈夫だ。」
掻き消すようにそう言うと、翔の顔が泣きそうに歪んで次の言葉を飲み込んだ。
「水飲んで寝ろ。」
ペットボトルを無理矢理手渡して、逃げるように部屋を出た。
腹違いの弟の翔は、俺とは全く似ていない。全体的に親父に似た俺と、顔立ちだけ義母さんによく似た翔。親が驚く程に勉強が出来た翔は、小さな頃から本の世界に入り込み、他人との関わりがあまり得意ではなかった。それについては俺が言えたことではないが。家族と茜、それから数人の友人。翔を取り巻く世界はそれ程広くは無かった。翔の産みの親である義母さんは、とても明るく誰とでもすぐに仲良くなれる人だった。嫌な事を言われても、酷い事をされても笑っている。底抜けに明るい義母さんに、翔も俺も幾度となく救われていたと思う。
翔が初めて今回のような熱を出したのは、義母さんが出て行った一週間後だった。冬の寒い時期だったから風邪だろうと思っていたが、三日経っても五日経っても熱は下がらない。病院に行っても原因が分からなかった。寝込んだまま冬休みを終え、三学期が始まっても翔はしばらく学校を休んだ。そして俺達は静流と出会った。義母さんがいなくなった現実に堪えられなくなっていた翔を日常に戻したのは、静流だったのだと思う。
キッチンで二人分のおにぎりと味噌汁を作っていると、階段を降りる足音が聞こえた。
「兄さん、おはよう。」
まだ熱っぽい顔をした翔が扉を開けて入って来た。
「···おう。もう良いのか?」
「うん、大丈夫。」
「朝飯、食うか?」
「···じゃあ味噌汁だけ。おにぎりは昼食用に持って行くよ。」
義母さんがいなくなってから、料理は俺と親父の仕事になった。朝食はおにぎりと味噌汁。夕飯は一汁一菜。冬場は専ら鍋だった。頭は良いけれど手先が器用でなかった翔は、早々に料理を諦めて洗濯や掃除に従事していた。全てが手探りで始まった男三人での生活は、なんとか前へ進んで行った。ただ驚くほどに義母さんの話は誰もしようとしなかった。だから俺は、出て行った義母さんを親父や翔がどう思っていたのか分からない。俺自身は義母さんを憎んではない。今でも時々翔が笑った顔を、義母さんと重ねて懐かしい気持ちになる。ただ翔を傷付けたことだけは許せなかった。親父や俺に壁を作っていた翔にとって、唯一の理解者は義母さんだった。それを分かっていたはずなのに義母さんは翔を置いて行った。翔があの時受けた傷は計り知れない。それでも俺は義母さんを責められない。どうして義母さんが出て行ったのか、俺は知っていた。それどころか背中を押したのだ。もう自由になっていいんだよ、と。
「今日の味噌汁美味しい。」
二日酔いになることを見越して用意しておいたシジミ。翔は昔から貝汁が好きだった。
「もう一杯飲むか?」
「貰おうかな。」
顔色は悪いし食欲も無さそうだったが、翔はそう答えてニ杯目の味噌汁を飲みだした。
「···兄さんが作る料理って、母さんのと似てる。」
ポツリと翔はそう言った。そしてハッとした顔をして、バツが悪そうに俺の方を見た。翔もまた、俺が義母さんをどう思っているのか知らないのだろう。
「···ごめん。」
「何に謝ってんだ。」
俺の言葉に翔は黙った。俺は、俺達は、圧倒的に言葉が足りない。昔からずっと、大人になった今でさえ。
「別に話しても良い。」
顔を上げた翔は、怪訝な顔で首を傾げた。
「翔が話すことで楽になるのなら、全てちゃんと話そう。」
翔の瞳が揺れた。今の言い方は狡かっただろうか。俺の意思は何一つ提示せず、まるで翔に全てを投げているような言い方に聞こえたのかもしれない。
「···‘全て’?」
翔の声は少し震えていた。俺は黙って頷いた。
「‘全て’って···」
「全てだ。」
翔は口を閉ざした。明らかに動揺していた。無理もない。今まで、ちゃんと話をしようだなんてこの家では誰も口にしなかった。気持ちを誤魔化して、蓋をして、嘘をついて、無かったことにする。何一つ解決しないけれど、それが楽だったのだ。義母さんのことだけではない。‘全て’という俺の言葉の真意を翔はちゃんと分かっているはずだ。俺は翔が何を隠しているのか知らないけれど、静流が死んだ直後と茜が言っていた昨夜の翔の様子を思い返せば恐らく何か知っているのだと思う。静流の死の真相について。もしかしたら、静流の相手を。静流の腹の中にいた子どもの父親を。俺は知らない。ただ俺以外に付き合っていた男がいたとは思っていない。だからあの子どもは静流との合意で出来たわけではない。希望的観測ではなくそれくらい静流のことを信じていた。茜が俺を守るために嘘をついたのも知っていた。静流は裏切ったわけじゃない。責めるつもりなんて微塵も無かったのに、静流は何も言わずに一人で死んでいった。墓参りの時に翔に「静流ちゃんに会いたいと思う?」と聞かれた。翔にはあぁ答えたけれど、会いたいとは思う。むしろ静流が死ぬ前から、いっそ出会った時からやり直したいと思う。静流が知らない男との子どもを妊娠していたとしても俺は静流と共に生きていくのだ、と静流の心が救われるまで言い続けたい。そうすることで、俺は静流と共に生きて行けたはずだと思っていた。
静流がどうして死んだのか、子どもの父親が誰なのか、それはもちろん知りたかった。状況によってはそいつを殺してやりたいとすら思う。俺がそうすると思っているから翔は言えないのかもしれない。だから翔が何か知っていると薄々気付いていても問い詰めはしなかった。真相を知った所で、静流は戻って来ない。翔を苦しめてまで知るべきことではないと思っていた。でも今の翔の熱は、心の限界の合図だ。翔は俯いていた顔を上げた。その顔は動揺と困惑に満ちていた。
まだ体調の悪い翔を車で職場まで送った。その間一度も翔は目を合わせようとしなかった。
「···ありがとう。」
車から降りる時に一言そう発しただけ。
「無理するなよ。」
俺の言葉に小さく体を震わせると、返事をせずに頷いて歩いて行った。
冬は好きな季節だった。夏のジメジメした暑さより、冷たくキンとした空気は気持ちが良い。冬の朝の早起きも、澄んだ夜の空も、寒さなんて気にならない。同じようなことを、出会った時に静流も言っていた。母さんが死んだのも、義母さんが出て行ったのも、静流が死んだのも、親父が死んだのも全て冬だった。嫌な思い出ばかりが積み重なっていくけれど、冬は静流と出会った季節だ。
昨日は静流の命日だった。もう十年。出会ったのはその三年前。俺は中学三年生で高校受験間近だった。翔と茜は小学四年生。義母さんが出て行って翔が熱で寝込んでいた時に、斜向かいに建つアパートに母親と二人で引っ越して来たのが当時中学一年生だった静流だった。三学期の始業式の日、通学路の途中で道に迷っている静流に話しかけた。この辺りは子どもが少なく、小学校も中学校も校区の端。近所に同級生もいなかった静流は、俺や翔や茜と過ごすようになった。
――今まで読んだ中で一番好きな本を教えて。
閉鎖的な翔の心の中にも静流は自然と入って行った。翔とは違って勉強は出来なかったけれど、静流も本を読むのが好きだった。まだ熱のある翔の部屋ににこにこと入って行った静流は、挨拶もそこそこにそう尋ねて、翔を日常の世界へ連れ戻してくれた。いなくなった義母さんのように、静流はいつも笑っていた。俺と同じで冬が好きだと言っていたけれど、静流は夏のヒマワリみたいだった。堂々として明るく、よく笑う。でも嘘をつくのも得意だった。俺はその嘘に気付くのがいつも後になってからで、あの時も俺は普段と同じように振る舞う静流の嘘に気付けなかった。
昨日翔が休みだったため、家の中は綺麗に掃除されていた。特別しなければいけないこともなく、家でテレビを見て過ごした。夕方、庭に干した洗濯物を取り込んでから、スーパーに出掛けた。夕飯の準備をしてから翔を迎えに行こうと思っていた。熱は下がっただろうか。無理をしていなければいいのだが。
スーパーの袋を持って車から降りると、玄関の扉の前に人影があった。俺の足音に気付いた人影は、驚いた顔でこっちを見た。
「···昇くん。」
なんて弱々しく、力のない声。見覚えのある顔としっかりと目が合った。この人がこんな顔をしているのを見るのは初めてだった。
「···この間のもあなただったんですね。」
俺の言葉に静かに頷いた。十三年振りに見た顔は随分年を取り、弱々しい姿になっていた。この人自体に何か思うわけではない。ただこの人が一人でここにいるということに、こんなにも悲しみを覚えるとは思わなかった。
「俺も翔も、義母さんが来たのだと思ってました。」
出て行く直前、義母さんは俺に尋ねた。「いつか会いに来てもいいか」と。俺はともかく、翔にとっては虫のいい話だ。勝手に出て行ったくせにまた会いに来るなんて。だからこの前、玄関に紙袋が掛けてあった時、どんな顔をして翔に会いに来たのだろうと苛立つ気持ちを抑えられなかった。でもそれはきっと、顔を合わせて正面から文句を言ってやれば収まったであろう苛立ちだったと思う。どんな風に文句を言ってどんな風に仲直りしようか、義母さんが来たと思ったあの日から俺は何度も考えていた。でも、今目の前に立っているのは義母さんではない。
「絵美は···君達のお母さんは、」
ふと義母さんの名前が出て来た。この人は義母さんをそう呼んで十三年過ごして来たのだなと思ったら、込み上げて来るものがあった。親父は恐らく義母さんをそう呼んだことはない。親父の前では、義母さんは義母さんでは無かった。
「つい最近死んだんだ。癌だった。もう何年も闘病して来たけれど、駄目だった。」
弱々しく泣きそうな声でそう言うと、深く深く頭を下げた。
「···本当に申し訳無かった。彼女も最期まで君達に謝っていた。」
心に帯びていたほんの少しの熱も、急激に冷めていく気がした。
「···違いますよ。」
自分でも驚く程冷たい声が出た。
「悪いのは、義母さんでもあなたでもない。」
そうだ。義母さんはあの時、必死にもがいてようやく逃げ出せたのだ。それこそ、翔や俺を顧みる余裕が無い程に。それが分かっていたから俺は背中を押してしまった。その先でどれ程の痛みを翔が負うか深く考えもせずに。
「···全て親父が悪いんですから。」
この家がおかしくなったのは義母さんが出て行った時ではない。それよりずっと前、翔が産まれる前から、親父と義母さんが結婚した時から···いや、始まりは親父と母さんが結婚した時なのだと思う。
「···平田さん?」
足音と共に聞こえた小さな声に、驚いて振り向いた
「翔。お前、仕事は?」
朝より優れない顔色で立っていた翔は、怯えたような顔でこっちを見ていた。
「···店長が帰って良いって。兄さん、どうして平田さんが···?え、母さん死んだの?悪いのは父さん?兄さんは、母さんがどうして出て行ったのか知っていたの?」
小声で早口で、明らかに混乱していた。
「···翔」
翔の問いには一つも答えられずに、名前だけを呼んだ。
居間は、買い物に出掛ける前につけていた暖房の暖かさが微かに残っていた。
「これ、どうぞ。」
お茶を差し出した相手は、炬燵に足を入れることなく正座をしていた。昔はもっと背が高くて逞しい印象だった。彼が小さくなったのか、俺が大きくなっただけなのか。よく笑って野球の話をしていた頃の面影はあまりなかった。
「···ありがとう。」
平田良介。かつて青井鉄工所の事務員として働いていた男。そして、義母さんと共に消えた男だった。平田さんは俺が目の前に置いたお茶を一口飲んだ。隣に立ったままの俺に平田さんが何か言いかけた時、二階に上着と荷物を片付けに行った翔が階段を下りてくる音が聞こえた。
「大丈夫なのか?」
居間に入って来た翔の顔色は悪かった。尋ねると、翔は何も言わずに頷いた。そして普段と変わらない速度で歩き、炬燵に入った。話を聞く決意の表れなのか、平田さんの正面に座った。平田さんは少し戸惑うような素振りを見せたが、より姿勢を正して真っすぐに翔を見た。俺も、翔と平田さんの間に座った。
「母さん、死んだんですか?」
翔の問いに、平田さんはゆっくり浅く頷いた。翔は何も言わない。俺程ではないが口数の少ない翔は、話す相手を傷つけないようにいつもきちんと言葉を選んでいるように思う。ただ言葉が出て来ない俺とは違う。きっと聞きたいことは山程あるのだろう。
「最後に受けた手術がうまくいったら、君達に会いに行こうとしていたんだ。」
先に口を開いたのは平田さんだった。
「···何のためにですか?」
翔の声は冷たい。平田さんは俯いて、横目でちらっと俺を見た。平田さんは知っているのだろうか。俺が、義母さんが出て行った理由を知っていたことを。
「···ただ、会いたかっただけだと思う。とても勝手な話だけれど。」
翔の瞳が揺れた。
「君達を傷付けてしまったことに変わりはない。本当に申し訳なかった。ただ僕はどうしても、絵美を悪者にしたままにしておきたくなかったんだ。」
真剣な顔でそう言った平田さんを見て分かった。全て話しに来たのだ。義母さんが出て行った理由を全て。
「···話を聞いてくれないだろうか。」
炬燵に額がつきそうな程、平田さんは深く頭を下げた。何も言わない翔の表情を見て肯定だと受け取ったのか、平田さんは俺を横目で見てもう一度頭を下げた。
「結婚してから、社長の前で絵美は絵美ではなくなった。」
翔は意味が分からないらしく、怪訝な顔で小さく首を傾げた。
「社長は絵美に、前の奥さんの‘早紀さん’であるように求めたんだ。」
俺が気付いたのは、小学校高学年になってからだった。
「君達の前や会社では特に違和感は無かったのだと思う。僕も、偶然事務所でその光景を目にするまで気が付かなかった。絵美と社長が二人きりになると、社長は絵美のことを‘早紀’と呼ぶ。そうすると絵美は、会ったこともない‘早紀’になりきらなければいけない。」
それは異様な光景だった。その日、俺は少年野球の練習があって、翔は茜の家に遊びに行っていた。一日練習のつもりで義母さんに弁当を作って貰っていたけれど、俺の勘違いで実際は半日練習だった。持って行った弁当をそのまま持ち帰り、玄関の扉を開けると親父も義母さんも靴があったから家にいるようだった。小さな声で「ただいま」と言ったが返事はなかった。家の中は静かで、二人がどこにいるのか分からない。汚れた靴下だけを玄関で脱いで、荷物を置きに二階の自室に向かった。二階の一番奥、親父と死んだ母さんが使っていた部屋から物音がした気がした。その部屋に俺と翔が入ったことは数える程しかない。母さんの形見や、他にも大事な物が置いてあるから入るなと親父に言われ続けて来たからだ。俺達だけじゃなく、親父や義母さんが入る所も見た記憶が無かった。そんな秘密の部屋の中でした物音が気になって、でも悪い事をしている気持ちがして、出来る限り忍び足で近付いた。近づくと、扉がほんの少し開いていることに気がついた。
――早紀。
そのノブに手を掛けようとした時親父の声がした。早紀は死んだ母さんの名前だ。
――早紀、早紀、愛してる。
聞いたことのない親父の声に、心臓がバクバクとした。そして親父の声と重なり時々聞こえるか細い声。これ以上は聞いてはいけない、見てはいけない。分かっているのに、俺はドアの隙間に顔を近づけた。
――···早紀、愛してる。
そこに‘早紀’が居るはずない。裸の義母さんの上に跨り、その体に触れる親父。義母さんがどんな顔をしているのかは見えなかった。ただその光景がとてつもなくおかしいことは分かった。
「結婚前は何とも無かった。でも結婚してすぐ、社長は変わった···それが本性だったのかもしれないけれど。僕が初めて見たのは、絵美が発注のミスをした時だった。僕を含めた他の従業員が帰った後で、社長と絵美はその処理のために事務所に残っていた。僕は社長に伝え忘れた件があったことを思い出して一人で事務所に戻ったんだ。窓の前を通った時に、社長と絵美が向かい合って立っているのが見えた。叱られているのかもしれないと思って、僕は扉まで行かずに窓の近くで立ち止まったんだ。」
――早紀、昔はあんなミスしなかったじゃないか。
――ごめんなさい、修士さん。
――早紀、君は変わった。昔の君は、そんなふうに僕を見たりしなかった。
――ごめんなさい、修士さん。
――早紀、僕は君を愛してるんだ。昔の早紀に戻ってくれ。
――ごめんなさい、修士さん。
「泣いているように見えた。でも社長は絵美が泣くことを許さない。僕も会ったことはないけれど、‘早紀さん’はいつも笑っていたのだろう?」
それは翔が知るはずもないし、俺も覚えていない。ただ義母さんはいつも笑っていた。何を言われても、何をされても。
「結婚当初はおかしいと思っていた絵美も、段々そのおかしさに慣れてしまっていた。だから、連れ戻したかったんだ。」
一度異様な光景を目の当たりにしてから、日常の中にも些細な違和感を感じるようになった。親父と義母さんが二人きりで話をしている時の親父の表情。義母さんの緊張感。俺や翔が一緒にいる時とは雰囲気が違っていた。
「僕が青井鉄工所で働き出した時、すでに社長と絵美は夫婦だった。昇くんがいて、小さな翔くんがいて、とても幸せそうな家族だと思ったんだ。だから、初めて会った時から好きだったけれど諦めていた。でも、あんな姿を見たら···」
平田さんは険しい表情で俯いた。傍から見れば、この人は俺達から義母さんを奪っていった人だ。でもこの人は唯一、俺達の大事な義母さんを救ってくれた人でもあった。
「こんなことはおかしいんだ、って何度も何度も説得した。少しずつ絵美も分かってくれた。でも君達を残して逃げることを彼女が選ぶわけが無かった。それからしばらく経って、絵美は妊娠した。」
俺と翔は同時に目を見開いた。
「···妊娠?」
翔が絞り出すように声を出した。平田さんは浅く頷いた。
「でも、すぐに流産した。もちろん僕の子じゃない。社長との子だった。社長が絵美の妊娠に気付いていたのかどうかは分からない。」
あの時の光景がチラついて吐きそうだった。‘早紀’と呼ばれ続けた義母さんの苦しみはどれ程の物だったのだろう。
「絵美が社長から離れる決意をしたのは、流産してから三ヶ月後のことだった。」
――義母さん、俺達のことは気にしなくて良い。翔のことは俺がちゃんと守るから。
あの時、義母さんは俺が知っていたことに相当ショックを受けていたと思う。
――俺達は大丈夫。このままだといつか翔も気づくかもしれない。その前に逃げた方が良い。
薄暗く冷たい廊下で、義母さんは声を殺して泣いた。泣く姿を見たのはこの時が最初で最後だった。血の繋がらない俺を本当に大事に育ててくれたと思う。生みの母親より、俺は育ててくれた義母さんに感謝していた。幸せになって欲しい。本当に心からそう思った。
――もう自由になって良いんだよ。
雪の日の朝。目が覚めた時、この家に義母さんの姿は無かった。親父はかなり取り乱していた。俺が義母さんの背中を押したことに気付いていたのだろうか。俺に何か言おうとした親父の顔は、今でも時々思い出す。あの時、翔が起きて来なかったら親父は何と言っていたのだろう。
「君達を残してしまったことは本当に申し訳無かったと思っているんだ。···ただ、絵美だけを憎まないで欲しい。」
平田さんは深く頭を下げた。俺の中には義母さんを憎むなんて感情は無かった。翔の方に目をやると、頭を下げた平田さんをただじっと見つめていた。眼鏡の奥の瞳が揺れていた。
「···元々僕は、母さんを憎んではいません。あの日生まれた感情は憎しみではなく、絶望でした。」
小さな声で、でもはっきりと翔はそれだけ言った。平田さんはなかなか頭を上げなかった。
「···この前、どうして水曜日に一度来たんですか?」
長い沈黙に耐えかねたのは俺だった。
「あんな時間、俺も翔も普段はいません。あの日はたまたま」
「社長の命日だったから二人がいるかもしれないと思ったんだ。」
俺の言葉に被せてそう言った平田さんはゆっくりと頭を上げた。
「···僕は社長を許せない。でも君達はあの人の死を悼むだろう?絵美は死んだことさえ気付いて貰えていないのに。」
俯いた平田さんの肩が震えている。
「あの人の命日に、あの人ではなく絵美のことを二人に想って欲しかった。···理由はそれだけだよ。」
噛み締めるようにそう言うと、平田さんはゆっくりと立ち上がった。
「突然、申し訳無かったね。···絵美のことで何かあればここに連絡を。」
スボンのポケットから小さな紙を取り出すと、それを炬燵の上にそっと置いた。そして深く頭を下げると、平田さんはゆっくり扉の方へ歩き出した。俺も立ち上がり、平田さんを見送ろうと後に続いた。
「兄さん。」
平田さんに続いて居間を出ようとした時、こちらを見ることなく翔が俺を呼んだ。閉めかけた扉を再び開けて、半身を居間に入れた。廊下の真ん中辺りで平田さんも立ち止まった。
「···僕は父さんにとって、‘早紀の子’だったのかな。‘絵美の子’だったのかな。」
翔は頭が良い。俺が何年もかかってようやく浮かんだ疑問を、この一瞬で口にする。翔は、流産した子どもと同じように義母さんが‘早紀’と呼ばれて身籠った子どもである可能性は十分にあった。
「何言ってるんだ。」
努めて普段と変わらない表情で、話し方で、そう言う。自分の声が震えているような気がしてならなかった。横目で、廊下に立ち止まっている平田さんを見るとその背中は小さく震えていた。その震えが、俺の震えを助長させた。
「···お前は、間違いなく‘義母さんの子’だよ。」
翔は黙ったまま微動だにしない。俺はこれ以上震えないように拳を握った。本当の所は分からない。平田さんの話を聞く限り、‘早紀の子’である可能性は十分にあった。でもそれを今議論した所で意味はない。翔の傷を増やし、虚しさや絶望を助長していくだけだろう。
「···そうだね。」
寒々しい笑顔を浮かべて、翔はそれだけ言った。義母さんが出て行った理由を俺が知っていたことも、翔は気付いているだろう。目を合わせるどころかこっちを見ようともしない翔の横顔から目が離せなかった。
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