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 昨夜はなかなか寝付けなかった。同じ場面が何度も何度も頭の中を反芻した。熱を出して倒れた翔も心配だったし、昇が私に優しくしようとしたことも苦しかった。  私は小さな頃からずっと昇のことが好きだった。無口だけれど優しい所も、家族想いな所も、野球をしていた姿も、作業着を着て機械を触っている姿も、全てが好きだ。昇は時々ふと笑う。その顔を見たら、嫌なことがあっても笑って過ごせそうな気分になる。  昔の昇は、無条件で私に優しく甘かった。今の翔のように。でもいつからか、昇は私に優しくするのを躊躇うようになった。「好きだ」と言う私に何も反応せず、私に期待を持たせるようなことは一切しない。私だけに向けられる笑顔はもう何年も見ていない。どんなに遅くまで青井家にいても「家まで送ろうか」なんて言わない。上着やマフラーを貸してくれることもない。金曜の夜二人でスーパーに出掛けても、仕事か翔のことしか話さない。その作り上げられた態度は、私を女として受け入れる気は更々ないと必死に主張しているようだった。でも昇は私を遠ざけようとはしない。それはたぶん私のためではない。昇自身と、あとは翔のためだと思う。人に心を開けないあの不器用な兄弟にとって、私は内側の人間だ。煩わしいと思っているくせに、いなくなるのは不都合なのだと思う。いっそ拒絶してくれればいいのに。でも狡いのは私も同じ。昇が拒絶出来ないことを分かっていて、青井鉄工所に入ったのだから。 「茜ちゃん、これ届けて来て。」 炬燵で夕方のニュースを見ていると、キッチンにいた婆ちゃんが私を呼んだ。立ち上がってキッチンに行くと、婆ちゃんはさっきから漂っていた良い匂いの正体をいつものタッパーに詰め込んでいた。 「あとこれも。」 そしてタッパーの上にりんごを一つ。 「翔くん、元気になったかねぇ。」 今朝婆ちゃんに、昨夜翔が熱を出して倒れた話をした。婆ちゃんは昔から翔のことをすごく可愛がっている。普段土曜日に買い物なんて行かない婆ちゃんが午前中出掛けたのは、翔が好きな鶏大根を作るためだったらしい。  青井家までは徒歩ニ分程。毎日のように通る道。小学校も中学校も高校も短大もこの道のずっと先にあって、青井鉄工所は青井家の隣。買い物に行く時も駅に行く時も必ずこの道を通る。りんごが乗ったタッパーを両手で抱えて、薄暗い見慣れた道を進んだ。目的地が近づくに連れて、指先がどんどん冷たくなっていく。もちろん外は寒いけれど、それだけが理由じゃない気がした。 ――送るか? あんな表情もあんな言葉も欲しくなかった。同情で優しくされる程惨めなことはない。昇のことが好きで好きで好きで、でもそれが叶わないと自覚していることを大勢の前で泣き喚いた。さすがに昇も可哀想だと思ったのだろう。そんな風に思われるのが嫌だったから、ずっと昇の前では泣かないようにしていたのに。  青井家の斜向かいには古いアパートがある。二階建てで全六部屋。静流ちゃんが住んでいたのは、一階の一番奥の部屋だった。あれから十年も経ったとは思えない。一年目も三年目も五年目も、毎年そう思った。アパートの前で立ち止まって、何度も訪ねたあの奥の部屋の扉を見つめた。黒い傘が扉の横に立て掛けてある。もうあそこには、静流ちゃんとは何の関係もない誰かが暮らしている。再び足を前に進めようとした時、青井家からガチャッと扉を開ける音がした。ここからでは塀が邪魔をして、誰か出て来たのか分からない。 「···やっぱり昇くんは知っていたんだね。」 聞き慣れない、でも聞いたことのあるような声。 「義母さんから聞いていたわけではなかったんですね。」 そして昇の声が聞こえた。 「絵美を見ていて、もしかしたらとは思っていた。昇くんがいたから、絵美は家を出る決意が出来たんだね。」 久しぶりに聞いたおばさんの名前。昇がおばさんの話をしていることに驚いた。 「···俺は全てを知っていたわけではないんです。でもおかしいとは思った。だから出て行くように言っただけです。義母さんを救ったのは平田さんだ。」 塀の向こうに昇と一緒にいるのは、平田さん。おばさんと一緒にいなくなった事務員。翔と一緒に事務所で宿題をやっている時に、お菓子をくれたり勉強を教えてくれたりした優しいおじさん。私は彼の事が嫌いじゃなかった。むしろおじさんより、平田さんの方がおばさんとお似合いだと思っていた。 「···一つ、確認したいことがあります。」 短い沈黙の後、昇が口を開いた。 「会社を辞める時、何か会社から持っていった物はありますか?」 再び沈黙が走る。昇が何を尋ねているのか分からなかった。 「いや、何も無いと思うが。」 平田さんはそう答えた。 「···なら良いんです。ありがとうございます。」 ほんの少し安堵したような昇の声。そして二人分の足音が聞こえて、私は慌ててアパートの敷地内に隠れた。 「じゃあ。」 道に二人が出て来た。昇の隣にいるからか、立っているその姿は私の記憶の中の平田さんよりずっと小さく見えた。あんな弱々しい感じの人だっただろうか。二人が軽く頭を下げあって、平田さんは駅の方へゆっくり歩いて行った。その後ろ姿が見えなくなるまで昇はじっと立っていた。今日、平田さんは何をしに来たのだろう。おばさんは一緒じゃなかったのだろうか。昇は、今何を考えているのだろう。 「···茜?」 家に戻ろうとした昇が私の姿を捉えてしまった。私はおずおずと道に出た。 「聞くつもりは無かったんだけど···」 言い訳をするようにそう言って、昇に鶏大根が入ったタッパーとりんごを差し出した。 「婆ちゃんから。翔、良くなった?」 「たぶんなってない。さっき早退して帰って来た。」 「仕事行ってたの?」 昇は黙って頷いた。意識が朦朧として倒れるような高熱を出したのに。まるでおばさんがいなくなった後、何日も何日も熱が下がらなかった時のような恐怖感があった。あの時は本当にそのまま翔が死んでしまうんじゃないかと思った。昨夜もそうだ。ただの風邪とはどうしても思えなかった。 「···今の、平田さん?」 また昇は黙って頷いた。 「おばさんは?」 昇は差し出したままだったタッパーを私の手から受け取って、ゆっくり口を開いた。 「死んだらしい。少し前に。」 何も言葉が出て来なかった。昇もそれ以上何も言わない。ゆっくりと視線が合うと、昇はほんの少し悲しそうな顔で笑った気がした。きっと私が想像している何倍も昇は悲しいのだと思う。 「俺達は大丈夫だから。そんな顔すんな。」 自分がどんな顔をしていたのか分からないけれど、昇は少しだけ声のトーンを上げてそう言った。たぶん昇も、翔も大丈夫じゃない。そしてきっと翔の方が、今苦しい思いをしているはず。 「翔は···」 ――僕は大丈夫。 翔の様子が気になって顔を見たいと思った。でも、翔は私がいると平気なふりをする。また悲しい気持ちに蓋をする。今は会うべきじゃない。私のこの気持ちは、おばさんが死んだ悲しみじゃない。昇と翔の悲しみを分かち合うことは出来ない。 「···今日は帰る。翔、ゆっくり寝かせてあげて。」 「あぁ。わざわざ悪かったな。」 昇はそれだけ言うと家の中に入って行った。  家を出た時より空はずっと暗くなっていた。暗くて冷たい夜がやって来る。手ぶらになった両手をコートのポケットに突っ込んだ。おばさんがいなくなった時も翔が長い間高熱に苦しんでいた時も、結局私は何も出来なかった。おばさんがいなくなった昇の孤独を救ったのも、高熱に苦しむ翔を日常に連れ戻したのも、どちらも静流ちゃんだった。どれだけそばにいたって、どれ程の時間を共有したって、役に立たない人間はとことん役に立たない。静流ちゃんと初めて会った時、私は自分の力の無さを思い知らされた。  十三年前、翔の熱が下がらないまま小学四年生の冬休みが明けた。始業式の日もその次の日も翔の様子を見に行った。「大丈夫だよ」と笑う翔を心配そうに見つめる昇。おばさんがいない家の中は生活感が無くて、どこか知らない家に来たようだった。  青井家の斜向かいのアパートに中学生の女の子が引っ越して来たことは知っていた。母子家庭で、母親は忙しく働き、娘は目が大きくて人形のような顔をしていると噂で聞いた。昇と同じ中学だけれど、女の子とほとんど会話をしない昇と接点なんてあるはずがないと思っていたから話題にもしなかった。でも三学期が始まった次の週、学校帰りに青井家に行くと玄関の外に見知らぬ女の子が昇と一緒に立っていた。すぐに、引っ越して来た女の子だと分かった。噂通り、目が大きくてとても可愛い女の子。昔、従姉妹に見せてもらった西洋人形によく似ていた。そんな女の子が、昇に向かって笑っている。そして昇も笑った。一瞬にして胸がざわめいて、鼻の奥がツンとした。ランドセルを背負った私と、セーラー服を着た彼女。昇があんなふうに笑うのは、翔と私と昇の同級生の数人だけ。特別なはずの物が、初めて見る女の子に向けられていた。思えば、もうこの時点で私に勝ち目が無いことは分かりきっていた。この頃の私は別に昇と付き合いたいとかどうにかなりたいと思っていたわけではない。ただ一番近くにいる女の子でいたかった。 ――茜。そこのアパートに引っ越して来た中野静流。中一だってさ。 昇はまるで昔からの知り合いのように静流ちゃんを私に紹介した。その隣で優しく笑った静流ちゃんは、私に握手を求めて右手を伸ばした。その手を握った時、私が感じたのは恐怖だった。きっと変わってしまう。昇と翔と私の三人で過ごす時間は無くなってしまうのだろうと漠然と思った。  本好きだった静流ちゃんが翔と打ち解けるのはあっという間だった。あまり自分の話をしない翔が静流ちゃんとは本の感想を言い合い、生き生きと喋っていた。それをいつも昇が嬉しそうに眺めている。静流ちゃんと話すようになってから翔の熱は徐々に下がっていき、一週間後には以前と変わらない様子で学校に通えるようになった。  無表情でぶっきらぼうの昇が、ほんの少し照れくさそうにお礼を言う姿が好きだった。でも昇は静流ちゃんには真っ直ぐ素直にお礼を言う。笑うことも増えた。私に対しても、いろいろな表情を見せてくれるようになった。昇がこんなふうに笑えることを私は静流ちゃんに教わった。  地元の工業高校に入った昇は、家のことを理由に部活には入らなかった。昇が野球に未練があることは皆が分かっていたけれど、その意志は固かった。だから野球の話はなんとなく皆避けるようになった。中学二年生になった静流ちゃんも同じく部活には入らず、よく昇の部屋で本を読んでいた。 ――野球ってどうやるの?キャッチボールって私にも出来るかな。 読んでいた本の中に野球の話があったからと、静流ちゃんは言った。そして昇を連れ出した。投げることも受けることもままならない静流ちゃんを見て昇は呆れたように笑っていた。それから静流ちゃんが上達するまで何度も何度も練習をして、昇はほんの少しだけれど大好きだった野球の世界に戻れたのだ。静流ちゃんはいつも笑っていた。おばさんもそうだった。昇と翔には、そういう人が必要だったのだ。  静流ちゃんは誰ともでも喋れるけれど、誰とでも仲が良いわけではなかった。無駄に交友関係は広げない所は私達三人とよく似ていた。静流ちゃんが学校外で友達と遊んでいる所は見たことが無い。放課後や休日はだいたい昇や翔や私と過ごしていた。一緒に過ごす時間が長いと嫌でも分かる。昇が静流ちゃん を意識していること。静流ちゃんが昇を見ている時間が長いこと。 ――兄さんと静流ちゃん、付き合いだしたらしいよ。 ある日翔にそう言われた。ついに、私が昇の一番近くにいる女の子ではないことが明白となった。悲しかった。苦しかった。泣いて、ひたすら泣いて翔を困らせた。それでも私は二人のそばから離れられなかった。私の方がずっと昇のことを知っている。重ねてきた時間が違う。そう言い聞かせて。そんなことに何の意味もないことにちゃんと気づいていたのに。  そして困ったことに私は静流ちゃんのことも好きだった。静流ちゃんの笑った顔を見ると安心した。バカみたいなことで笑い合って、どれだけ喋っても話は尽きない。一緒にいて、こんなに楽しくて居心地が良い女の子は初めてだった。可愛くて優しくて大好きな静流ちゃん。大好きな静流ちゃんの隣には、大好きな昇がいる。大好きな人達と一緒にいるのに、時々無性に虚しくなった。 ――茜、どうした? ――茜ちゃん、聞いて! 抜け出せなかった。離れられない。でも虚しい。大好き。悲しい。一緒にいたい。私が昇の隣にいたい。四人でいたい。でも悲しい。三人でいた頃に戻りたい···――静流ちゃんなんていなければ良かったのに。  雪が降ったあの日、静流ちゃんが橋から川に落ちた。近所の人から聞いて、私は上着も着ずに家を飛び出した。  静かな病院の中に入った時、目に入ったのは廊下のずっと奥の方に立ちすくんだ昇の後ろ姿だった。スウェット姿で、足元はサンダルだった。名前を呼んでもその後ろ姿はほんの少しも動かなかった。 ――昇! 私の声は届かない。ねぇ、何があったの?静流ちゃんはどこにいるの? ――茜。 翔の声。少し離れた所に、私と同じくらい息を切らした翔が立っていた。 ――···静流ちゃんが、 その言葉の続きを本当は病院に着く前から分かっていた。救助された時、救急車に乗せられる前から静流ちゃんの心臓はもう動いていなかったと聞いていたから。分かっていたけれど、改めて事実を突きつけられると、体が、心が、凍りついていくような気がした。昇の後ろ姿が見える。昇の前では泣けない。泣いてはいけない。もう心は割れる寸前だったはずなのにそこだけは理性的だった。昇の姿が見えない所まで走って、走りながら泣いた。立ち止まって、崩れ落ちて、涙が止まらなくなった時、隣には息を切らした翔がいた。翔は立ったまま静かに泣いていた。そして小さな声で言った。 ――静流ちゃん、ごめんなさい。 何度も何度も。翔のその謝罪の意味が分からなかった。でも私の涙も止まらなくて、翔に何も尋ねることが出来なかった。気付いたら隣に翔はいなくて、外から微かに泣き叫ぶような声が聞こえた。  葬儀が済んだ数日後、私達は冬休みに入った。誰一人言葉もないままただなんとなく私は昇と翔のそばにいて、何もない時間を過ごした。静流ちゃんのいない日常は驚く程静かだった。  年が明けた冬休みの終わり。地区の餅つきがあって、その年の組長だった昇と翔のお父さんの手伝いのために私達も会場の公民館に出向いていた。去年と一昨年の餅つきはちゃんもいた。静流ちゃんのいない餅つきの方が多いはずなのに、この場にいないことに違和感を感じてならなかった。  餅つきも終わりに差し掛かった頃、こういう場であまり見ない人の姿が見えた。周囲も気付いた人からざわめきだして、そして恐ろしいほど静かになった。 ――···聞きたいことがあるの。 静流ちゃんのお母さんだった。三年程近所に住んでいたのはずなのに、静流ちゃんのお母さんと話をしたことは数える程しか無い。静流ちゃんとはあまり似ていないけれど、とても綺麗な人。泣き腫らしたような目元には怒りのような感情を感じた。私達の前に立ったその目は、私や翔ではなく真っ直ぐ昇を見据えていた。 ――見に覚えはある? 昇を見据えたまま静流ちゃんのお母さんは、白くて細い棒のような物を差し出した。私も、たぶん昇も翔もそれが何なのか分からなかった。ただ周りにいた大人が少しざわついた。 ――···妊娠検査薬。陽性なの。静流の部屋から見つけた。 周りのざわめきが大きくなった。私達三人はその言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。静流ちゃんのお母さんは泣いていた。いつも綺麗に化粧をして髪を纏めて、パリッとしたスーツを着ていた気がする。でも今日は、長い髪を纏めることなく化粧もせず、寒いのに薄い長袖を一枚着ているだけだった。 俯いている静流ちゃんのお母さんの手は震えていた。 ――···私には静流がどうして死んだのか分からない。自殺だと言われても理由の検討がつかなかった。でも、静流は妊娠していた。 昇は何も言わなかったけれど、ひどく驚いた顔をしていた。驚いた顔をしていたのは昇だけじゃない。静流ちゃんのお母さん以外、その場にいた全員が驚きで一言も言葉を発しなかった。 ――あなたが、静流を殺したの? 昇の前に立った静流ちゃんのお母さんは、詰め寄るように昇の両肩を掴んだ。 ――ねぇ!答えて!! 大人の女の人が、こんなふうに涙を流しながら大声を出している姿を見るのは初めてだった。怖かった。手が震えている気がした。でもこれは何に対する恐怖なのだろう。静流ちゃんのお母さん?静流ちゃんが妊娠していたこと?それとも、昇と静流ちゃんが‘妊娠するようなこと’をしていたこと?再び周りがざわめき出して、私は何も言わない昇を見た。ねぇどっち?静流ちゃんのお腹の中には昇との赤ちゃんがいたの?···それは私の心が耐えられなかった。 ――違うと思います。 気付いたら私の口は勝手に言葉を並べていた。 ――静流ちゃんが、知らない男の人と一緒にいる所を何度も見ました。 私は次々と嘘の言葉を並べ続けた。ただ昇を守るために。···いや、違う。私にとって都合の良い事実を作り上げるために。
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