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 平田さんの話を聞いて、安心した部分もあった。母さんは僕のことが嫌になったわけではない。‘仕方なく’捨てたんだ。そう思えば母さんに捨てられた苦しみがほんの少し和らぐ気がした。  父さんにとって僕が誰の子であるかは、兄さんに尋ねる前に自分の中で答えは出ていた。平田さんの話を聞く限り、僕を妊娠した時の母さんは‘早紀’だったのだろう。だから父さんにとって僕は‘早紀の子’。表面上は本当の‘早紀の子’である兄さんと同じように大切に育ててくれたのだと思う。でも父さんの中での一番は、いつだって兄さんだった。きっとどこかではちゃんと分かっていたのだろう。僕は早紀の子ではない、と。そしてたぶん、兄さんはきっとこのことを知っていたのだと思う。 「翔、寝てなくて良いのか。」 平田さんを見送った兄さんが戻って来た。浅く頷くと、兄さんは何も言わずに歩いて来て炬燵の上に持っていたタッパーとりんごを置いた。 「茜の婆ちゃんから。食えるか?」 タッパーの中身は鶏大根だった。婆ちゃんは、僕が体調を崩したと聞くといつもこれを作ってくれる。 「···少し、食べるよ。」 頭は重いし食欲は全く無いけれど、美味しそうに見えた。 「そうか。」 兄さんはほんの少し声色を明るくして、キッチンに食器を取りに行った。兄さんの感情の、この微妙な変化に気付く人は一体今どれくらいいるのだろう。僕と茜は気付けるけれど、兄さんが負の感情の中にいる時そこに踏み込めない。それが出来たのは、僕が知る限り静流ちゃんだけだった。今もここに静流ちゃんがいたら、と思う。そうしたらこんな重苦しい空気もあっと言う間に消し去ってくれるのに。でも静流ちゃんはもういない。僕があの時静流ちゃんのために何かしていたら未来は変わっていたのだろうか。 「···兄さんは、母さんが出て行った理由を知ってたんだよね。」 僕の目の前に皿と箸を置いた兄さんは、僕の言葉を聞いてピタリと動きを止めた。 「···あぁ。」 そう小さく答えて、兄さんはその場に腰を下ろした。 「黙っていて悪かった。」 頭を下げた兄さんに、僕は首を横に振った。 「···知っていただけじゃない。‘出て行けば良い’とまで言った。お前の気持ちなんて、全く考えずに。」 僕はまた首を横に振る。頭を下げたままの兄さんには見えていないのに。僕の気持ちを全く考えなかった、というのは嘘だろう。恐らく兄さんは色々な物を天秤にかけたはず。その結果、何よりも優先すべき事が母さんを逃がすことだった。それだけだと思う。昔から兄さんは言い訳をしない。過程で自分がどれだけの苦労をしていようとも、結果が伴わなければ頭を下げる。いつだって潔かった。 「僕は何も気付けなかった。だから、兄さんが母さんを助けてくれたこと、感謝してる。」 ようやく顔を上げた兄さんは、真っ直ぐに僕を見た。 「体調が良くなったら···いや、翔が行きたいと思った時にでも墓参りに行こう。」 頷くと、ほんの少し兄さんの表情が和らいだ。 「お前、今熱は?」 「測ってないから分からないけど。」 兄さんは立ち上がって、キッチンに出しっぱなしになっていた体温計を持ってすぐに戻って来た。無言で差し出された体温計を受け取って脇に挟む。その間兄さんはさっき持って来た皿に、タッパーから鶏大根をよそっていた。 「米は?」 「いや、これだけで大丈夫。」 僕の返事を聞くと、再びキッチンに向かった兄さんは炊飯器から自分の分だけご飯をよそってまたすぐに戻って来た。そして体温計の電子音が鳴った。 「何度だ?」 「···37.6℃。」 昨夜より少し下がった。昨日と比べればかなり楽になった。 「食ったらすぐ寝ろ。明日は休め。」 兄さんは頭を掻きながら眉間に皺を寄せた。 「いや、でも明日日曜だから仕事行かないと···」 「職場でも帰れって言われたんだろ。お前が大丈夫だと思っていても、周りからはそう見えない。」 ――翔。‘大丈夫’って、我慢するための言葉じゃないと思うよ。 「翔。」 ――ねぇ、翔。 「俺はずっとここにいる。お前を置いて行ったりしない。」 ――翔は一人じゃないよ。だから、 「だから、大丈夫じゃない時は、ちゃんとそう言え。」 ――全部、言葉にしても良いんだよ。 兄さんと静流ちゃんが時々重なって見えるのは、二人がどこか似ていたからだろうか。考え方というか、僕へ向ける二人の言葉は真意が同じような気がしていた。言葉数が少ない兄さんと、たくさんの言葉を繋いでいく静流ちゃん。基本的な所は同じで、お互いに相手の考えていることをよく察して動いていたように思う。静流ちゃんといる時の兄さんは穏やかだった。とても居心地が良かったのだと思う。なのに、静流ちゃんはいなくなってしまった。兄さんをあれ程まで理解出来る人はもう現れないかもしれない。あの時死んでしまったのが、どうして静流ちゃんだったのだろう。 ――翔、ごめんね。巻き込んでしまって、ごめんなさい。 静流ちゃんは何も悪くないはずなのに、何度も何度もそう僕に謝った。どうして静流ちゃんだったのだろう。どうして··· ――大事なものを奪われる苦しみを味わえば良い。 突然頭に響いたのは静流ちゃんではない、でも聞き覚えのある声。 「翔?」 手が震えた。動悸がした。うまく息が出来なくて、なんとかしようと右手で胸の辺りを強く押さえた。でも何も変わらない。苦しい。苦しい。苦しい。でも一番苦しいのは僕じゃない。 「···ごめん、兄さん。やっぱり僕横になってくるよ。」 やっとの思いでそれだけ言って立ち上がった。兄さんは何も言わずにじっと僕を見ている。それでも僕はその視線に気付かないふりをして、真っ直ぐ居間の扉に向かった。 「翔。」 名前を呼ばれたけれど、振り向けなかった。僕の手の震えは止まらない。だって、言えない。言えるはずがない。 「···兄さん、ごめん。」 絞り出すようにそれだけ言って、僕は居間の扉を閉めた。  こんなふうに熱が出るのは初めてではなかった。小さな頃から悩み事を自分の中でうまく消化できずに、本を読み続けてもどうにもならない時には熱が出た。風邪を引きやすいと思われていたのだろうけれど、本当に風邪を引いたことはほんの数回だけ。それでもだいたい一晩で熱は下がり、何かしら自分の中で区切りつけて前に進んでいたと思う。  母さんがいなくなった時、すぐには熱が出なかった。僕にとってそれほどショックな出来事ではなかったのだろうかと、僕自身が一番驚いていた。でも一日一日過ぎて行くに連れて、僕の世界がどれ程変わってしまったのかを心の深く深くまで刻まれていくのが分かった。普通に過ごそうとしているのに、心だけは暗くて深い闇のような所へどんどん落ちて行く。そして母さんがいなくなって一週間が経った頃、一晩では下がらない高熱がその後何週間にも渡って僕を襲った。本を読む気力すら無く、母さんがどうしていなくなったのかを、熱で働かない頭をフル回転させて考え続けた。兄さんや父さんにはとても迷惑をかけた。茜にはとても心配をかけた。でもどうやって区切りをつけて、前へ進んでいったらいいのか全く分からなかった。  そんな時、兄さんと一緒に部屋に入って来たのが静流ちゃんだった。兄さんが見知らぬ女の子と親しげに話していることに驚いたけれど、静流ちゃんと少し会話をしただけでその理由が何となく分かった気がした。人形のように整った顔立ちをしているのに、静流ちゃんはその顔をクシャクシャにして笑う。その笑顔には嘘がない。そして、静流ちゃんは絶対に僕を、他人を否定しない。僕が言ったことに対して「そんな考え方があるんだね」と目をキラキラとさせる。それまで変わり者だと言われ続けて来た僕にとってその反応は新鮮だった。周りから共感が欲しいわけじゃなかった。ただ受け入れられているということがこんなにも心地良いことなのだと静流ちゃんは教えてくれた。  静流ちゃんは自然と兄さんの隣にいて、僕と茜にもとても優しかった。兄さんはよく笑うようになったし、茜も静流ちゃんに懐いていた。ただ茜は僕の前でだけ時々泣いた。静流ちゃんと出会うずっと前から兄さんだけを見ていた茜にとって、その状況は苦しくもあった。だから兄さんと静流ちゃんが付き合うことになった時、それを茜に伝えるのは気が引けた。出来ることならこのまま話さず、今のままでいられたら良いのにと何度も思った。案の定茜は泣いた。 ――私の方が昇とずっと一緒にいるのに。私の方が昇のことを知っているのに。 それを聞きながら、僕は思った。僕の方が、兄さんよりずっと茜のそばにいて、茜のことを分かっているのに、と。  僕と茜は中学に、静流ちゃんは隣町の高校へ進学した。兄さんは高校三年生。父さんと話し合った結果進学はせず青井鉄工所に就職することになっていた。この頃は兄さんが会社を継ぐなんて話はなく、幼い頃から父さんの仕事に興味があった兄さんが自ら望んだことだった。父さんはとても喜んでいた。放課後や夏休みには兄さんも工場へ行き、父さんや熊田さんに簡単な加工を教えて貰っていたようだった。茜は中学入学と同時にバレー部に入り、放課後や休日に会うことは少なくなった。兄さんと茜がいない中でも、静流ちゃんは時々家にやって来た。僕の部屋で宿題をやったり本を読む静流ちゃんは空気のようで、時々同じ部屋にいることを忘れてしまう。静流ちゃんにとっての僕もきっと同じような存在だったのだろう。 ――おかえり、昇。 兄さんが帰ってくると、静流ちゃんはとても嬉しそうに笑う。そんな静流ちゃんを見て、兄さんも笑う。あぁ幸せそうだな、と思いながら僕の頭の中には一瞬茜の泣き顔が浮かぶ。でも僕にはどうすることも出来ない。こんな二人を前にして、茜の気持ちを優先させることなんて無理だった。それに茜や僕といる時の兄さんより、静流ちゃんといる時の兄さんの方が僕は好きだった。小さな頃からずっと僕に優しくしてくれていた兄さんには、これから先ずっと幸せでいて欲しかった。そのためには静流ちゃんが不可欠だった。  中学に入っても僕は人と上手く関わることが出来ずにいた。茜を含む小学校からの数少ない友達は全員クラスが違い、僕からクラスメイトに話しかけることもクラスメイトから僕に話しかけてくることもない。授業中以外はずっと本を読んで過ごしていた。ただ毎日退屈だった。教科書を見れば分かるような授業を延々とし、目立たないように空気を読んで過ごす日々に辟易していた。静流ちゃんとお互い空気のように過ごしている時間の方が余程有意義だった。だから僕は時々嘘をついて学校を休んだ。普段通り起床して学校へ行く準備をし、僕より早く家を出る父さんと兄さんを見送ってから父さんのふりをして学校に欠席の電話を掛ける。あとは靴を隠して、制服を着たまま自分の部屋で本を読んで過ごした。父さんが仕事中に家に戻って来ることはまずない。それを良い事に、僕は二階の奥の部屋にも忍び込んだ。父さんと早紀さんの部屋だった場所。母さんがいた時は、父さんも母さんも一階の和室で寝ていたけれど、母さんがいなくなってまたここは父さんの部屋になった。この部屋にはたくさんの本が並んでいた。推理小説や恋愛小説、実用書や図鑑。父さんや母さんが本を読んでいる所はあまり見た事がなかったから、きっとこれらは亡くなった早紀さんの物だったのだろう。普段は父さんにこの部屋には入ってはいけないときつく言われていた。だからこっそりと、誰もいない時にだけここで本を読み漁った。それが僕の日常。退屈で、特別なことは何もない。母さんがいなくなって変わってしまった世界で、僕は僕なりに毎日を歩んでいた。でも、あの日からまた僕の世界は変わってしまった。  九月の末。この日も僕は学校を休み、二階の奥の部屋で朝から本を読んでいた。今日休むことは昨夜から決めていて、昨夜も遅くまで本を読んでいた。段々と瞼が重くなり、気づけば床に座ったまま眠りに落ちていた。  どれ程時間が経ったのか分からないが、遠くで物音が聞こえた気がした。それが玄関の扉の音だと気付いて、飛び起きた。時計を見たけれど、まだ十一時を過ぎたばかり。父さんか兄さんが帰って来たのだろうか。そして階段をゆっくりと上がってくる足音と共に、父さんの声が聞こえた気がした。僕は慌てて読みかけの本を持ったまま立ち上がり、音を立てないように本棚と反側にあるクローゼットの中に隠れた。そして、部屋の扉が静かに開いた。 ――入るんだ。 父さんの声。足音は一つでは無かった。 ――···どうした?早く入りなさい。 その声は違和感を覚える程に柔らかく、優しかった。一体誰といるのだろうか。クローゼットの扉の隙間から様子を覗おうとしたけれど、見えるのは部屋の中に一歩入った作業着姿の父さんだけだった。その父さんが、部屋の外にいるであろう人物の腕を掴んだ。そして引っ張られるように部屋に入って来たのは、静流ちゃんだった。この状況が何を意味しているのは全く分からず、僕はただその隙間から見える景色を凝視することしか出来なかった。静流ちゃんの表情は別人のように曇っていた。いつもあんなに笑っているのに、その面影は無かった。 ――良い子だ。さぁ、早紀おいで。 ···‘早紀’?そう言った父さんの表情は、今まで見たことが無いものだった。俯いた静流ちゃんは目を固く閉じて唇を噛んでいた。そして、父さんの次の言葉に僕は自分の耳を疑った。 ――脱ぎなさい。 僕の鼓動が高鳴ったのと同時に俯いていた静流ちゃんが目を見開いた。そしてゆっくり、とてもゆっくりと自分の服に手を掛けた。満足げに笑う父さん。あれは本当に父さんなのだろうか。そう思わずにはいられない程、目の前の光景は異常なものだった。半袖のTシャツと、デニムのスカートが床に落ちた。動きを止めた下着姿の静流ちゃんがただじっと立っていた。 ――全部脱ぎなさい。 その言葉で再び静流ちゃんは唇を噛み締めた。明らかにおかしいのに、何故か静流ちゃんは黙って父さんの指示に従った。 ――···良い子だ。 下着を脱いで裸になった静流ちゃんに、父さんは一歩近付いた。僕は、母さん以外の女の人の裸を初めて見た。膨らんだ胸、細い腰。短パンやノースリーブ姿の静流ちゃんは見慣れているはずなのに、何も服を着ていないというだけでその手足も全く違う物に見えた。この異常な光景を前にして、僕の心臓は恐怖とは別の感情で高鳴っていた。 ――早紀、おいで。 目の前で静流ちゃんがベッドの上に倒された。そこから先はもう見ていられなかった。さっき抱いた自分の感情に、吐き気を催す程に嫌悪した。ベッドが軋む音。シーツがずれる音。荒い呼吸。漏れる微かな声。そして時折聞こえる静流ちゃんの拒絶の言葉。 ――あいつも、大事なものを奪われる苦しみを味わえば良い。 静流ちゃんを残して部屋を出て行く時、父さんはそう一言呟いた。  もう何度も見た悪夢で目を覚ました。でもあれは夢なんかじゃない。悪夢のような現実を、僕がただ受け入れられずに夢だと思い続けてきただけ。静流ちゃんが死んだ時、どうして熱が出なかったのか不思議だった。でもそれは、僕がただあの出来事を受け入れられずに逃げていただけ。十年間逃げて逃げて、でもついに逃げられなくなった。墓参りの時、兄さんと静流ちゃんの話をしなければ良かったのだろうか。居酒屋に兄さんを迎えに行かなければ良かったのだろうか。茜と昔の話をしなければ良かったのだろうか。平田さんがここに来なければ··母さんの話を聞かなければ良かったのだろうか。そうすれば僕は、あの日のことを永遠に悪夢だと思い続けて平凡な毎日を送れたのだろうか。ずっと、父さんの言葉の意味が分からずにいた。でもさっき平田さんの話を聞いて繋がった。どうして静流ちゃんだったのか、静流ちゃんでなければならなかったのか。 ――翔、ごめんね。巻き込んでしまって、ごめんなさい。 父さんが出て行った後、僕は物音を立てて静流ちゃんに見つかった。 ――お願い、昇には言わないで。 単純に、恋人である兄さんに知られたくないだけだと思った。でも違う、それだけじゃない。静流ちゃんは、兄さんを守りたかったのだと思う。 ――早紀。  母さんも静流ちゃんも、父さんにとっては‘早紀’の身代わり。 ――大事なものを奪われる苦しみを味わえば良い。 復讐だったのだ。‘早紀’の身代わりだった母さんを奪った兄さんへの。
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