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 あの日冷たくなった静流を前にした時、情けないことにどうしてこんなことになってしまったのか全く検討がつかなかった。静流の死はあまりにも突然で、あの日は涙すら出なかった。  その後誰に何を聞かれても、俺は「分からない」としか答えられなかった。本当に何も分からなかった。前日に会った時、静流は笑っていた。俺はまたその笑顔に救われて、その日を終えた。好きだとか大切だとか、そういう言葉では言い表せない。静流がいない世界には意味がないと思う程にかけがえのない存在だった。静流無しでは生きていけないとさえ思った。でもそれは嘘だった。静流がいなくたって生きていけた。腹は減るし、眠くもなる。明日やることを考えて、毎日を過ごす。静流がいない世界で普通に生きていけることが、何よりも苦しかった。  静流の母親に妊娠検査薬を見せられた時も俺は何も分からずに、何も言えなかった。見かねた茜が隣で嘘をついた時、初めて俺は静流が誰かとセックスをしたのだと理解した。俺ではない誰かと。でも俺ではないと言ったところで、どうせ静流の母親も周りの大人も誰も信じない。だから真実は俺以外の男だったとしても、俺が相手だと思われれば良いと思った。本当に静流の腹にいた子どもが、俺の子どもだったら良かったのに。今でもそう思う。でも実際は体に触れたことはおろか、手を繋いだことも無かった。  触れたいと思ったことが無かったわけじゃない。何度もその手に、その体に触れたいと思った。でもその瞬間頭に浮かぶのは親父が義母さんを抱いているあの光景だった。狂ったように‘早紀’を求めて義母さんを抱く親父の姿が浮かんで消えなくなる。あの行為に愛なんて存在しない。あの光景を思い出すと、静流に触れたいと思うその感情が愛なのかただの欲なのか自信が無くなった。怖かった。義母さんをあそこまで追い詰めた原因の一つであろうあの行為が。静流も何も言わなかったし、急かすように俺に触れてくることもなかった。でも触れられない理由を何一つ伝えられないまま、静流は俺ではない誰かの子どもを妊娠して死んでいった。静流のことを信じている。信じていると言い切れるのに、触れられない俺を嘲笑いながら他の男と触れ合っていたのではないかと疑うほんの僅かな気持ちが心の片隅から拭いきれずにいた。でも、絶対に違う。静流は俺を裏切っていない。セックスも妊娠も絶対に合意じゃない。僅かな疑念が浮かぶ度叩き潰して来た。  一生一緒にいたいと思っていた。でもきっと何年一緒にいても、結婚したとしても、俺はきっと静流に触れることはできなかったと思う。  月曜日。昨日も一日仕事を休んで寝ていたけれど翔の熱はまだ下がっていない。おにぎりの代わりにお粥を作り、一度眠っている翔の様子を見てから仕事に出掛けた。  今年の仕事もあと三日。年末は受注も少ない。事務所で加工する製品の図面を確認していると、機械室の方から熊田さんの大きな声が近付いてきた。そして事務所の扉が開いた。 「おう、昇。」 「おはようございます。」 この人が社長をやるべきだったと今でも思う。加工技術も人望も人柄も、なに一つ俺が勝てる物はない。この人がいなければこの会社は回っていかない。たった数時間の忘年会ですら上手くいかなかったのだから。 「何か揉めてるのか?」 受注書を眺めながら熊田さんはこっちを見ることなく言う。 「···いや、別に。」 忘年会でのことを機械室にいた誰かに聞いたのだろうか。 「お前に自覚がないだけか。ありゃ怒ってるぞ。」 熊田さんはニヤニヤと笑っている。 「···誰の話っすか?」 「茜だよ、あーかーね!こっちにまだ来てないんだろ。険しい顔してあっちでずっと掃除してるぞ。」 時計を見れば、普段ならとっくに茜は事務所にいる時間だった。そもそも茜が機械室に長居することなんてほとんどない。そう言えば昨日は翔の様子を見にも来なかった。普段なら絶対に押し掛けてくるのに。 「たまには機嫌取ってやれよ。家で飯食うだけじゃなくてどこか連れてってやるとかよ。」 「···別に揉めてないっすけど。そういう仲でもないし。」 「そりゃひでえな。」 熊田さんは呆れた顔でこっちを見ている。 「ここの奴らも大半がお前らは‘そういう仲’だと思ってるぞ。」 「···でも、実際は違うんで。」 熊田さんがこっちを見ていることは分かっていたけれど、俺は居心地が悪くて俯いた。目の前の図面を凝視したけれど何も頭に入ってこない。 「‘あの子’が死んでもう十年か。」 熊田さんからこんな話をして来たことは今まで一度も無かった。顔を上げると、熊田さんが真っ直ぐこっちを見ていた。逃げられない。誤魔化して嘘をついても見破られそうな気がした。 「なあ、昇。死んだ人間を忘れる必要はねえけどな、一緒に居られるのは生きてる人間だけじゃねえのか。」 ――私ね、昇といると毎日楽しいんだ。 「‘あの子’が一番でも良いんだよ。茜だって今更死んだ人間と競えないことくらい分かってる。だから進むことも引くことも出来ねえ。で、お前も受け入れることも拒絶することもしない。生殺しだよな。」 ――好きだよ、昇。 「部外者が口出しして悪いな。でも昇。お前には今、何か意見してくる大人が誰もいないだろ。親もいなくなって、社長なんて肩書きつけられたせいで頼れる大人もいなくなっちまった。お前、翔と茜にも甘えられねえだろ。」 ――兄さん、ごめん。 「毎年この時期になるとピリピリしてる。これから先もずっとそうやって壁作って生きてくのか。」 ――お前は自慢の息子だ。 どうやって生きていくことが正解なのか、そんなことを考えた所で何も答えは出なかった。義母さんの苦しみを知ってから、家の中でどうすれば良いのか分からなくなった。義母さんがいなくなった後、親父に対する不信感が拭えなくなった。翔を守らないと、ただそれだけを考えて生きた。 「···自分でも分かんないっす。」 ポツリと自分の口からそれだけ言葉がこぼれた。本当に今も分からないのだ。親父を尊敬していた。その仕事に憧れて背中を追いかけた。義母さんがいなくなった。親父を真っ直ぐ見れなくなった。翔が苦しんでいる。でも、何も出来なかった。静流が俺の心を救ってくれた。翔の苦しみも和らいだ。でも、茜を傷付けた。そして静流が死んだ。また何も見えなくなった。翔が家を出て、親父と二人になった。うまく話せない。うまく笑えない。静流が隣にいた時はちゃんと出来ていたのに。そして親父が死んだ。何も分からないまま社長になって、家には俺一人だけ。何も見えない。真っ暗だった。 ――昇の会社で働きたいの。 短大卒業間近だった茜がそう言った。暗闇に光が差した気がした。 ――好きだよ、昇。 ただそばにいて欲しかっただけなのに。そんなことを言わないで欲しかった。大切に優しく接する事が出来なくなった。茜に期待させてはいけない。茜を女としては見れない。死んで何年経っても、静流の顔が、声が、後ろ姿が、何一つ頭の中から消えない。俺は、茜の気持ちを受け止めることは出来ない。でも突き放せない。拒絶して茜が離れたら、俺はまた孤独だ。 ――私に、そんなことするわけない!! 茜も分かっている。俺が茜を女として見る気がないことを。だからこのままでも良いじゃないか。でも、茜は泣いた。泣きながらまた俺を守ろうとした。罪悪感が溢れ出て押し潰されそうになった。だからその罪悪感から解放されたかった。 ――同情が欲しいわけじゃない。 全部見透かされている気がした。 「分からねえなら、そう言えば良い。黙っているから周りもお前が何考えてるか分からねえんだ。」 熊田さんは真っ直ぐ近付いて来た。 「茜にも、お前が何考えてそういう態度取ってるのか話せば良い。」 「···いや、でも」 「茜がお前の傍にいるかどうかは、お前が決めることじゃない。お前の考えを知った上で、茜が決めれば良いんだ。」 目の前に立った熊田さんの表情はただ穏やかだった。 「なあ昇。今更かもしれねえけど、悲しいことは悲しいって言え。辛いとかしんどいとか全部言えば良いんだよ。お前が何も言わないと、翔と茜も我慢して何も言えねえだろ。ただ守ってやるんじゃねえ。見本になれ。あいつらが前向いて生きていけるように。」 翔が何も言えないのは俺のせいだったのだろうか。ずっと翔を守っていくために、俺自身の弱さは出さないように必死だった。でもそれが翔を追い詰めていたのだろうか。 「熊田さん。」 太腿の上にあった拳に力を込めた。 「···すみません。」 俺が一人でどれだけ考えても至ることのない考えだったと思う。熊田さんの言う通りだ。俺には、俺に意見してくれる大人がいない。そして俺自身も、周りの大人を頼ろうとはしなかった。 「大丈夫だ。お前が良い奴なのはちゃんと分かってる。」 そう言って熊田さんは俺の頭に手を置いて、ぐしゃぐしゃと動かした。懐かしかった。小さい頃、こうやって熊田さんに何度も頭を撫でられた。いつの間にか背丈を抜いて、肩書きだけ突っ走って前に行ってしまったけれど、昔も今も熊田さんは頼れる大人だったのだ。 「···でな、」 突然声色を変えた熊田さんは、ポケットから出した紙のような物を俺の前にポンと置いた。 「悪いが、こっちが本題だったんだ。」 ‘退職願’と書かれた物が、さっきまで見ていた図面の上に乗っていた。 「···なんすか、これ。」 「見ての通りだな。」 熊田さんの顔はふざけているようには見えなかった。 「定年までまだ···」 「もうちょいあるな。」 今年熊田さんは五十八になったはずだ。 「···理由、聞いても良いっすか。」 「ちょっと体の中に悪いもんが見つかってな。すぐ死ぬようなもんじゃねえけど、そろそろゆっくり過ごすのも良いかと思ってよ。」 俺はただ熊田さんの顔を見つめるだけで、何も言葉が出て来なかった。 「年度末まで働く。周りには事前に言っても言わなくてもどっちでも良い。」 何も言えない俺を置き去りにして熊田さんは話を進める。 「工場長の後任は···富里(とみさと)にしたいと思ってる。もちろん社長の意見も交えてだが。」 富里さんは確か三十代後半。俺より十歳程上だったはずだ。工場内では若い方だが、俺と同じで工業高校を卒業後ずっとここで働いているから二十年程勤務している。一通りの機械を触れるし、なんというか加工をする上での勘が良い。富里さんが作った物は、親父や熊田さんが作る物に全く見劣りしない。技術者としては凄い人だと思う。でも··· 「お前、富里苦手だもんな。」 熊田さんは苦笑する。 「そういうわけじゃ、」 「富里本人も周りも皆分かってるから今更取り繕うな。」 そう言われて俺は小さく頷いた。 「···凄い人だとは思います。ただ言葉が···富里さんが指導した新人が何人か辞めてますし。」 ーーーその孕ませた子死んだんですよね。 俺に対してだけじゃない。あの人は悪意の有無は分からないが、発する言葉を選ばない。 「そうだな。まあちょっと考えといてくれ。」 そう言って熊田さんはまた俺の頭に手を置いた。
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