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 改めて考えてみれば、昇が私を好きになることなんてあり得ないのだ。静流ちゃんのような美人でも無ければ、あんなふうに笑うことも出来ない。嫌なことはすぐ顔に出るし、愛想も無い。昇や翔が苦しんでいる時に、私は何も出来ない。何も出来ないくせに、静流ちゃんなんて居なければ良かったのにと何度も思った。そして静流ちゃんを貶めるような嘘をついた。昇にとってあんなに大切な人だと分かっていたのに。  青井家に鶏大根を届けに行った帰り道、昔の事を思い出していたらあの頃のことが頭から離れなくなった。この十年間、誰ともあの頃の話をすることは無かった。でも昨日、蓋をしたままだった思い出を開けたら、それから止めどなく溢れて来て止まらない。後悔とか悲しみとか、嫌な感情が止まらない。昨夜夢の中に出て来た静流ちゃんは、大好きだった笑顔でこっちを見ていた。そして呟く。‘茜ちゃんの嘘つき’と。何度も同じ夢で目が覚めた。何度も、何度も。そして思う。私なんかが、昇の隣にいていいのだろうか、と。  楽しかったこともたくさんあったはずなのに。むしろ楽しかったことの方が多かったはずなのに。でもきっと私はあの頃をやり直せたとしても、また同じことで傷つき、同じように傷つけてしまうのだと思う。  昨日も本当は翔の様子を見に行こうと思っていた。でも、昇の顔を見るのが怖かった。十年も経った今になってあの時自分がついた嘘の浅ましさを自覚した。どんな顔をして昇に会えば良いのか分からなかった。そして今朝も、いつも真っ直ぐに向かう事務所に私は入ることが出来なかった。昇は私が出勤するより先に事務所で仕事をしている。そこで二人きりで過ごす時間が、例え一切会話が無くても私にとっては大切だった。でも今日は入れない。普段絶対にやらない機械室の掃除をしている私を、従業員達が怪訝な顔をして見ていることには気付いていた。  始業時間ギリギリに事務所に入ると、昇と熊田さんがそれぞれ受注書や図面の確認をしていた。もう一人の事務員である浅井さんもデスクにいた。浅井さんは四十代の女性。子どもが大きくなったからと去年パートで入ってきた人だ。事務所内の光景があまりにも普段と変わらなくて、怖かったはずの昇の顔もすんなりと見れた。その真剣な横顔も好きだった。 「おいおい、痴話喧嘩は家でやれよ。」 私のよそよそしい態度に気付いたのか、熊田さんはニヤニヤと笑いながらいつも通りの大きな声でそう言う。浅井さんが困ったように笑っていた。昇は何も言わない。こっちを見ない。さっきまで顔を合わせるのが怖かったのに、今はこっちを見て欲しかった。ねえ昇、こっちを見て。何か言って。優しくしなくても良い。好きになってくれなくても良い。でもほんの少しでも良いから、私のことを考えて欲しい。一瞬だけでも、静流ちゃんより多く私のことを考えて欲しい。あんな嘘をついた私がそんなことを願うのは、やっぱり図々しいのだろうか。 「···笹島?」 昇の声。俯いていた顔を上げると、すぐ目の前に昇が立っていた。何故かとても驚いた顔をして。 「なんですか、社長。」 普段通り喋ったはずなのに私の声は掠れて、震えていた。 「···どうした?」 こんなに困った顔をしている昇を見るのは初めてだった。 「どうもしてません。」 嬉しいはずなのに、昇と目が合うとどうして良いか分からなくなる。自分のデスクから立ち上がって、コピー機の方へ向かおうとした。でも、驚くほど足に力が入らなかった。崩れるように尻もちをついた。椅子が大きな音を立てて倒れた。 「大丈夫か?」 熊田さんの大きな声が聞こえた。 「茜。」 会社では絶対に名前で呼ばないのに。目の前で片膝をついた昇は、さっきよりずっと困った顔で私の左肩に触れていた。うまく体に力が入らない。浅く息をしながら俯くと、スカートの上にポタポタと水滴が垂れた。あぁ、私はまた昇の前で泣いてしまっているんだ。 「茜。」 なんて声で私の名前を呼ぶのだろう。今更そんな風に優しく呼ばないで欲しいのに。ますます諦められなくなってしまう。全部欲しくなってしまう。私を見て、私を選んで、私に触れて欲しい。 「···好きだよ、昇。」 溢れるように出た言葉とともに、涙も止まらなくなった。昇は何も言わない。昇の顔は見えない。涙で視界が霞む。ボロボロと落ちる涙がスカートを濡らしていく。こんなふうに泣くのは、静流ちゃんが死んだ時以来だと思う。 「熊田さん、ちょっと抜けます。」 頭上で聞こえた昇の声と共に、大きな布のような物が私の頭を覆った。驚いて触れると、私のデスクにあったブランケットだった。そして驚いている間に体が浮いた。 「掴まってろよ。」 ブランケットを挟んだすぐ近くで昇の声がして、私は横向きに抱えられたまま動けなかった。驚き過ぎて、あんなに出ていた涙も止まった。所謂お姫様抱っこをされていて、あろうことか昇はそのまま歩き出した。事務所を出て機械室へ足を踏み入れたのに気付いて慌てた。 「ねぇ、皆見てるんじゃないの?」 「かもな。」 「かもなって。下ろして。どこ行くの?」 昇から返事はない。ブランケットで周りが見えないし、機械の音で誰の声も聞こえない。でも機械室の中をこんな格好で通って、誰も気付かないはずがない。また昇があらぬことを言われるかもしれないのに。でも、昇が私に触れていることが嬉しかった。  空気が冷たくなって、外に出たのが分かった。それから少し歩いて、昇は立ち止まった。 「下ろすぞ。」 地に足が着いた私は、頭から被っていたブランケットを外した。目の前には見慣れた青井家の玄関の扉があった。ポケットから鍵を出した昇はすぐに扉を開けて、私に中に入るよう促した。何度も、何百回も通っている場所なのに初めて来た場所のようで緊張した。靴を脱いだ私の腕を引っ張って、居間の奥にある和室の前で昇は立ち止まった。昇の部屋だ。昔、二階に昇の部屋があった頃は何度も入っていたけれど、ここが昇の部屋になってからは入ったことは無かったと思う。無言で襖を開けた昇は、私の腕を握ったまま部屋の中へ入った。畳まれた布団と小さな机、それからシンプルな掛け時計。それ以外何もない、生活感のない部屋だった。 「···なんで。」 どうして昇が私をここへ連れて来たのか分からない。泣いてしまった私が悪いのだろうけれど、昇がこんな行動に出るなんて思いもしなかった。 「泣いてたから。」 真っ直ぐに私を見て昇は答えた。そしてゆっくりと畳に腰を下ろして、私にも座るよう促した。 「寝てないのか?」 なぜそう聞かれたのか分からなかった。 「クマがひどい。」 そう言われて思わず目の下を手で隠した。 「茜。」 「···何?」 「俺はどうしたら良い?」 質問の意味が分からなかった。 「お前は、俺にどうして欲しい?」 その質問が、私にどんな答えを望んでいるのか分からない。何を言えば良い?なんて答えたらうまく行くの? 「茜が、思ってることを話してくれ。」 逸らされない視線は私の鼓動をどんどん速めていく。こんなふうに話をしたことなんて無い。ねぇ、これは前進なの?怖い。やっと正面から昇の顔を見れたというのに。 「俺は、」 何か言いかけた昇は頭を掻いて髪をぐしゃぐしゃにした。昔からの癖だ。うまく言葉が出て来ない時や、困っている時に昇は頭を掻く。大人になって昔のような短髪ではなくなったから、掻いた後の髪はぐしゃぐしゃになってしまう。その髪にも、触れたいと何度も思った。触れて、撫でて、元通りにしてあげたい。 「今、お前とちゃんと話がしたい。」 頭を掻きながら、でもはっきりと昇はそう言った。その言葉の真意は分からないけれど、少なくとも私の言葉を失わせるには十分過ぎる程の衝撃だった。何も言葉が出て来ない代わりに、すっかり緩んでしまった涙腺から再びボタボタと涙が溢れた。この十年、私達の会話は簡素なものばかりだった。昇は自分のことも話さないし、私に何か尋ねることもない。静流ちゃんのこともおばさんのことも話せないから、昔の話をすることも出来ない。誰とでも出来るような当たり障りのない会話だけを繰り返していく毎日だった。返事は「あぁ」とか「そうか」ばっかり。何を話しても昇はどこか遠くを見ているようだった。だからこっちを見て欲しくて、いつもと違う返事が聞きたくて、昇への気持ちを口にした。「好きだよ」と。初めて口にしたのは静流ちゃんが死んで半年程経った頃だった。笑われても、拒絶されても何でも良かった。ただ「あぁ」とか「そうか」以外の答えを、返事を聞きたかった。それなのに。 ――あぁ。 聞いているのかいないのか、昇の返事はいつもと変わらなかった。でもいつか違う言葉が返ってくるかもしれない。無意味だと分かっていても、僅かな希望を消し切ることが出来なかった。 「···好きだよ、昇。」 バカの一つ覚えだ。真っ先に出て来るのはこの言葉しかない。 「···あぁ。ありがとう。」 今は、ちゃんと私の話を聞いてくれている。十年言い続けて初めて相槌以外の言葉が返ってきた。 「好きだよ、昇。」 「あぁ。」 「私も、ずっと昇と話がしたかったよ。」 「そうか。」 「それから、」 「なんだ?」 「···あの時、嘘ついて本当にごめん。」 昇が、あの時私がついた嘘をどう思っていたのかは分からない。嘘だと知っているのか、あの嘘を真実だと思っているのか。昇はただ私の顔をじっと見ていた。 「静流ちゃんが知らない男の人といた所なんて、本当は見たことない。」 真っ直ぐな視線に耐えられなくて俯いた。 「本当は何も知らない。何も見ていないし、静流ちゃんから何か聞いたわけでもない。ただ、」 「あれが嘘だってことはちゃんと分かってた。俺の為に嘘ついたんだろ。」 降ってきた昇の言葉に再び私は顔を上げた。太腿の上に乗せていた手が震えた。 「···違うの。」 昇は真っ直ぐ私を見たままだった。 「···昇じゃなければ良いのに、って思っただけ。私が勝手に。」 昇は何も言わない。慣れているはずの沈黙が、今は怖くて苦しかった。でも本当に、私は昇のために嘘をついたんじゃない。昇との子どもを静流ちゃんが妊娠したなんて、考えたくも無かった。でも昇は私がついた嘘を、ちゃんと嘘だと気付いていた。気付いていたということは、昇は··· 「あか···」 「ねぇ、昇。静流ちゃんの子どもの父親って、本当は誰だったの?」 沈黙を破ろうとした昇の言葉を掻き消して尋ねた。 「本当に、昇だったの?」 昇の瞳が揺れた気がした。真っ直ぐ見つめる私から、今度は昇が目を逸した。 「教えて、昇。」 昇かもしれないという気持ちと同じくらい、昇ではないかもしれないという気持ちもあった。二人はあまりにもお互いに触れようとしていなかった。手を繋ぐ所も、寄り添って座っている所も見た事がない。そんな二人に子どもなんて出来るのだろうか。かと言って、静流ちゃんが昇以外の人と付き合っていたとも到底思えなかった。それくらい二人はお互いのことを大事にしていた。どちらにせよ確証が持てなかった。 「俺だよ。」 私を真っ直ぐ見て、はっきりと昇はそう言った。 「···え?」 「静流を妊娠させたのは俺だ。」 再びはっきりとそう言った昇の顔は、嘘をついているようには見えなかった。いつぶりか分からない程久しぶりに、昇の口から静流ちゃんの名前を聞いた気がした。 「妊娠したこと、知ってたの?」 「いや。知ったのはお前と同じ、あの餅つきの日だ。」 その答えを予想していなかったわけじゃないのに、胸の奥が煮えるような、底が見えない程奥深くまで堕ちていくような感覚を覚えた。じゃあ静流ちゃんはどうして··· 「だから俺は、」 「···なんで!?」 昇の言葉を掻き消した私の声は、自分が思っているよりずっと大きかったようだ。驚いた顔をした昇は続きの言葉を言えずに私の顔を見ていた。 「昇の子どもだったなら、なんで静流ちゃんは死んだの?なんで昇を置いて行ったりしたの?」 あんなに静流ちゃんを大事にしていた昇を置いて行った。確かに結婚もしていないし、二人共高校生だった。昇に非がないとは到底言えない。それでも、二人でなんとか乗り越えていくことは出来なかったのだろうか。静流ちゃんになら昇を取られても仕方ないと思えた。静流ちゃんなら昇を幸せにしてくれると思った。 「ずっと二人でいるんじゃなかったの?だから私は諦めようと思ったのに。···私なら、逃げたりしない。昇の前から居なくなったりしない。静流ちゃんのように昇を置いて行くなんて絶対にしない。」 「茜、俺は」 「私がそばにいる。絶対に昇を一人にしない。何があっても離れたりしないから。」 「茜、」 「静流ちゃんの代わりでも良い。静流ちゃんだと思って触ってくれれば良い。」 「茜!」 泣き喚く私の両肩を掴んだ昇は、何故か泣きそうな顔をしていた。昇の大きな声とその表情に驚いて、何も言えなくなった。 「俺は、静流以外を好きになることは無い。」 静かに、でもはっきりとそう言った。どうしてそんなに泣きそうな顔をして言うのだろう。昇の方が傷ついたような顔をするのだろう。 「···それでも良い。」 昔から、今もちゃんと分かっている。静流ちゃんに勝てるなんて思っていない。 「二番目でも良い。」 昇の瞳が揺れる。私の肩を掴んでいる両手が微かに震えている。 「好きだよ、昇。」 もう何度口にしたか分からない言葉と共に、目の前にあった昇の顔に近づいた。昇が逃げないのを良いことに、初めてその唇に触れた。柔らかくて、とても冷たかった。 「――···」 唇を離した瞬間、聞き取れない程小さな声で昇が何か言った。私の肩を掴んでいた手は力無い。少し離れて目の前の昇の顔を見ようとした瞬間、強い力に押されて一瞬で天井が視界に入ってきた。 「痛っ」 畳に頭を打ちつけた。倒れる瞬間に閉じた目を開けると、天井ではなく昇の顔があった。 「···昇?」 昇は表情無く私を見下ろす。私の腕は強く押さえつけられていた。聞こえてしまうんじゃないかと思う程、心臓がバクバクと鳴っている。戸惑いと期待が交差する。昇は今何を思っているの。 「···静流。」 私の顔を見つめたまま、ぽつりとそう言った。 「静流。静流。静流。」 泣きそうな、でもたまらなく愛しそうな声で何度も静流ちゃんの名前を呼びながら、昇の冷たい唇が私の額に、頬に、首筋に降ってくる。 「静流。」 静流ちゃんの代わりでも良い。そう言ったのは私。 「静流。」 静流ちゃんだと思って触ってくれれば良い。そう言ったのも私。 「静流。」 静流ちゃん以外を好きになる事は無い。昇はちゃんとそう言った。それでも良い。二番目でも良い。そう言ったのは私だ。 「静流。」 昇が好き。誰よりも好き。私が幸せにしてあげたい。 「静流。」 なのに、どうして私の名前じゃ無いのだろう。 「しず···」 昇の言葉が途切れたのと同時に、冷たい感触も消えた。 「···俺は、静流から解放されたいわけじゃない。このままで良いんだ。身代わりなんて無理なんだよ。俺にとっても、お前にとっても。」 私を見下ろしているはずの昇の顔が霞んでよく見えない。 「茜。」 優しく呼ばれた私の名前。でも静流ちゃんの名前を呼ぶ時のような愛しさは少しも無い。 「俺が静流以外を好きになることは無い。」 さっきも昇はちゃんとそう言った。 「ごめんな。俺が、お前に甘えてた。」 もう本当に、望みは無いんだ。分かっていた。でも分かりたく無かった。でも、終わってしまった。
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