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翔
立ち聞きしてしまったのは態とではないけれど、悪いことをしてしまった気分だった。兄さんが静かに玄関から出て行った後、しばらく経っても茜は出て来なかった。温めている途中だったお粥を火から下ろして、開いたままになっていた居間から廊下に出た。しんと静かな廊下に微かに茜の泣き声が聞こえる。
兄さんの部屋の襖も開けたままだった。中を覗くと、畳の上に仰向けになった事務服姿の茜がいた。両手で顔を押さえて泣いている。
「茜。」
僕の声に、茜の体がビクッと反応した。でも顔の上の手はそのまま。
「茜、入るよ。」
返事を聞かないまま部屋に入った。普段入ることの無い兄さんの部屋。私物は全て二階の兄さんの部屋にあるから、この部屋は殺風景だ。何もない。過去を思い出すような物も、今や未来を楽しく過ごすような物も。
「···翔、私どうすれば良いの?」
泣きながら茜は小さな声でそう言った。
「本当にずっと、静流ちゃんの代わりでも良いと思ってた。それでもそばにいられるなら。でも、私の名前を呼んで貰えないことがあんなに苦しいことだと思わなかった。」
「兄さんが、茜を静流ちゃんの代わりになんてするはずないよ。そんな狡いこと、絶対にしない。」
茜に、僕自身に言い聞かせるようにそう断言した。母さんの苦しみを知っている兄さんがそんなことをするはずが無い。でもさっきの兄さんが静流ちゃんを呼ぶ声は、あの悍ましい光景を連想させた。二つの声が耳に残って離れない。
「ねぇ、翔。」
嗚咽を漏らしながら茜は口を開いた。
「静流ちゃんはどうして死んじゃったのかな。」
「それは···」
妊娠をしたから。それが、静流ちゃんじゃない周りの人間が出した結論。
「昇との子どもなら、ちゃんと昇と話せば良かったのに。」
兄さんの言っていたことは本当なのだろうか。本当に、兄さんの子どもだった可能性はあるのだろうか。
「なんで、死んじゃうの?」
兄さんと静流ちゃんがそういう関係だったのかは、もう兄さんにしか分からない。でも僕は知っている。静流ちゃんが兄さんではない男に抱かれていたことを。でも分からない。静流ちゃんのお腹の中の子どもが、一体どっちとの子どもだったのか。
「狡いよ。勝手に居なくなったのに、ずっと昇を自由にさせてあげないなんて。」
静流ちゃんには分かっていたのだろうか。
「···なんで死んじゃったの?」
さっきの兄さんの言葉が、本当なのか嘘なのかは分からない。ただどちらにせよ、変わらないことだらけだ。兄さんが茜を受け入れなかったことも、静流ちゃんが死んだことも、父さんが静流ちゃんを傷付けたことも。何も変わらないのだ。
「静流ちゃんなんて、嫌い。」
分からない。分からないけれど僕は、兄さんとの子どもだったら良いのにと心から思う。でも、こんなふうに泣いている茜を前にして、そんなことを考える僕は酷い人間だろうか。
「茜。」
頭の中がすっきりしないのは、下がらない熱のせいだけじゃない。
「僕は、茜が好きだよ。」
きっと誰もが知っていた。でもずっと口に出来なかった。普段の僕なら絶対に言わなかったと思う。勝算も未来も何もない。
「好きだよ、茜。」
茜がいつも兄さんに好きだと言っていた時、こんな気持ちだったのだろうか。
「すみません。ご迷惑おかけしました。」
深く頭を下げてから見えた顔は普段通り穏やかだった。
「こっちこそ悪いね。無理に出て来て貰っちゃって。青井くんがいないと困ることが多くて。」
金曜の休日を含めて四日休んだ。まだ熱は下がらないけれど、昨夜店長から連絡があって今日から出勤することになった。解熱剤が効いているおかげで、今はそれ程しんどくない。大丈夫。僕はちゃんと出来る。
あれから兄さんとも茜とも会話をしていない。茜を残して仕事に戻った兄さんは、その後深夜になるまで帰って来なかった。茜は、あれから帰ったのか仕事に戻ったのかは分からない。驚いたような、でも悲しそうな顔をした茜を見て、僕はそれ以上何も言えずに逃げるように二階の自室に戻った。狡いことをしたと思う。全てを茜に押し付けたのだから。
「青井さん、風邪ですか?」
隣のレジにいた大学生の宮野さんが尋ねた。普段土日しかいないけれど、もう冬休みなのだろう。
「うん。土日休んで迷惑かけたよね。ごめん。」
「私は全然。店長がテンパってましたけど。」
宮野さんは笑う。
「でも青井さんがいない土日って初めてだったんで、なんかいつもと違ってました。」
「違う?」
「青井さん、知らないうちにいつもめっちゃ仕事してたんだなって。」
「···普通だと思うけど。」
「今まで気付いてなくてすみません。」
何故か頭を下げられた。特別なことは何もしていない。思いもよらない会話に狼狽えて、僕はただ首を横に振ることしか出来なかった。でも少し嬉しい気がした。誰かが僕のことを見ていてくれたということが。
「···宮野さんっていくつなんだっけ?」
「十九ですよ。」
「大学ってこの辺なの?」
「いえ、市内のM大です。実家から通ってるんで片道一時間半掛かるんですよね。だからバイトも休日くらいしか入れなくて。」
「そうなんだ。」
毎週末顔を合わせているはずなのに、僕は宮野さんのことを何も知らなかった。
「ていうか青井さん。他人にちゃんと興味あったんですね。」
そう言って宮野さんは笑う。
「どういう意味?」
「そのままの意味です。なんかいつも壁がすごいんで。」
「···よく言われる。」
別に壁を作っているつもりはない。でも小さい頃からずっと、僕を取り囲むような高くて分厚い壁が存在するらしい。
「あはは。じゃあたまには私と喋りましょう。なんか青井さん面白そうだし。」
明るく笑った宮野さんが一瞬静流ちゃんと重なった。顔も雰囲気も全然似ていないれど、こんなふうに笑って僕の壁の中に入ろうとする。僕に、その壁はちゃんと壊せるんだと教えてくれるように。そうだ、静流ちゃんは僕にとって光だった。とても温かくて明るい、居心地の良い光だった。
仕事を終えて店の外に出るともうすっかり暗くなっていた。解熱剤で下がっていた熱も昼過ぎ頃からまた徐々に上がってきている気がした。ただ、家でじっと寝ている時より心はずっと楽だった。ベッドに横になっている僕の頭に流れ込むのは嫌な光景ばかりだった。強く目を閉じても消えない。頭の中にこべりついて剥がれない。どうすれば静流ちゃんが死なずに済んだのかを何度も何度も繰り返し考えて、結局考えた数だけまた僕の頭の中でも静流ちゃんが死んでいく。もう、何度殺してしまったことだろう。
「青井さん、お疲れ様です。」
少し遅れて外に出て来た宮野さんは、白っぽいマフラーを首にぐるぐると巻いて自転車に跨った。
「お疲れ様です。」
「あ、」
店の灯りと道路を走る車のライトに薄っすら照らされた宮野さんは何か思い出したような声を出して、僕の方へ足で地面を蹴りながら近付いて来た。
「これ、あげます。」
コートのポケットから取り出した物を僕に差し出した。
「···飴?」
「のど飴です。風邪、早く治ると良いですね。」
僕の手のひらに小さな包み紙を残して、宮野さんは自転車を漕いで帰って行った。
――翔が元気になって良かった。
静流ちゃんが笑う。穏やかに、優しく、とても綺麗に。大人になった僕が思い出す静流ちゃんの顔は、傷つけらたあの時の悲しそうな顔ばかりだった。でもそうじゃない。静流ちゃんはずっと笑っていた。僕はその笑顔に救われて、毎日がそれまでより明るくなったんだ。なのに、僕はその笑顔を守ってあげることが出来なかった。
この道も景色も、この街の中は静流ちゃんとの思い出で溢れている。僕が働くこの本屋にも、静流ちゃんと本を買いに何度も来た。この道の先にあるスーパーに四人で買い出しに行った。夏休み、汗だくになりながら図書館へ行った。向こうの河川敷で花火をした。兄さんが笑っていた。茜が笑っていた。僕が笑っていた。静流ちゃんが笑っていた。なんて楽しい日々だったのだろう。あの悪夢を思い出さないために、僕はあの輝いていた日々にまで蓋をしてしまっていた。
気付けば家路とは違う道を進み、あの橋まで来ていた。住宅地のすぐそばにあって、車はすれ違えないくらいの幅の橋だ。橋を渡った先には隣町へ続く道がある。静流ちゃんが通っていた高校は、この道のずっと先にあった。
人通りは多くないけれど、交通量はそれなりにある。でもあの日は雪だった。積もった雪だけが明るく光る、暗い夜だった。川の流れは大雨でも降らない限り穏やかだ。でもこの辺りは深い。そして静流ちゃんは泳げなかった。たまたま住宅地の方から静流ちゃんが川に落ちるのを見た人がいてすぐに通報された。でも、助からなかった。眠っているような顔をした静流ちゃんは、二度と目を覚まさなかった。
欄干に手を掛けて、吸い込まれそうな程真っ暗な川を覗いた。それだけで少し恐怖感が湧いた。こんな暗闇の中に自ら飛び込んで行ける程、静流ちゃんはこちら側に居たくなかったのだろうか。何も知らないふりをして、のうのうと生きている僕を見て静流ちゃんはどう思うだろう。静流ちゃんを傷付けたのは僕の父親で、その瞬間を見たにも関わらず何もしなかった。僕は静流ちゃんではなく、家族を守った。いや、守ったわけじゃない。壊すことが出来なかっただけだ。
――翔。
静流ちゃんが呼んでいる気がした。僕が居なくなったら、兄さんと茜はどう思うだろう。ねぇ静流ちゃん。僕もそっちに行けたら楽になるのかな。
――翔、ごめんね。
どうして静流ちゃんが謝るの。
――翔。あのね、
「あの、大丈夫ですか。」
突然掴まれた腕の感覚と、静流ちゃんでは無い女性の声がした。静流ちゃんの声は聞こえなくなって、急に僕の鼓動は速くなった。
「大丈夫ですか。」
「大丈夫で···」
声の主の方へ顔を向けた瞬間、心臓が跳ねた。
「···静流ちゃんの、お母さん。」
少し遠くの街灯と月明かりに照らされたその顔は、十年の歳月を経てもはっきりと覚えていた。
「···え、」
静流ちゃんのお母さんは戸惑うような顔をして僕の顔をじっと見た。そしてゆっくりと僕の腕から手を離した。
「···青井、翔くん?」
「はい。」
「大きく···なったのね。」
――ねぇ!答えて!!
僕の記憶の中にある静流ちゃんのお母さんの最後の姿は、涙を流しながら兄さんに詰め寄るあの日の姿だった。あれからいつの間にかアパートは空き部屋になっていて、顔を見ることも言葉を交わすことも無かった。元々それ程関わりがあったわけではない。スーツを着て、背筋をピンと伸ばして仕事に行く姿を時々見掛けた。うちで過ごしていた静流ちゃんを迎えに家に来た時に顔を合わせた。その程度。いつも背筋を伸ばして歩く綺麗な人だった。一人で静流ちゃんを育てていたその背中はかっこよかった。静流ちゃんも言っていた。「かっこいい自慢のお母さん」と。そんな人が、あんなふうに泣いていた。
「元気···では無さそうね。」
僕の顔を見て、静流ちゃんのお母さんは眉尻を下げてほんの少し笑った。笑った顔は少しだけ静流ちゃんと似ている気がした。
「いや···そんなことないです。」
きっと僕は酷い顔をしてここに立っているのだろう。
「···あの子と、静流と同じ事をしようとしているのかと思った。」
静流ちゃんのお母さんははっきりとそう言った。僕は俯いた顔を更に下に向けた。さっき、一瞬あの暗闇に飲まれてしまいそうな気がした。それでも良いと思った。そうすれば楽になるんじゃないかって。
「翔くん。」
そっと僕の腕に触れた手は、とても冷たかった。
「逃げる方法は、きっと一つじゃないわ。」
それは、静流ちゃんに言いたかった言葉なのかもしれない。僕は何から逃げたい?どうやったらこの心は楽になれるのだろう。
――翔は一人じゃないよ。だから、全部言葉にしても良いんだよ。
全部、言葉に出来るわけがない。無理なんだよ、静流ちゃん。あの日僕が見た事を言葉にしたら、全部壊れてしまう。あれ程までに兄さんに知られたくなかった静流ちゃんの意思も、兄さんの父さんへの想いも、家族も、心も。きっと全部壊れてしまう。言えない。言いたくない。壊したくない。傷付けたくない。でも、苦しい。苦しくて苦しくて、どうしたら良いのか分からない。
「···ごめんなさい。」
真実を伝えられないことを、静流ちゃんを守れなかったことを、ただ謝ることしか出来ない。何について謝っているのかすら口に出来ないけれど。
「···ごめんなさい、ごめんなさい。」
膝から崩れ落ちて、冷たい地面に手をついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
あの日と同じだ。病院の外で、雪の上に額をつけて泣いて何度も謝った。十年前から僕は何も変わらない。
「···翔くん。」
静流ちゃんのお母さんの手が僕の肩に触れた。顔を上げると、僕と同じように地面に膝をついた静流ちゃんのお母さんが静かに泣いていた。
「静流の荷物にね、あなたに借りていた本があったの。ずっと返せていなくてごめんなさい。」
泣いているのに、その顔もその声もとても優しかった。
「今度、うちに取りに来てくれる?」
僕は、ただ黙って頷いた。
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