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 自分が何をしようとしたのか、思い出すだけで嫌悪感で吐きそうだった。居間に翔がいることには気付いていた。茜が本心であんなことを言ったわけじゃないことも分かっていた。 ――静流ちゃんだと思って触ってくれれば良い。 拒絶される覚悟で強く押し倒した。本当に身代わりにしようとすれば、茜の方から俺を拒否してくれるかもしれないと思ったから。 ――静流。 それなのに、呼んで触れたら本当に目の前に静流がいるような気がした。触れたことのなかったその額や頬や首筋に、触れたくて堪らなくなった。触れたくて愛しくて夢中で名前呼んだ。 ――昇。 静流の声が聞こえた気がして目の前の顔を見たら、茜が泣いていた。血の気が引いた。義母さんはこんなふうに泣いていたのかもしれない。俺は、あんなに嫌悪したはずのことをしてしまった。親父と同じことをしたんだ。 ――静流以外を好きになることはない。 自分の言葉に偽りは無い。でも、簡単に茜に触れられた。 ――早紀。 親父も同じだったのだろうか。母さんしか愛せないと分かっていながら、もう触れられない母さんの代わりに義母さんを使っていたのだろうか。義母さんの、親父への愛を利用して。俺も同じ事が出来てしまうのかもしれない。茜の気持ちを利用して、静流のいない現実から逃げる様に生きていく。茜は「それでも良い」と言うのかもしれない。そんなことが許されるわけないのに。  茜を部屋に残して仕事に戻ると、機械室の全員が好奇の目を向けてきた。声を掛けてくる人がいないのを良いことに、誰とも目を合わせることなく事務所へ向かった。事務所の扉を開けると、熊田さんと浅井さんが同時にこっちを見た。 「茜はどうした?」 茶化すような熊田さんの質問に俺は何も答えられなかった。まだ俺の部屋で泣いているのかもしれない。このまま工場には戻らずに家に帰るのかもしれない。何にせよ家には翔がいる。きっと翔が茜と話をしているはずだ。翔が茜を傷付けることはきっと無い。優しく、大切に慰めてやっているだろう。ずっと昔から分かっていた。でも知らないふりをして、俺のそばから茜を遠ざけなかった。茜を失って孤独になることが怖くて、翔の気持ちは見て見ぬふりをした。翔は何も言わない。だから大丈夫。本当は大丈夫なわけが無かったのに。 「後でまた様子見てきます。」 それだけ答えて仕事を始めた。机に置いてある図面は少ない。年末は受注が減る。毎年のことだ。分かってはいるけれど、忙しくて何も考えなくて良い程仕事が入って入れば良かったと思ってしまう。  昼休み。茜の様子を見に家に戻ったけれど、玄関には翔のスニーカーと俺のサンダルしか無かった。玄関の鍵もちゃんと閉まっていたから、翔が茜を見送ったのだろう。ここにいないのに工場に戻って来ないと言うことは、家に帰ったのだと思う。翔とも顔を合わせづらくて、玄関の鍵を閉めて工場へ戻った。  工場の敷地内に入ると、シャッターの前で富里さんが座って煙草を吸っていた。短髪で目つきが鋭く体格が良い。重い素材を誰よりも軽々と運び、無駄の無い動作でみるみる物を作り上げていく。不良品を出すことも滅多に無い。凄い人だと思う。熊田さんが、工場長の後任にしようとするのも分からないわけじゃない。 「お疲れ様です。」 それだけ言って横を通り抜けようとした。普段から富里さんと会話することは無い。今も極力関わりたく無かった。なのに。 「笹島ちゃんどうかしたんすか?」 こっちを見ることなく煙草をふかしながら富里さんは口を開いた。 「社長んちで寝てるんです?」 すぐに答えなかった俺を置いて、富里さんは喋り続ける。 「こないだは否定してたけど、やっぱ付き合ってるんすよね。あ、笹島ちゃん細いのにおっぱい大きそうだけどあれって本物なの?」 乾いた笑いと共に不愉快な言葉を並べ出す。 「···本当にそういうんじゃないんで。」 「またまた。今も一発ヤッてきたんじゃ」 「富里さん。」 下衆な言葉を遮ると、富里さんはまた笑った。 「冗談ですよ。そんな怖い顔しないで下さい。」 ニヤニヤと笑いながら、煙草の火を消して作業着のポケットから取り出した携帯用灰皿に押し込んだ。立ち上がってゆっくり近づいて来た富里さんは、俺よりもずっと背が高い。 「真面目な社長は、俺みたいな低俗な奴と関わるの嫌ですもんね。」 笑っているのに、その目は少しも笑っていない。 「ずっと思ってたんだけど、」 真っ直ぐ目が合った。 「あんたさ、何が楽しくて生きてんの?」 恐ろしい程真面目な顔で富里さんはそう言った。そして俺が言葉を発する前にまた笑い、何も言わずに機械室の中へ入って行った。  苦手だった。就職する前、夏休みや放課後に加工を教わりに通っていた頃はただ凄い人だと思っていた。気さくに話しかけてくれて、色々な事を教わった。あの頃の俺は今よりはずっと笑えていた。まだ静流がいたから。静流がいなくなって、就職して、社長になった頃からだったと思う。たぶん距離を置き出したのは俺の方から。真っ直ぐな物言いも、心の中にズカズカと踏み込んで来る感じも、発する言葉の数々も、全てが疎ましくて恐ろしく感じた。他の人は、腫れ物のように俺を見て接してきた。それが楽だった。でも富里さんは思ったことを口にする。入ってきて欲しくない所に無理矢理顔を覗かせようとする。今だってそうだ。何が楽しくて生きているかなんて、俺には分からない。楽しいことなんて何も無い。未来も希望も楽しいことも、十年前のあの日から何も見えない。  事務所に戻ると、熊田さんと浅井さんが弁当を食べていた。 「社長の分、そこにありますよ。」 俺のデスクの上を指差して浅井さんは言う。 「ありがとうございます。」 浅井さんは物静かな人で、必要以上の会話をして来ない。 「今、茜から電話があったぞ。」 熊田さんの言葉に足を止めた。 「体調悪くて明日まで休むって言ってたからよ。有給も全然使ってねぇからもう明後日まで休ませることにしといたぞ。」 口の中に大量の米を入れながらそう言う。 「あ···そうっすか。分かりました。」 明後日までと言うことは、年内はもう茜が仕事に来ることは無い。今まで体調が悪くても無理して仕事に来ていた茜が自ら休むと言った。それ程までに傷付けた。謝れば元通りになるのだろうか。それ以前に、‘元通り’って何なんだ。一体いつが、俺達にとって正しい関係だったのだろう。過去のこと、今のこと、これからのこと、仕事に集中出来ずにただひたすら考えた。でも何一つ答えは見つからなかった。  気付けば終業時間を過ぎ、次々と従業員達が帰って行った。翔の体調は心配だったが、それ以上に今は一人で居たかった。誰も居なくなった機械室の灯りを切って、床にダンボールを敷いて寝転んだ。ダンボール越しにでも体を芯から冷やすような冷気が伝わってくる。静流が落ちた川は、こんなものとは比べ物にならないくらい冷たかったのだろうな。一人きりで、これ以上の冷たさの中へ落ちていく時静流は何を思っていたのだろう。俺の事を思い出してくれただろうか。そもそもどうして一人だったのだろう。どうして俺に話してくれなかったのだろう。俺ではどうにもならないことだったのかもしれない。それでも俺は静流のためならどれだけだって足掻いたと思う。足掻いて足掻いてそれでもどうにもならなかったのなら、静流と二人であの川へ飛び込んだのかもしれない。何にせよ静流を一人になんてさせなかった。···そうか、俺もあの時一緒に死んでいれば良かったんだ。それならあんなふうに茜を傷付けることも無かった。翔はきっと家を出ずに、ずっと茜の側にいることを選んだはずだ。そうすれば、翔も茜も幸せに生きられたのかもしれない。もう傷付きたくない。傷付けたくない。でも、一人になるのは怖い。静流に会いたくて堪らなかった。  昨夜も今朝も翔の顔を見なかった。昨夜遅くに帰宅すると、キッチンにはラップを掛けられた皿が置かれていた。野菜の大きさは不揃いで、所々焦げた肉野菜炒め。たぶん自分は食べないのに、態々俺のために作ってくれたのだろう。  翔はその優しい性格のせいか、小さい頃から時々知恵熱のような症状が出ていたようだった。だいたいは一晩寝れば次の日には全快している。何日も続く熱が出たのは、義母さんがいなくなった後だけだった。ただ今回突然高熱を出して倒れた翔の姿を見て、あの時と同じようにすぐには熱が下がらないような気がした。風邪では無い。でも確実に翔の心は何かに蝕まれていた。あの時と同じように。  翔を苦しめるものは何なのだろう。どうして十年も経った今突然、静流のことで熱が出たのだろう。この十年、翔とも茜とも静流の話をすることは無かった。俺は静流の‘死’からたた逃げていた。静流が死んだ理由を恐らく翔は知っている。俺にも茜にも言えない理由を。翔を問い詰めて聞き出せば、俺の心は晴れるのだろうか。洗いざらい話すことで翔の熱は下がるのだろうか。···どちらもうまくいくとは思えなかった。翔が、俺が、この長い暗闇を抜け出す方法は果たしてあるのだろうか。  仕事を終えて七時過ぎに家に帰ると、中は真っ暗で翔の姿は無かった。居間のカレンダーを見ると、今日の勤務は遅出の印がついている。仕事に行ったのだろう。  二人分の夕飯を作って、自分の分だけ先に食べた。遅出の日、翔が帰ってくるのは九時過ぎだ。部屋の中に干されていた洗濯物を片付けて風呂に入ると、九時半を回っていた。翔はまだ帰って来ない。昨日は翔から逃げるように遅くに帰宅したくせに、今日は翔が帰って来ないことが気になって仕方がなかった。  十時を過ぎても十時半を過ぎても翔は帰って来ない。ただの残業だろうか。帰り道、また熱が上がって倒れているのかもしれない。いや、単に俺と顔を合わせないようにどこかで時間を潰している可能性もあった。  十一時少し前。玄関で鍵を開ける音が聞こえて、俺は炬燵から立ち上がった。慌てて廊下に出ると、靴を脱いだばかりの翔と目が合った。 「···あ、ただいま。」 小さく、少し掠れた声で翔は言った。 「···おう。遅かったな。」 「うん。ごめん、起こしちゃった?」 「いや、まだ寝てない。」 「兄さんにしては夜更かしだね。」 力無く渇いた笑いとともに翔はそれだけ言って、自室へ続く階段を静かに上って行った。  五分も経たないうちに翔は階段を降りて居間へやって来た。 「食えるならそこに飯あるぞ。」 「ありがとう。」 青白い顔の翔は、キッチンに置いてある夕飯の皿をじっと見つめたまま動かなくなった。俺は体を反らしたまま、炬燵からその様子を見ていた。 「···翔?」 しばらく経っても動く気配のない翔の名前を呼んだ。翔はゆっくりと一度だけ瞬きをしてから顔を伏せた。 「兄さん。」 「なんだ。」 「さっき、静流ちゃんのお母さんに会ったんだ。」 「···どこで?」 「静流ちゃんが落ちた橋の上。」 「···なんでお前そんなとこ行ったんだ。」 翔は答えない。 「あの人、何か言ってたのか。」 「···僕の本が、静流ちゃんの荷物の中にあったんだって。今度、取りに来てって言ってた。」 「本?」 「僕も何の本なのか覚えていない。貸した記憶も無いんだ。」 そう言いながら翔はズボンのポケットから折り畳まれた紙を取り出した。それを丁寧に広げて、ゆっくりと俺の方へ近づいて来た。広げられたメモ用紙には、名前と住所と携帯電話の番号が書かれていた。住所は静流の通っていた高校がある付近。名前は‘安藤由加里’と書かれていた。再婚でもしたのだろうか。あの人は、静流とはもう違う名字になっている。 「兄さんも行く?」 翔の言葉に、俺は驚いて顔を上げた。正面に立っている翔の顔は、今の言葉をどんな気持ちで発したのかまるで感情が読めなかった。 「···あの人が嫌がるだろ。」 あの人は俺を許さない。あの人の中で俺は、静流を傷付けて奪った憎い男なのだから。 「静流ちゃんのお母さんが、兄さんもって言ったんだ。」 翔の言葉に耳を疑った。···いや、もしかしたらこの十年で溜まった恨み辛みを正面からぶつけるつもりなのかもしれない。あの時俺がしなかった謝罪を今になって求められるのかもしれない。でも、それならそれでも良い。あの人が責めて罵ってくれることで、俺は静流の子どもの父親になれたような気がするから。いっそ、その恨みをぶつけて俺を殺してくれれば良い。誰でも良い。俺を静流の所へ連れて行ってくれるのなら。
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