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 今朝はよく冷えた。着替えを済ませて一階へ降り居間の扉を開けると部屋の温度が変わる。 「おはよう。」 紺色の作業着を着た広い背中。 「おう。そこに朝飯置いてある。」 「うん、ありがとう。」 「行ってくる。」 居間から出て行くその広い背中を見送って、僕はテーブルの上に並べられた朝食に目をやった。朝食はいつも同じ、おにぎりと味噌汁。今日の味噌汁は豆腐と葱だった。  家を出ると機械音が聞こえる。玄関の鍵をかけて道へ出ると、大きなトラックが停まっているのが見えた。トラックの横を通り抜けると、機械音に混じって人の声が聞こえる。 「おい、翔(しょう)!今から仕事か。」 見慣れた顔がトラックの後ろから顔を出した。僕が今までに出会った人の中で、おそらく一番声が大きい人だ。 「熊田(くまだ)さん、これなんだけど。」 トラックの後ろから現れたのは、ついさっき家で見た顔だった。 「今からか。気をつけてな。」 にこりともせず無表情でそう声を掛けられる。 「行ってきます。熊田さん、兄さん。」  ここは青井鉄工所。父さんが作った会社だ。大きな機械が並ぶ工場内では鉄製品の加工をしている。父さんに似て手先が器用で職人気質だった五つ上の兄さんは、工業高校を出て工場に入り二十八歳にして現在社長をやっている。 「おはようございます。」 「おはよう、青井くん。今日は新刊が多いから忙しくなりそうだね。」 「じゃあ僕、品出ししますね。」 ロッカーに上着と荷物を入れて、紺色のエプロンをつける。隣で話す店長も同じエプロンをつけている。胸には小さく‘葉月書店’と刺繍されている。 「よろしくね。」 店長が先に更衣室から出て行った。身なりを整えるために、更衣室の奥に一つだけある全身鏡の前に立つ。映った紺色のエプロンは、兄さん達が着ている作業着の色とよく似ている。僕はあの場所であの作業着を着ることは出来ない。だからここでこのエプロンをつけることで、心の底にある孤独感をほんの少し紛らわせていた。  少し残業をして帰宅すると、工場はもう閉まっていた。住宅は並んでいるけれど、夜になるとこの辺りはとても暗い。暗闇の中にそびえ立つ工場は、いつもどこか不気味さを纏っている。 「ただいま。」 玄関の扉を開けると、兄さんの茶色の安全靴と、黒いパンプスが並んでいた。 「おかえり、翔。」 居間から顔を出したのは兄さんではない。 「···それ僕のパーカー。」 「ごめん、仕事着のままだと寒くて。昇のだと大きすぎるからさ。」 全く悪いと思っていないような顔をしてそう話すのは、幼い頃から近所に住む茜(あかね)。僕と同い年で、工場の事務員をしている。 「翔、茜。飯食うぞ。」 居間から顔を覗かせた兄さんは、それだけ言って姿を消した。  居間に入ると眼鏡が薄っすら曇った。炬燵の上には湯気がもくもくと上がる鍋が用意されていた。兄さんがテレビの正面に座り、その両側に僕と茜が座る。 「今日はキムチ鍋だよ。」 そう言って茜が鍋の蓋を開けて、まず兄さんの皿によそう。兄さんは缶ビールを飲みながら、無言で皿を受け取って食べ始めた。僕は茜が二人分をよそい終えるまで待って、茜と同時に食べ始める。 「大根、これ熊田さんちの奥さんが作ったんだって。」 「そうなんだ。」 「いつものことだけど、奥さんの話をする時熊田さんすごい嬉しそうなんだよね。」 「仲が良いんだろうね。」 「熊田さん、家でもあの音量で喋ってるのかな。」 「そうなんじゃない。」 僕と茜二人だけの会話。兄さんは何も話さないまま、二杯目の鍋を自分でよそいだした。 「昇(のぼる)、ビールもう一本いる?」 「あぁ。」 兄さんの返事を聞いて茜は立ち上がり、冷蔵庫へ向かった。茜はこの家に住んでいるわけではない。兄さんの恋人でも僕の恋人でもない。徒歩ニ分の距離に住んでいるだけのただの幼馴染だ。 「昇。」 茜は僕と同い年。兄さんより五つ下だけれど、‘昇’と呼び捨てで呼ぶ。 「好きだよ、昇。」 食事中でも会話中でも、茜はいつも突然そう言う。 「···あぁ。」 兄さんは聞いているのかいないのか、いつもそんなふうに返事をする。そして茜はそれ以上の返事を兄さんには求めない。 「雑炊作ろうか。」 何事も無かったかのように茜は立ち上がり、キッチンへ向かう。ビールを飲む兄さん。何も言わない僕。冬がやってくると、皆少しピリピリとした空気を纏う。表面上は普段と何も変わらないふうを装いながら。  片付けを終えた茜は、無断で着ていた僕のパーカーを洗濯機へ入れに洗面所へ向かった。僕は茜のコートとバッグを持って玄関に立つ。 「寒いね。今夜雪が降るって本当かな。」 パーカーを脱いで薄着になった茜は小走りでやって来た。コートを手渡すと、急いで着始めた。 「翔は明日も仕事?」 「うん。」 「雪だとお客さん少なくて暇かもね。」 「だといいけど。」 バッグを受け取って茜はパンプスに足を入れる。一段低い所にいる茜はいつもよりとても小さく見える。茶色く染めた長い髪のてっぺんが少しだけ黒くなっている。僕はその小さなつむじをただじっと見ていた。 「昇、お酒増えてきたね。」 小さなつむじは微動だにせず、少し低い声でそう言った。 「そうだね。」 一瞬の沈黙の後で、茜は体ごと振り返り僕の顔を見た。 「じゃあ帰る。お疲れ。おやすみ。」 「おやすみ。気をつけて。」 茜を見送って玄関の鍵をかけた。茜がいなくなるとこの家は急に静かになる。冷たい廊下を歩き、居間の扉を開ける。部屋の奥の炬燵には、飲みかけの缶ビールと突っ伏して眠っている兄さんの姿があった。兄さんは酒に弱い。でも今は、酒の力を借りないとうまく眠れないのかもしれない。  カーテンを開けると外は薄っすらと雪が積もっていた。空はもうすっかり晴れているから、積もった雪もきっとすぐに溶けるだろう。着替えを済ませて一階に降りると、昨夜そのまま居間で眠った兄さんの姿は無く、部屋の空気は廊下と同じくらい冷たかった。ただいつものように朝食だけは準備されていた。  支度を済ませて外に出た。いつものような機械音は聞こえない。でも玄関から続く雪の上の足跡は、真っすぐ工場に向かっていた。正面のシャッターは閉まっていて、人の気配はない。今日は土曜日。工場の仕事は休みだった。ただ足跡は工場の敷地内へ進む。出勤時間まで少し余裕があったので、僕はその足跡を追いかけた。  正面のシャッターを除けば、出入り口は一箇所だけ。少し錆び付いた扉は年々重く開閉しにくくなっている。でもここの従業員はコツを知っているらしく、茜も含めて皆いとも簡単に開閉している。コツが分からない僕は大きな音を立てて扉を開け、中に入った。人影もなく、機械音もしない。今にも動き出しそうな大きな機械が並ぶこの空間を、子供の頃の僕はとても怖がっていた。兄さんが父さんの背中を追いかけて行くのを、機械室に入ることすら出来ない僕はほんの少しの疎外感を感じながら見ていた。 「翔か?」 姿は見えないけれど、兄さんの声が聞こえた。 「うん。おはよう、兄さん。」 工場の奥へ足を進めると、機械の影から兄さんの足が見えた。安全靴ではなく、裸足にサンダルだった。 「風邪引くよ。」 「大丈夫だ。」 工場の冷たい床の上に段ボールを敷いて、その上に兄さんは仰向けに寝転んでいた。前に茜が、男性従業員がよく段ボールを敷いて休憩中に昼寝をしていると話していた。 「家、戻らないの?」 「···あぁ。」 兄さんはそう言って、寝転んだまま頭を掻いた。 「何かあった?」 「···いや、別に。」 「茜も心配していたよ。」 「···そうか。」 「ねぇ兄さん、」 「翔、仕事行かなくて良いのか。」 僕の言葉を遮ってそう言い、一度大きく息を吐いた。僕は時計を見た。まだ余裕はあったけれど、今の言葉は兄さんからの拒絶の言葉だ。話を核心に近づけたくない兄さんは、ほんの少しでも近づこうとした僕を、いつも遠ざける。 「じゃあ行ってくるよ。」 「あぁ。気をつけてな。」 兄さんは僕の顔を見ることなく、天井を見上げたままだった。  茜が昨日言っていた通り、雪が残っている間はお客さんが少なくて暇だった。土日だけアルバイトに入っている大学生の宮野(みやの)さんが、お客さんの並んでいないレジで欠伸をしているのが見えた。本棚の整理を終えてレジに戻ると宮野さんはちらりと僕の方を見た。 「今日、暇ですね。」 「そうだね。」 「青井さんってどこの大学だったんですか?」 「···K大だけど。」 「え、めっちゃ頭良いんですね。」 驚いた声を出した宮野さんが、次にどんな言葉を発するのか僕には大方想像がついた。 「どうしてここで働くことにしたんですか?」 予想通りの質問に思わず苦笑した。 「本が好きだからだよ。」 そして僕はちっぽけなプライドのために、定型の回答をする。宮野さんが何か言おうとした時、レジにお客さんがやって来た。  本が好きなのは事実だけれど、ここで働いているのは本意ではない。ただ、就職活動に失敗しただけだった。  僕は昔から勉強が出来た。勉強が好きだったわけではない。ただ躓くことがなかっただけ。遊ぶことより何より本を読むことが好きだった。本ばかりを読む生活をしていても、勉強が出来なくて困ることは一度もなかった。大学受験も難なく終わり、国内でもトップクラスの大学に入学出来た。でも壁にぶち当たったのは、就職活動だった。知識だけは身につけたけれど、僕は自分が持っている物を活かす術を何も持っていなかった。希望していた企業は全滅。他にも色々な企業を受けたけれど、たった一社の内定も貰えなかった。僕より成績の悪かった同級生がどんどん就職先を決めて行く中で、優等生として過ごしてきた僕のプライドは粉々に砕けていった。卒業後実家に戻り、徒歩圏内にあったここ葉月書店でアルバイトを始めた。気づけばここで働いて一年半以上が経っていた。  定時に仕事を終えて家へ向かう。雪は、日陰に残った物以外はもうすっかり溶けて無くなっていた。家までは徒歩十五分。家の近くまでは比較的明るい大通りを通る。一本奥の道へ入ると、景色はすっかり変わる。ひっそりと建ち並ぶたくさんの住宅の間を抜けると、工場が見えてきた。 「あ、翔。」 家の前に人影が見えた。 「何やってるの、茜。」 私服姿の茜だった。 「ばあちゃんが煮物作り過ぎたから。」 そう言って手に持っていたタッパーを僕に差し出した。 「ありがとう。兄さんいないの?」 「灯りはついてるけど、呼んでも出て来ないんだよね。」 「寝ているのかな。」 まだ六時過ぎだったけれど、休日の兄さんの過ごし方は読めない。玄関の鍵を開けて中に入ると、茜もついて来た。 「ただいま。」 返事は無い。茜と一緒に灯りのついた居間に入ると、昨日と同じように炬燵で突っ伏して眠っている兄さんの姿があった。 「今朝、早くから工場にいたみたい。」 心配そうな顔で兄さんを見る茜にそう言うと、茜は小さく頷いた。 「そっか。」 そう言って眠っている兄さんの方へ歩いて行った。 「おじさんが亡くなってもう三年経つんだね。」 炬燵の近くに置いてあった薄い毛布を兄さんの肩に掛けながら茜は言う。三年前に社長だった父さんが死んだ。兄さんが社長になったのはその後だ。 「おじさんもおばさんも、静流(しずる)ちゃんも、なんでいなくなっちゃったんだろ。」 茜の発した最後の名前に、眠っている兄さんがピクリと反応したような気がした。その動きを茜は見過ごさない。 「···好きだよ、昇。大好き。」 いつものように茜は兄さんに向かってそう言う。いつだって届いていないのに。 「帰るね。」 そう言って立ち上がった茜は、僕の顔を見ることなく玄関の方へ歩いて行った。玄関の扉が閉まる音がしてから、僕は一歩兄さんに近づいた。 「ただいま、兄さん。」 兄さんはゆっくりと頭を上げて、右手で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。何も言わない兄さんを横目に、僕は部屋の奥にある仏壇の方を見た。うちには父さんも母さんももういない。でもここに眠っているのは父さんと、父さんの前の奥さんだ。  僕が産まれた時、兄さんは五歳。僕を産んだ母さんは、兄さんにとって二人目の母だった。  父さんは別の会社で十年ほど働いた後、そこで同僚だった熊田さんと一緒に独立し今の青井鉄工所を作った。当時三十歳だった父さんが社長、二十七歳だった熊田さんが工場長となり、仕事と従業員を徐々に増やしていった。会社が軌道に乗り出した二年後、中学の同級生だった早紀(さき)さんと結婚し翌年兄さんが産まれた。早紀さんは、社長である父さんを支えながら事務仕事をしていた。誰にでも優しくとても明るい人だったという。  でも兄さんが一歳の時、早紀さんは脳梗塞を起こして帰らぬ人となった。工場で早紀さんが倒れてから葬儀を終えてしばらく経つまで、父さんは仕事が何も手につかず兄さんは毎日泣き続けていたらしい。あの時は本当に大変だった、と昔熊田さんが言っていた。そして早紀さんが亡くなった三年後に父さんは再婚をした。その再婚相手が僕の母さんだった。早紀さんの死後から事務員として働いていた母さんが父さんに猛烈にアプローチをして叶った結婚だったらしい。保育園に通ってはいたけれど工場に出入りすることの多かった兄さんは、再婚前から世話を焼いてくれる母さんに懐いていたという。それも再婚の決め手の一つだったようだった。  再婚から一年後、僕が産まれた。小さい頃の記憶はあまりないけれど、仲の良い家族だったと思う。兄さんは昔から口数が少なかったけれど、僕を可愛がってくれていた。父さんと母さんも、僕が読書ばかりで友人と積極的に遊ぼうとしないことを心配していたようだけれど、僕の生き方を否定しなかった。母さんはよく図書館に連れて行ってくれたし、父さんは僕が本を見て興味を持った物や場所を見に連れて行ってくれた。家族とほんの少しの友人、それから幼馴染の茜。僕の交友関係は狭かったけれど、それだけあれば十分だった。  兄さんは小さな頃から、工場内の機械や製品に興味を持っていた。事務所には入れるけれど、作業をする機械室の方には滅多に入れて貰えない。兄さんはよく事務所と機械室とを隔てる硝子に顔を押し付けて、動く大きな機械達をずっと眺めていた。僕はそのたくさんの機械達が怖くて苦手だった。工場に行くと僕は事務所で働く母さんの隣に座って、機械室を覗く兄さんの後ろ姿をただじっと見ていた。僕はあの機械達にも父さんがしている仕事にもあまり興味を持てなかった。兄さんと父さんを繋いでいる物の中に僕は入ることが出来ないのだな、と子どもながらに思っていた。そんな僕の疎外感を感じ取っていたのか、母さんは隣に座る僕の頭を撫でた。自分を変えるつもりもないのに、僕はこのままで良いのか時々不安に陥っていた。 ――翔は翔のままで良いのよ。 母さんはいつもそう言った。母さんがそう言ってくれるだけで、父さんと兄さんの中に入っていけない寂しさから解放される気がした。  学校が終わると工場に行って、事務所で宿題をやった。隣には茜もいて、母さんがくれるお菓子を一緒に食べた。茜の家は共働きだったけれど、お爺ちゃんお婆ちゃんが一緒に住んでいた。家に真っすぐ帰れば良いのに、お菓子のためなのか兄さんに会うためなのかいつも僕について事務所にやって来た。兄さんも時々居たけれど、僕が小学校に入った時には既に高学年だったから、一人で家に居たり友達と遊びに行ったりしていることの方が多かった。  でもある日突然、日常が壊れた。それは雪が降る月曜日の朝だった。その時僕はまだ自分の部屋の布団の中にいた。目覚し時計に目をやると六時。普段の起床時間までまだ三十分もあった。僕以外の三人はもう起きて一階にいる時間だった。ただいつもと一階から聞こえる音が違っていた。布団から出て、まだ鳴っていない目覚し時計のスイッチを切る。いつもなら着替えを済ませて一階に行くけれど、パジャマのまま眼鏡だけを掛けて階段を下りた。父さんと兄さんの話し声が聞こえる。どんな話をしているのか分からないまま居間の扉を開けると、父さんと兄さんがとても怖い顔をして一斉に僕の方を見た。僕は見たことのない二人の様子に驚いて、一歩後退った。兄さんはいつもの無表情に戻り、父さんは笑顔を作って僕の顔を見た。何かあったのか尋ねると、父さんは困った顔をした。言葉を濁す父さんの代わりに、兄さんが口を開いた。 ――母さんがいなくなった。 普段無口な分、兄さんの一言一言はよく通り、耳に残る。  僕は小学四年生で、兄さんは中学三年生だった。母さんがいなくなったのは本当に突然で、家の物も何も変わっていなかった。恐らく母さんが持って行ったのは、バッグと靴とコートだけ。居間の炬燵の上には一枚の紙切れがあって、そこには母さんの名前が書かれていた。その日は父さんに追いやられるように僕も兄さんも渋々学校へ行った。通学路も学校も、いつもと何ら変わりない。変わったことなんて一つもない。だから僕は思った。朝母さんがいなかったのはどこかに出掛けていたからで、帰ったらいつもみたいに事務所で仕事をしているはずだ、と。何も知らない茜と一緒に下校し、事務所に入ろうとした時だった。 ――どうするんだよ、修(しゅう)ちゃん! いつも大きな熊田さんの声が、今までにない程大きく苛立っていた。僕は驚いてドアに伸ばそうとしていた手を引っ込めた。茜も一瞬で泣きそうな顔になっていた。 ――離婚に関しては修ちゃん達の勝手だ。ただな、絵美(えみ)ちゃんが平田(ひらた)と消えて、しかも金まで盗ってったとなりゃ話は違う。 熊田さんの声で僕は一気に現実へ引き戻される。学校での淡い妄想は、本当にただの妄想だったのだ。隣から茜の心配そうな視線を感じた。僕は動けなくて、ただ地面をじっと見ていた。 ――翔。 後ろから兄さんの声がして、僕はゆっくりと顔を上げた。振り返ると、そこに立つ兄さんの顔はいつに無く険しかった。動けずにいると兄さんは僕の肩に一瞬触れて、そのまま事務所の扉を開けた。  事実だけを並べていくとこうなる。まず、母さんが離婚届を残して出て行った。会社では、母さんと一緒に事務員をしていた平田さんの机に退職届が置かれていた。会社の誰一人として、母さんと平田さんがいなくなることを事前に知らなかった。二人とも連絡が取れず、実家等に連絡しても居場所は分からない。そして、二人が管理していた会社の経費が、先週の金曜日に引き出されていた。その引き出されたお金の行方を、社長である父さんを始め、残った従業員は誰も知らない。点々とした事実を繋ぎ合わせて行くと、熊田さんが言っていたような話になるのは僕にでも理解出来た。いや、それが事実かどうかは分からないけれど、‘そう思われても仕方がない’状況なのが理解出来たと言うべきかもしれない。事務所で宿題をやっている時、当たり前のように母さんと平田さんがいた。平田さんは優しくてパソコンに詳しくてコーヒーが苦手だった。コーヒーが飲めないことを‘まだ舌が子どもなんだ’と笑っていた。父さんや母さんより若く、おじさんと言うよりはお兄さんのような感じだった。あんなに優しくしてくれていたのに。大人って汚いな、と初めて思った。  母さんがいなくなってから、学校帰りに工場に寄ることは無くなった。僕が何かしたわけではない。でも、僕も兄さんも社長である父さんまでも、肩身の狭い思いをして過ごしていた。工場内の雰囲気はとても悪かったらしいけれど、熊田さんの助けもあり、月日の流れとともに少しずつ穏やかな日々を取り戻して行った。  兄さんは工業高校を卒業し、青井鉄工所に就職した。昔よりずっと無口になってしまっていた兄さんは、工場内でうまく行かないことも多かった。でも父さんと同様、職人としての腕は確かだったらしい。父さんは家でお酒を飲みながらよく上機嫌で言っていた。 ――昇は大したもんだ。さすが俺の子だ。 僕にとってそれは、呪いの言葉だった。  僕は高校へ進学し、大学受験も難なく終わり家を出て一人暮らしを始めた。長期の休みも家には帰らず、バイトをしたり図書館でひたすら本を読んだりしていた。そして大学二年の冬、父さんが死んだと連絡を受けた。  兄さんが父さんの後を継いで青井鉄工所の社長になったのはそれから一ヶ月後のことだった。従業員の多くは工場長である熊田さんが社長になると思っていた。もちろん兄さん自身も。  そして春休み。葬儀以来初めて家に戻った僕は、相変わらず無口な兄さんとテーブルを挟んで向かい合って座った。 ――大学を辞める必要はない。 僕の言葉を待たずに兄さんは静かにそう言った。 ――あと二年、翔を大学に通わせるくらいの金はある。 大学を辞めることに未練はあった。でも両親がいなくなったからと言って兄さんに学費や生活費を出して貰うのは違うと思った。でもこういう時、兄さんは絶対に意見を曲げない。普段は流れに身を任せる事が多いけれど、昔から自分で決断したことは絶対に曲げない。その後僕が何を言っても兄さんは聞き入れなかった。だから僕は兄さんに甘えた。甘やかされて大学生活を続けた結果、僕はその先に何も得ることなく家に帰ってくることになった。    
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