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コップは重なる
7月初めの、朝の早い時間。それでもこの季節のこの時間では、動き始めるのが遅いくらいだ。
すでに肌に感じる空気は熱を帯び、もう少し早く起きても良かったかと、車を走らせる度にいつも反省をする。それでも、本業は立ち仕事だし、ある程度の睡眠時間は必要であると言い訳ばかりをしていると、やっぱりいつでも起きる時間は同じになってしまうのだから、もうしょうがないとそこまで考えて止めるのは、朝のルーティーンのようになっていた。
畑の横に乗用車を乗り付け、その後ろから折り畳みのコンテナを出してきて組み立てると、手にハサミを持ち、一ノ瀬 歩は頭にタオルを巻く。
短く切られた髪の毛がすっぽりと包まれて、汗を吸ってくれて気持ちがいいし、なにより、出勤前に髪の毛がぺちゃんこにならないのが良かった。
帽子ならば、こうはいかないだろう。なるほど、機能的なもんだと。1人で家庭菜園を始めるまでは、この格好が気恥ずかしくて出来なかったのを、早くやっておけば良かったと悔いた。
白い長袖シャツに、作業着のズボンを履いて、足は長靴。夏でも長袖の方がいい、色は白。日焼けをしにくいし、虫が寄りつきにくいし、あと熱を吸収しにくいから、少しは暑さを感じるのを軽減できる。
これは大学時代の夏休みに、畑作農家にアルバイトに行って教えてもらった。
おじさんとおばさん、ゆうたに、たくま、元気かな。
日がさっきよりも上り、朝一番の蝉が鳴き始めると、その時にお世話になった農家の家族を思い出す。
本物の農家はこれからが夏野菜を収穫する最盛期だ。
そうして畑に出る準備をして、歩は昨夜の雨の名残を残す、朝の湿った土を踏みしめた。
歩が乗る乗用車は農協への就職が決まってから直ぐに購入した、中古のスバル、フォレスター。
通常のクレジットローン60回払いで、今年の12月にやっと支払いが終わる。まだ大学生だった歩には、アルバイトの収入から少しずつ支払う選択しかない、背伸びをしすぎた高い買い物だったけれど、必要になるならば、これをと、ずっと憧れてきた車だった。
お目当ての年式とモデルがあって、カラーは白。それにピタリと当てはまるものを中古で見つけた翌日には、電車に乗って実物を見に行って購入を决めた。
アウトドアや雪道を走るのに特化したようなこの車は、畑仕事ばかりをしている歩には、無用の長物のように感じられることもある。
ただ、いつも一緒にいる山西 志弦に付き合ってキャンプやスノーボードに行くのには役立っている。歩の行動範囲だけでは、車も力を発揮出来ずに欠伸ばかりをしていたことだろう。
志弦はもう起きただろうか。テーブルにミニトマトを置いてきたけれど、どうせ食べないだろう。
昨日も泊まっていた山西を置いて、こうして畑に出てから、一度戻る頃には、もう彼は勤務先の地方銀行に出社した後だ。
わざわざ歩は山西のために朝食を用意するなんてしない。
適当にパンを焼いて、マーガリンでも塗って食べて行ったかな。
ぐるりと畝間を周り、今日の実り具合を確認してから、熟れた野菜をハサミでパチリ、指でプチリと摘んで収穫をしていく。
夏の野菜が実りの時期を迎えるこの時期は、収穫に追われて忙しいだろうなと、山の中にある畑を思い出す。本物の農家というのは大変だなと隣の叔父の畑に目をやり、だって、叔父の畑の一角を借りた、1アール程の小さな畑ですらこれだもんなと、びっしりと実るミニトマトに、ちょうどいい大きさになってぶら下がったキュウリ、一つの苗木からいくつもいくつも艶めき揺れるナス、それから丸く、真っ赤になったトマトを見て、その奥は見ないことにした。朝の短い時間でこなすには、途方もない、今日は夕方にも来ようと、今採らないといけないものに目星を付けて手を動かす。
自分で食べる分以上の野菜は、アパートに帰る前に実家に置いて行けば、母が嫁ぎ先を見つけてくれるだろう。
歩はお金を節約したいとか、スローライフを楽しみたいとか、そんな理由で家庭菜園をやっているわけではなかった。
諦められない。
それは、なにに、かがわからない、漠然とした焦りだった。ただ昔の名残にしがみついているだけなのかもしれないし、はっきりと見たくない、認めたくないような気持ちだった。
その畑は彼が思っている以上に整えられて、多種多様な作物で溢れた一つの世界だ。家庭菜園の域はすでに超えているというのに、歩はいつもここを「家庭菜園」と呼んだ。
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