コップは重なる

3/12
前へ
/131ページ
次へ
乗用車のエンジンとは違った、大型のトラックに似た音が近付いて来るのに気付いて、歩はその方向に、屈んでいた腰を上げて目をやる。 農道から叔父の乗ったトラクターが出てくるのを認めて、手を挙げて、おはようと挨拶をする。 叔父も歩と同じような格好だ。歩の方がこざっぱりとしているけれど。 着古した吸熱速乾素材の半袖シャツは、何年か前に歩があげたものだと記憶している。これもまた着古してあちこちに穴の空いた作業ズボン、頭には白いタオル。もうこれは、茶色も混じった色をしているけれど。足元は、昔から変わらず、地下足袋。長靴よりも歩きやすくていいんだそうだ。 こればかりは穴が空いたらすぐに取り替えている。全体的にこだわりはないけれど、あるひとつにはこだわりを見せるところは、歩には共感できるところだった。 叔父も歳をとった。定年のない農家はいつまでも現役で働き続けられるけれど、体力を使うし、屈んだり、中腰になったりと、体に負担が掛かる仕事だ。デスクワークで休日に運動をしていたような、健康な体の高齢者と比べると、あちこちにがたがきている。 頭髪は白くボサボサで、顔の皺は深く、いつも日焼けをしていて、歯は前歯が一本ない。体型なのか、痩せ型の体は、右の肩が落ちて、左が上がっている。腰は少し曲がり、背は以前よりもだいぶ小さくなった。 「おお、おはよう歩。今日は月曜日だったかあ?」 「土曜日だよ。今日は朝に来ないと、夕方が遅いから」 「そうかぁ。俺はよぅ、こっから向こうの畑、畝ってくっからよぉ」 「うん、気を付けて。車道に出るなら…車道に出なくてもだけど、シートベルト、付けるんだよ。事故が増えてるから」 へいへい、と言いながらトラクターの座席にも今や標準装備となったシートベルトを肩と腰に回して装着すると、歩の叔父の一ノ瀬 英夫(いちのせ ひでお)は手をぶらぶらと振って、市道へと繋がる農道を、乗用車よりもいくらも低速で進んでいった。 その手には、いつも土がこびり付いていて、皺や手の先はいつも茶色い。歩の憧れの手だ。 農家の後継者不足は深刻で、叔父もそのうちの1人。叔父には子どもがいないから、リタイアした場合は、この畑も、今、トラクターで畝りに向かったこの周辺に点在する畑も、自家用にやっている水田も、存続させる者はいない。 歩がやればいいのよ。そう母は幼い頃から叔父の後ろに付いて回って、畑の畝間を歩く次男の姿を見て言った。 兄は畑には興味を持たなかったけれど、歩は好んで足を運んだ。叔父はまだおじいさんではなく、おじさんで、野菜のたっぷりと入った重いコンテナを二段にして軽トラックに積み込む姿なんかは、どんなヒーローよりもかっこいいと思っていた。 そんな歩が農業に興味を持って、その勉強ができる高校を選んだのは、必然とも言えた。 公立板割高等学校 総合科学科 農業高校も視野に入れたが、中学生では農業の中の畜産科、畑作科、園芸科…と、どうしても学科が分かれてしまうから、それを決めなければならなかった。 歩には、そんなに限定的には、まだ決めることが難しいと思ったし、そうやって決められた勉強をするのが、漠然と気に入らなかった。たから板割高校は、歩が分厚い「高等学校一覧」の冊子の端っこの方から見つけた、最良の高校だった。 農業のみならず、希望すれば商業、工業、家政まで学べる板割高校を見つけて、ここだ、ここがいいと決めたのだ。 忘れていたなと、手を止めた。今日は板割が、フウセンカズラ販売に来るんだったなと。昨夜まではそわそわとして落ち着かない程だったのに、野菜を採っているうちに忘れてしまった薄情さに笑ってしまう。 時計を見ると、いつもよりは早い時間だった。それでも、思い出せば気が急いて、今日はいつもと違うわけだから、早めに上がろうと、車の荷台に野菜を詰めたコンテナを積み込んだ。 柿谷先生、俺のこと覚えていてくれてるかなぁ…。 教師というのは、毎年、何十人もの生徒を受け持つのだ。自分を覚えているかなんて、期待をしてはいけないと、車に乗ると、挨拶をする顔と、頭の中で、その時に言う言葉を練習する。 柿谷先生ですよね?10期生の一ノ瀬と言います。 覚えていますか?はどんな顔をするか見てから言おう。誰だったかと考える顔をしたら… 作物栽培実践の科目で、お世話になりました。 そう言って、仕事に戻ろう。 いつまでも、いつまでも忘れてられない柿谷先生。思い出すたびにやっぱり好きなのかもしれないと、そう思っている気持ちにやっと今日、終止符が打てるかもしれない。 なぜ「好き」という感情を抱いたのか、それが高校生だった3年間で、どうして冷めることがなかったのかは具体的に説明ができない。 初めて、遠くから見た柿谷にかっこいいと思ってからずっと、恋をしていた。 歩はハンドルを握る手に汗をかいているのを認めた。 「今日も朝から、暑いからなぁ…手にまで汗をかいてきた」 今日は朝から暑いからだと、また口にして、そういうことにした。Tシャツでごしごしと汗を拭って、グーパーとしながら、またハンドルを握る。 きっと今日は、なーんだ、こんな人だったっけ?とこの気持ちが冷める日になる。 それはそれで寂しいけれど、前に進めるきっかけになるはずだ。 歩は、今朝も覗き込んで見た、山西の寝顔を思い出していた。
/131ページ

最初のコメントを投稿しよう!

51人が本棚に入れています
本棚に追加