コップは重なる

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シャワーを浴びて、そのままキッチンに立つと、米を炊飯器からつまみながら、トマトとチーズをそのまま齧る。 たんぱく質が足りないか?と冷蔵庫から作り置きの煮玉子を出してきて三口で食べきると、口をもぐもぐとさせながら、昨日作っておいた弁当を出して、保冷バックに詰めて、ついでにトマトをひとつ、そこに押し込む。 ゆで卵を飲み込んでしまうと、口の中の名残を消すように、麦茶を飲みながら、1リットルの水筒にもそれを注ぐ。夏は氷もたっぷり入れて、忘れないように、弁当と共に玄関に置いたら、流しの洗い物を片付けにかかる。 『歩はそうやって、いつもいつも、野菜ばっかりポリポリ食べててさ、うさぎみたいだな』 年がら年中、野菜を生で齧っている歩に、山西がいつか言った言葉を思い出した。 近頃のうさぎには、お腹を壊すからって、野菜は与えないらしいよと、言い返してやったんだった。 歩が就職をして、5年目、就職と同時に叔父から畑を借りたから、畑を始めて5年目の年。 一人暮らしを始めたばかりの、まだ家具の少なかったこのアパートで。恋人のように山西が背を抱いて、髪の毛に鼻を擦りつけたり、首に唇を押し当てたりしながら、歩が読んでいる雑誌を覗いている時だった。 それまではお互いに実家暮らしだったから、誰かに見られる心配をしないで、側に寄って触れ合っていられるのがまだ新鮮だった頃だ。 誰もいないどちらかの家か、どこかに旅行に行ったりしない限りは、例え触り合いっこだけとはいえ、それをするのは難しかった。 誰かに知ってもらおうとか、理解してもらおうなんて、歩は考えていなかったし。山西がどう思っているかは知らない。 そもそも恋人なのかは、歩にとってはまだはっきりしていないわけだから。 高校時代の悪い遊びの延長線で、手近に同じ思考の友達がいれば、それで事が足りると志弦が思っているなら、確認をして関係を壊すこともないだろう。 歩はまた、いつものようにそう思う。 スナック菓子のように、パリパリとつまんでいた、間引きをした小さな人参を山西に差し出すと、手でいらないという仕草をされた。シッシというように。 歩はそれを、自分がいらないと言われたような気がして、それから山西に野菜を勧めるのをやめた。 自分が育てたものは、人にも大切にして欲しかったけれど、それは押し付けるものではない。 麦茶を飲んだコップを洗うと、朝、起きてから、歩が使ってシンクに置いたコップに手を伸ばす。山西も麦茶を飲んだのか、そこにはもうひとつ、コップが重ねられていた。 「志弦……あいつー…まただよ…あーもう……」 そのコップは重なると取れにくくなることがよくあって。だから志弦にはシンクに置く時には、重ねないようにと言っているのに。 歩が何度も言っても、山西はそれを何度も繰り返している。 出勤時間は近付いている。取れないものに時間を裂くのがもったいなくて、歩はそのふたつのコップをシンクに置いたまま、作業着に着替えると、玄関の荷物をまとめて持って部屋を出た。
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