いちばん素敵だった日

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 幼いころ、慎一には行きたい場所があった。それがどこかは分からなかったが、何度も夢の中で見ていた。  その夢で彼は誰かと一緒に旅をしていた。その人は事あるごとに笑ったり、怒ったり、泣いたりした。慎一もまた、笑ったり、怒ったり、泣いたりした。  夢の旅は、いつも一面が草原で、空がとても近く見える丘で途切れる。それから先を慎一は今まで見たことがなかった。  ずっと、見てみたいと願っていた。  目の前に、あの夢と同じ光景が広がっている。一面の草原を臨む、空にとても近い場所。  かたわらには、艶のある黒髪の女性が立っていた。  目の前の光景と夢の違うところは、丘の果てが見えてしまったことだった。  こんな景色なら見たくなかった。慎一は心の中で小さくつぶやく。  太陽の光を反射させる海が、キラキラと輝いていた。初夏の風が草原を吹きぬけ、音もなく白い雲が流れていく。  聞こえるのは波の音と、カモメの鳴き声。ただどこまでも世界とつながっている場所。地の果てと空の果てが交わる場所。  夢で見たよりきれいで、夢で見たより胸をしめつけるような景色だった。 「着いちゃったね」 「ああ」  交わす言葉の短さには、親しみと悲しみがこめられているように思えた。 「ねえ見て」  彼女が指差した先へ視線を送る。二羽のカモメが連れ添うように浮かんでいた。時折、位置を入れ替えては鳴き声を響かせる。まるで仲のいい夫婦のようだった。 「仲いいな、あいつら」 「ふふ、そうだね」  くすりと笑う、その笑顔が好きだった。屈託なく、純粋に笑うところが好きだった。ずっと傍でその笑顔を見ていたいとさえ思っていた。  だけど。 「もう、これ以上先はないな」 「うん。終わりにしよっか、私たち」  口にした言葉は別れの言葉。  彼らの関係に終わりを告げる言葉だった。  きっかけが何だったのか、思い出せない。だけど彼らの間に生まれたすれ違いは、もう取り返しのつかないものになっていた。  ある朝のこと。  終わりにしよう。  どちらともなくそう言った。  幸せだったころ、彼らは約束をしていた。  いつか終わりが来たら二人で旅をしよう。  どこに行くわけでもない旅をしよう。  一番幸せだったころのように笑って旅をしよう。  旅の終わりと一緒に二人の関係を終わろう。  そんな約束。  慎一が道を探して、彼女が地図を見て。  それはしあわせを感じる旅だった。  まるで恋のように優しい旅だった。  まるで夢のように悲しい旅だった。 「これから、俺たちの関係はどうなるんだろ」 「きっと友達に戻るんじゃないかな」  つぶやいた慎一に、彼女は笑みをたたえたまま答える。 「そっか。それはそれで、なんか変な感じだよ」  慎一もまた、微笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。  恋人という関係が終わろうとしているのに、どうしてこんなにも心中が穏やかなのだろう。 「でも、友達でいたいな」  二人の表情から少しずつ笑みが薄れていく。きっと悲しみからではない。 「恋人じゃなくても、それなら一緒にいられるから」 「今更、友達でいられるのか分からないけどな」 「そうだね」  応えて、彼女は一歩を踏み出す。 「もし私に新しい恋人が出来たら嫉妬するでしょ」 「たぶんな」 「私も慎一に新しい恋人が出来たら嫉妬する」  前に立つ彼女の表情は見ることが出来ない。ただ、声が微かに震えた気がした。  唐突に理解する。  二人が関係を終わらせた、その先に何があるのか。  きっと、ドラマのような愛憎劇なんてない。  きっと変わらない日々が始まるのだろう。  いつものように、誰かに「おはよう」と言って。  いつものように、誰かに「愛してる」と言って。  いつものように、誰かに「おやすみ」と言って。  思いを巡らせると不思議な気持ちになった。目の前にいる大切な人へ、それを囁くのは自分ではないのだ。 「きっとすぐに新しい恋人が出来るよ」 「どうかな。私、わがままだから」  振り向いて、困ったようなフクザツな笑みを浮かべる。風になびく黒髪を手で押さえて、ゆっくりと後ろ向きに歩き出した。 「おい、危ないぞ」 「大丈夫」  いくらか歩いたところで、彼女は歩みを止めた。手を伸ばしても届かない距離が生まれる。  ザアッと音を立てて強い風が吹いた。光に透けて、黒い髪が栗色に透けて見える。 「あのね」 「うん」 「私の人生で、慎一はきっと一番大切な人だと思う」  ポツリとこぼした言葉。  慎一は口をつぐんだまま、ただ彼女の顔を見続けた。 「これから先、私が誰を好きになっても、私にとって慎一は一番大切な人のままだよ」  二人が恋人として過ごした時間は二年しかない。だけど、そのあいだに色々なことがあった。  一緒に笑ったり、ケンカをした。  手をつないで、抱きしめあって、キスをした。  家族にも友達にも誰にも言えなかった心の奥を吐き出し、見せ合った。 「慎一より私を理解してくれる人はいないよ」 「そっか」  ようやく出来た返事は、それが精一杯だった。こみあげてくる言葉は沢山あるのに、それを伝えることが出来ない。  互いに言葉を失くす。  少しためらって、二人は意を決したように目を合わせた。 「慎一、いままでありがとう」 「ああ」 「私、慎一と恋人でいたこと後悔してないよ」 「俺もさ。今まで、ありがとな」 「うん。わがままだったでしょ、ごめんね」 「俺は思いやりがなかったろ。ごめんな」 「なんか、変だね。お互いに謝ってる」 「はは、そうだな」  いつしか流れていた涙。二人はぬぐおうともせず、ただ声が震えないよう気丈に振舞う。 「ねえ、慎一。私、幸せだったよ」  だけど。 「私、慎一に出会えて良かった。本当に、本当にありがとう。慎一、ありがとう」  こらえようとした嗚咽がとめどなく溢れた。止まらない涙を見せまいと、彼女は顔を手で覆った。  手の届かない距離で、涙を流す大切な人。  もう、恋人ではない。 「ほら、これ」  だけど、大切な人だから。  慎一は足を踏み出し、ポケットから取り出したハンカチを彼女へと差し出した。  もう肩を抱いてあげることは出来ないけれど、涙をぬぐう手助けくらい許されるだろう。  彼女は一息ついてから、やがて照れ隠しのように笑って口を開いた。 「ありがとう、慎一くん」  恋人ではない。  けど、他人でもない。  いまは、この関係をなんと呼べばいいのか分からない。  だけど、大切にしたいと強く願っている。  月日がめぐり、やがてこの想いが思い出に。  未練もなく、互いに友達と呼べるようになれたなら。  もう一度、この場所で話をしよう。  その時には、言えなかった感情を、昔話にして。  恋人じゃない関係で、初めての約束をした。  交わした指切りはするりと解けた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!