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幼いころ、慎一には行きたい場所があった。それがどこかは分からなかったが、何度も夢の中で見ていた。
その夢で彼は誰かと一緒に旅をしていた。その人は事あるごとに笑ったり、怒ったり、泣いたりした。慎一もまた、笑ったり、怒ったり、泣いたりした。
夢の旅は、いつも一面が草原で、空がとても近く見える丘で途切れる。それから先を慎一は今まで見たことがなかった。
ずっと、見てみたいと願っていた。
目の前に、あの夢と同じ光景が広がっている。一面の草原を臨む、空にとても近い場所。
かたわらには、艶のある黒髪の女性が立っていた。
目の前の光景と夢の違うところは、丘の果てが見えてしまったことだった。
こんな景色なら見たくなかった。慎一は心の中で小さくつぶやく。
太陽の光を反射させる海が、キラキラと輝いていた。初夏の風が草原を吹きぬけ、音もなく白い雲が流れていく。
聞こえるのは波の音と、カモメの鳴き声。ただどこまでも世界とつながっている場所。地の果てと空の果てが交わる場所。
夢で見たよりきれいで、夢で見たより胸をしめつけるような景色だった。
「着いちゃったね」
「ああ」
交わす言葉の短さには、親しみと悲しみがこめられているように思えた。
「ねえ見て」
彼女が指差した先へ視線を送る。二羽のカモメが連れ添うように浮かんでいた。時折、位置を入れ替えては鳴き声を響かせる。まるで仲のいい夫婦のようだった。
「仲いいな、あいつら」
「ふふ、そうだね」
くすりと笑う、その笑顔が好きだった。屈託なく、純粋に笑うところが好きだった。ずっと傍でその笑顔を見ていたいとさえ思っていた。
だけど。
「もう、これ以上先はないな」
「うん。終わりにしよっか、私たち」
口にした言葉は別れの言葉。
彼らの関係に終わりを告げる言葉だった。
きっかけが何だったのか、思い出せない。だけど彼らの間に生まれたすれ違いは、もう取り返しのつかないものになっていた。
ある朝のこと。
終わりにしよう。
どちらともなくそう言った。
幸せだったころ、彼らは約束をしていた。
いつか終わりが来たら二人で旅をしよう。
どこに行くわけでもない旅をしよう。
一番幸せだったころのように笑って旅をしよう。
旅の終わりと一緒に二人の関係を終わろう。
そんな約束。
慎一が道を探して、彼女が地図を見て。
それはしあわせを感じる旅だった。
まるで恋のように優しい旅だった。
まるで夢のように悲しい旅だった。
「これから、俺たちの関係はどうなるんだろ」
「きっと友達に戻るんじゃないかな」
つぶやいた慎一に、彼女は笑みをたたえたまま答える。
「そっか。それはそれで、なんか変な感じだよ」
慎一もまた、微笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
恋人という関係が終わろうとしているのに、どうしてこんなにも心中が穏やかなのだろう。
「でも、友達でいたいな」
二人の表情から少しずつ笑みが薄れていく。きっと悲しみからではない。
「恋人じゃなくても、それなら一緒にいられるから」
「今更、友達でいられるのか分からないけどな」
「そうだね」
応えて、彼女は一歩を踏み出す。
「もし私に新しい恋人が出来たら嫉妬するでしょ」
「たぶんな」
「私も慎一に新しい恋人が出来たら嫉妬する」
前に立つ彼女の表情は見ることが出来ない。ただ、声が微かに震えた気がした。
唐突に理解する。
二人が関係を終わらせた、その先に何があるのか。
きっと、ドラマのような愛憎劇なんてない。
きっと変わらない日々が始まるのだろう。
いつものように、誰かに「おはよう」と言って。
いつものように、誰かに「愛してる」と言って。
いつものように、誰かに「おやすみ」と言って。
思いを巡らせると不思議な気持ちになった。目の前にいる大切な人へ、それを囁くのは自分ではないのだ。
「きっとすぐに新しい恋人が出来るよ」
「どうかな。私、わがままだから」
振り向いて、困ったようなフクザツな笑みを浮かべる。風になびく黒髪を手で押さえて、ゆっくりと後ろ向きに歩き出した。
「おい、危ないぞ」
「大丈夫」
いくらか歩いたところで、彼女は歩みを止めた。手を伸ばしても届かない距離が生まれる。
ザアッと音を立てて強い風が吹いた。光に透けて、黒い髪が栗色に透けて見える。
「あのね」
「うん」
「私の人生で、慎一はきっと一番大切な人だと思う」
ポツリとこぼした言葉。
慎一は口をつぐんだまま、ただ彼女の顔を見続けた。
「これから先、私が誰を好きになっても、私にとって慎一は一番大切な人のままだよ」
二人が恋人として過ごした時間は二年しかない。だけど、そのあいだに色々なことがあった。
一緒に笑ったり、ケンカをした。
手をつないで、抱きしめあって、キスをした。
家族にも友達にも誰にも言えなかった心の奥を吐き出し、見せ合った。
「慎一より私を理解してくれる人はいないよ」
「そっか」
ようやく出来た返事は、それが精一杯だった。こみあげてくる言葉は沢山あるのに、それを伝えることが出来ない。
互いに言葉を失くす。
少しためらって、二人は意を決したように目を合わせた。
「慎一、いままでありがとう」
「ああ」
「私、慎一と恋人でいたこと後悔してないよ」
「俺もさ。今まで、ありがとな」
「うん。わがままだったでしょ、ごめんね」
「俺は思いやりがなかったろ。ごめんな」
「なんか、変だね。お互いに謝ってる」
「はは、そうだな」
いつしか流れていた涙。二人はぬぐおうともせず、ただ声が震えないよう気丈に振舞う。
「ねえ、慎一。私、幸せだったよ」
だけど。
「私、慎一に出会えて良かった。本当に、本当にありがとう。慎一、ありがとう」
こらえようとした嗚咽がとめどなく溢れた。止まらない涙を見せまいと、彼女は顔を手で覆った。
手の届かない距離で、涙を流す大切な人。
もう、恋人ではない。
「ほら、これ」
だけど、大切な人だから。
慎一は足を踏み出し、ポケットから取り出したハンカチを彼女へと差し出した。
もう肩を抱いてあげることは出来ないけれど、涙をぬぐう手助けくらい許されるだろう。
彼女は一息ついてから、やがて照れ隠しのように笑って口を開いた。
「ありがとう、慎一くん」
恋人ではない。
けど、他人でもない。
いまは、この関係をなんと呼べばいいのか分からない。
だけど、大切にしたいと強く願っている。
月日がめぐり、やがてこの想いが思い出に。
未練もなく、互いに友達と呼べるようになれたなら。
もう一度、この場所で話をしよう。
その時には、言えなかった感情を、昔話にして。
恋人じゃない関係で、初めての約束をした。
交わした指切りはするりと解けた。
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