幼かった日のように

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 逃げ場所の選択肢は無かった。  明け方に満身創痍で帰った俺たちを、イルゼン・ロカとキリムは驚きとともに迎え、すぐに介抱してくれた。  ――オルファンは完全に気を失っていて、服を脱がせると、撃たれたのは肩に近い二の腕だと分かった。  玉は貫通していて、幸い骨にも異常はなく、致命傷ではないが、出血が酷かった。  荷として持ってきた物資でできうる限り傷口を消毒し、患部の周囲を強く縛り上げてどうにか止血はしたが、すぐに熱が出始めた。  あたふたとするべきことに追われているうちに、気づけば昼下がりだ。  ロバートに怪しまれない為にも出来ればエヴカに戻った方がいいが、……すぐには動くことができない。  昼間、黒いテントはどんどん太陽の熱を吸い、ストーブなしでも温かいほどに気温が上がっていた。  厚着をしているせいもあるが、開け放たれたテントの入り口から吹く冷たい風が涼しいほどだ。  跪く俺の目の前に、獣の皮の毛布に横たえられ、オルファンが眠っている。  時折痛みに呻く彼の横顔を、俺はじっと見守った。  固く絞った布で噴き出す汗を拭い取り、僅かに意識が戻るたびにヤクの乳を飲ませ、もう一度寝かせる……もう何度目かわからないほどそれを繰り返している。  俺にも、弾丸が掠った傷が腕にあり、キリムが包帯を巻いてくれたが、痛みを感じる余裕は全くない。  何度も外に出て雪をかき集め、溶かして水にし、それを布に染み込ませて、オルファンの汗や、血が髪に付着して固まっている所を拭った。  部屋の中が温かいせいか、血は何度拭いても生臭い臭いが上がった。  痛ましい気持ちになりながら、もつれた彼の長い髪を解き、根気強く拭い続ける。  オルファンがこんなに無防備な姿を俺に晒すのも、その髪に自由に触れることが出来るのも、恐らく今だけだ。  幼い時と変わらない、目を閉じた時の寝顔を見ると、理屈のない愛おしさが湧き上がってくる。  自分でも不思議だが、この男と離れたくないと思ってしまうのだ。  どうにかして、彼にかかった呪術を解き、本当の望みを叶えてやりたい……。  前髪を指ですくと、髪の生え際に馬から落ちたときの傷が見える。  溢れる気持ちのまま、屈んでそっと赤銅色の額に口付けた。 「……っ、痛……」  真下で呻きが上がる。  慌てて身体を起こすと、眼下で密に生えた黒々とした睫毛が震え、造形の美しい目蓋がうっすらと開いた。 「……ここは……」 「オルファン……」  はっきりと目を覚ましたのが嬉しくて、俺は微笑んだ。 「……ここはイルゼンのテントだ。良かったな」  神秘的な闇色の瞳が俺を映す。  余りに長いこと見つめられるので、次第に頬が火照ってきた。  キスしたのがバレたのか……?  動けないことをいいことにと、不愉快に思われていたらどうしよう。  胸が苦しくなって目を逸らした瞬間、オルファンが呟いた。 「大人のあんたが笑った顔を……初めて見た」 「え……」  ドキ、と心臓が強く打つ。  思わず早口になってしまいながらきいた。 「……そんなつもりは無かったが……俺はそんなに難しい顔ばかりしていたか……?」 「……。俺に対してはいつもそうだっただろ……すぐ怒るしな」  そう言ったきりぷいとそっぽを向かれてしまい、困惑した。  何か言い訳した方がいいような気がして、言葉を必死に捻り出す。 「……その、多分、緊張していたからだ……お前に、知られたくなかった……本当のことを」 「……本当のこと?」 「だから、お前のことを」  うっかりもう一度告白しそうになって、途中でウグっと喉が締まった。  言ったらまた不快にさせるのに、最近はどうしてこう考えていることがすぐ漏れてしまうのだろう。  俺も呪術にかかっているからだろうか……。 「そっ、そんなことはどうだっていいだろう。お前は寝ていろ」  そう言うと、フッ、とオルファンが喉から息を漏らした。  笑われたのだろうか。 「いつもの高飛車な少佐殿に戻られて、何よりです」 「何だ、その言い草は……」  憤慨したが、話しておかなければならないことを思い出し、俺は寝ているオルファンに声をかけた。 「そうだ……俺がうっかりロバートに言い訳してしまったんだが、今、俺とお前は、一緒にマウラカを回っていることになっている。……嫌かもしれないが、怪しまれないように、動けるようになったら一緒に屋敷に戻ってくれ。それから一度、お前と話がしたい。昨日のことも、これからのこともだ」  オルファンはテントの黒い布の壁の方を向いたまま、呟くように呻いた。 「何なんだ、あんたは……こんな所まで来るわ、お節介が過ぎる……どうせ、国に帰る癖に……」 「……」  黙ってその後頭部を見つめるうちに、静かな寝息が聞こえ始めた。  ……オルファンが自分を偽らずに話をするから、俺も同じように、つい本音を露わにしてしまう。  今やとうとう何も隠すものなど無くなってしまったのだと思うと、不思議な気持ちだった。  恋は破れたかもしれないが、頭がスッキリしたというか、かえって清々しい気分だ。  オルファンが生きていることへの安堵感がやっと湧いてきて、ベッドの端に額を付け、上半身を預ける。  二日間ろくに寝ていなかったせいで、疲労と眠気がどっと襲ってきて、座ったまま、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
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