(二・二)夢

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(二・二)夢

 眠りに落ちると、雪はいつも夢を見る。しかも決まって過去の回想である。過ぎ去った日々、忘却した記憶、記憶にさえならなかった遠い過去の欠片。お節が幼年期の雪について語る時、決まって零す台詞がある。 「あんたは一度も泣かへんかった。ほんま変わった子やったわ」  確かに雪は物心ついてから、自分でも泣いた覚えがない、泣いた記憶が一切ない。だからといって体内に涙が存在しないという訳では勿論ない。雪の涙はちゃんと雪の瞳を覆い、雪の視線をきらきらと輝かせ時に色っぽく時に哀愁帯びて男たちの心をくすぐるのである。ただ瞼から外界へと溢れ出し、零れ落ちて来ないだけであり、それは雪が意識的に我慢しているというのでもない。  お節は雪がまだ子供だった頃、雪の頬っぺたをつねりながら、からかい半分良くこう語ったものである。 「涙が外に出へんその分、あんたの悲しみはあんたの中に蓄積され、それがあんたの美貌へと化けるんやろな」  かくしてお節の説に従えば、絶世美少女雪は悲しみによって造形されたということになる。  さて前置きはこの位にしておいて雪の見る夢に話を戻すと、その夢はいつも決まって降り頻る雪の景色から始まる。夜明け前、何処とも知れない街にただ絶え間なく深々と人知れず降り続く雪また雪……。  どきどき、どきどきっ。幾ら降ろうとも降る雪の音は限りなく無音、その静寂の中で少女即ち雪は、誰かの鼓動を聴いている。どきどき、どきどきっと確かに誰かの、それはお節ではない別の女の。少女はその女のお腹の中にいて即ち懐妊であり母胎、女が感じるもの、そのすべてを少女もまた感じている。しかしそれは胎児にとって、決して歓迎すべきものではない。  恐怖、戦慄、暴力、責め苦、出血、失神、嘔吐、空腹、痛み、痒み、不快、汚辱、傷み、怒り、諦め、虚無。女を取り囲む複数の男たちの罵声と嘲笑、男たちから発射され女の体中に付着したどろどろの体液、或いは血管に刺さった不衛生極まりない注射針から注入された後血液によって体内を循環し人格を破壊し尽くす薬物、局部へと挿入された異物、大人の玩具の冷たいモーター音、鞭、蝋燭、縄、鎖、手錠、飛び散ったアルコール類の瓶の破片……。プライドも生命の尊厳も人間性もずたずたに引き裂かれ、そんな類の言葉など何の意味も成さないのだと悟らされてしまう程の極限状態に於ける、そしてかなしみ、絶望。  どきどき、どきどきっ。それでも鳴り止まない鼓動と共に、女の心の叫びが一切の障害物を排し少女へと伝わってくる。ぜいぜい、ぜいぜい、動物的な呻き声と共に絶え間なく少女の心に突き刺さる、まだこの世に誕生さえしていない少女へと。女の叫びはこう懇願している、女の心の奥底からの叫びは、 『だれか、こいつらをころして』  少女は女へと問う。こいつら、とはだれですか。だれか、とはわたしのことですか。けれど女に少女の問い、まだ声にすら成り得ない少女の問いが届く筈もない。どれほど少女が女の叫びに負けぬ程絶叫しようとも、それは届かない。どれほど、こいつらとはだれですか、だれかとはわたし、どれほど絶叫……。  ふっと目を覚ます雪。目が覚めて、ああ、またあの夢を見てしまったと胸が痛む。夢のすべては既に失われ雪の脳裏から消え去っても、あの言葉だけははっきりと甦る。どきどき、どきどきっ、夢の中の女の鼓動と共に『だれか、こいつらをころして』と。  月が替わる前、宇宙駅のドアを叩き血相を変えお節が知らせに来る。 「あんた、えらいこっちゃ」 「どないしたんママ、顔色悪いで」 「あんたのこないだの、初めての客なあ」 「ん、あの極道のおっちゃんやろ。それがどないしたん」 「聴いて吃驚すなや」 「何、勿体振ってんの」  そこで、お節はぼそり。 「死んだらしいで」  ええっと吃驚するかと思いきやところがどっこい、雪は冷静、顔色ひとつ変えない。ただため息混じりに、 「ほうか。あーあ、ええお客さんやったのにな」  雪の反応に逆に吃驚のお節。 「それだけかい」  如何にも不満げにむっとする。しかしそれも束の間、 「でも死んだもんはしゃないな。さ、こちとら商売、商売」  あっさりと宇宙駅を後にするお節。  なぜお節が三上の死を知り得たか、理由は簡単。何しろ吉原界隈でも超有名人である名物組長の三上のこと、その死は風の噂に何処からともなく伝わり、あっという間に吉原全体に知れ渡ったという具合。三上の死は、あちこちの店でセンセーショナルに語られたのである。 「まだ若いのに、勿体ねえな」 「気前も面倒見もええ、色男だったのに」 「あたいも、一度は抱かれてみたかった」 「で死因は何だい、やっぱ殺されたのか」 「周りは敵だらけ、いつ命を狙われてもおかしくないお方だよ」 「自業自得さ。墓穴を掘ったか、罰が当たったか、因果応報。桑原桑原」  三上の死の原因についてはまことしやかに噂が飛び交いつつも、真相を知る者は本人と関係者に限られ、それを知る者は固く口を閉ざす。警察も騒ぎの拡大を恐れたか、余計な口出しはしない。その中で誰が言ったか三上の死因は桜毒だったのだ、という噂も興味本位に流れるには流れたけれど、仮にもしそうであれば感染症法に基づき担当医によって保健所に届出がなされていなければならない筈であるが、現状その様な報告は聞かない。その内人の噂も何とやら、いつしか風化し吉原で三上のことを口にする者もいなくなり、三上もその死もやがて忘れ去られるのみである。
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