(二・三)子犬と少年

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(二・三)子犬と少年

 三上組長の死の知らせを聴いた日の晩、雪は宇宙駅の窓から再びきらきらと光るものを目にする。光はふたつ、しかも夜空ではなく、吉原のネオンの波を越えたこの地上の何処か近くで瞬いているふうに見える。更にはそれらが仄かではあるけれど、ずっと点り続けていて消えそうにない。  不思議に思いながら、雪は光に見惚れている。なぜだかその光の明滅が、自分のことを手招きしている気がしてならない。もしかしたら歩いてもゆける距離ではないやろか。思い立った雪は宇宙駅を後にして、 「ママ、本日雪はもう閉店や」  そうお節に宣言するや、店もビルも飛び出してゆく。  光は建物に遮られ見えねども、雪は導かれるが如く光の方角へと向かう。雪が降り出してもおかしくない真冬の夜の中をミニスカートにコートを羽織り、アスファルトの路地に赤いハイヒールをカタカタッといわせながら白い息吐き吐き吉原のネオンを抜けると、辺りは一気に薄暗くなる。喧騒も途絶え、代わりに絶え間なく続く静かな音が聴こえ来る、川のせせらぎである。川、その川の名を弁天川と言う。  障害物である建造物の連なりが消え、再びふたつの光が視界に現れる、どうやら弁天川の方角より瞬いているらしい。川岸か、それとも川の中か。光の明滅に合わせる如く、どきどき、どきどきっと鼓動を高鳴らせ、雪は弁天川へと足を向ける。川も岸辺も今は真冬、鳴く虫の声もなく、植物とて色鮮やかなる花々はとうに枯れ、僅かに色褪せた雑草が木枯らしに錆びた波音を立てるばかり。雪にとって弁天川は、幼い頃より慣れ親しんだ特別な川である。  光を目指し、弁天川の通りに沿って歩き続ける雪。遂に光の直ぐそばまで到達し、光が確かに川岸にあるのを確かめると、一旦雪は河川敷にて足を止める。辺りを見回してみても、誰一人として人影はない。しばし突っ立ったまま息を殺し、じっとふたつの光を見詰める。雪の白い息が漏れ、川の上空に広がる銀河へと上昇し消えてゆく。  ふたつの光は暗い雑草の中にあって、丸で蛍の光の如く手を伸ばせば捕まえられそうでならない。しかし雪に見詰められたと同時に、なぜかふたつの光は徐々にその輝きを弱め、終にはすーっと失われてしまう。その代わり残された暗闇の中には、何者かが確かに存在しているようである。ざわざわざわっと、夜の冷たい風に雑草が震えている。  誰やろ、雪は恐る恐る目を凝らす。すると突然、 「ワン」  その場所から犬の鳴き声が発せられ、度肝を抜かれる雪。といっても小さくか細く、弱々しい子犬の声。 「誰、誰かいてんの」  雪が小声で問い掛けると、再び、 「ワン」  今度はさっきより元気やなと思った途端、雑草の中から一匹の子犬が飛び出して来たかと思うと、そのまま勢い良く雪に飛び付く。 「うわあ」  その拍子に子犬を胸に抱いたまま、地面に思い切り尻餅を付く雪。 「あいたた」  痛さと共に、土と湿った雑草の冷たさが痩せた雪のお尻に沁みる。すると近くから、くすくすくすっと誰かの笑い声。咄嗟に雪は、自分を見ているひとつの影に気付く。子犬を抱いたまま、何しろ子犬はしっかりと雪にしがみ付いているから、雪は直ぐに起き上がり、問い掛ける。 「誰」 「ぼくだよ」  小さく、囁く声が返ってくる。けれど雪に恐れはない、なぜならそこに立っているのは、ひとりの少年だったからである。少年、坊主頭で、冬だというのに上は半袖の白い開襟シャツに下は紺の半ズボン、白のハイソックスと青い運動靴。年の頃は十二歳前後。  弁天川の川沿いに灯る街灯の仄明かりを頼りに、子犬を抱いたままの雪と少年とがしばし見詰め合う。自分をじっと見詰める少年の澄んだ瞳がくすぐったくて、堪え切れずに雪が口を開く。 「何してんの、こんなとこで。風邪引くで」  ところが少年は、ぶっきら棒に答えるだけ。 「大丈夫」  しかも雪の呼吸、息はさっきから白く夜気を染めてゆくのに、少年のそれは透明のまま。この子、寒ないの。 「大丈夫や言うても心配や。なあ、誰かいてへんのママとかパパとか」  けれど少年はかぶりを振るばかり。変な子やな、迷子やろか。警察に届けた方が……。一瞬迷い、ぶるぶるっと首を横に振る雪。いや止めとこ、雪、警察は嫌や。死んだ三上のことを思い出し、警察への拒絶反応が走る。ほなら、どないしょ。 「この犬、きみの」  抱いた子犬を見せる。少年はやっぱりかぶりを振って、ぼそっと、 「ぼくのあと、勝手に付いて来たんだ」  付いて来たて。気付かなかったけれど、子犬は首輪をしていない。今時首輪してへん犬なんて、捨て犬やろか。 「付いて来たて、どっから」  すると少年は嬉しそうに夜空を見上げ、銀河の彼方を指差す。はあっ、やっぱ頭いかれてんちゃう、この子。改めて少年を見詰め、どきっとする雪。何て澄んだ目してんやろ、きらきらと瞬く夜空の銀河みたいや。  この少年、実は不思議なことに何処から来たのか何処に住んでいるのか身寄りはあるのか、何も分からない。分かっているのはただ、年が明ける前の大晦日の夜晩く、突如子犬と共にここ弁天川のほとりに姿を現したということだけである。雪がそんなことを知る筈もない。 「にいさん、腹減ってんちゃう」  にいさん、雪にそう呼ばれ、ぽっと頬を紅潮させる少年。この時少年の中に、年上の綺麗なお姉さん雪への憧憬、淡い恋心が芽生える。即ち少年の初恋である。 「ぼくなら平気。でも、この子がぺこぺこなんだ」  縋るような眼差しで、雪の胸の子犬を指差す少年。 「ワン」  呼応して鳴くと子犬はするりと雪の腕をすり抜け、地面に着地。少年の足下にじゃれ付く。 「そか、そか。でもどないしょ、にいさん」  思案する雪。 「ほな、これから食べもん買って来るさかい、ここで待ってて。ええ、にいさん」  ぺこんと頷く子犬と少年。かわいい、やっぱし子供やな、雪は嬉しくなって駆け出す。息切らしながらカタカタッとハイヒールを鳴らして吉原まで戻ると、コンビニで適当にハム、ソーセージ、少年の為に菓子パンも購入。再び急いで弁天川のほとりへと舞い戻る。 「いた、いた、にいさん」  子犬と少年の前にしゃがみ込んで、早速子犬に食糧を与える雪。少年も雪の隣りにしゃがみ込み、にこにこ雪と二人で子犬を眺める。むしゃむしゃ、むしゃむしゃ、よっぽど空腹だったのか、貪り食する子犬の食欲が止まらない。 「にいさんも食べよ。パンあるで」  けれど少年は黙ったまま、ただにこにこ食事中の子犬をじっと見詰めているばかり。 「野良犬やろか、この子。な訳ないな、にいさん。お前捨て犬なん」  まだ食事に夢中の子犬、問い掛けても反応は返ってこない。 「あらら、にいさんら愛想ないな、二人共。そんなんやと、大きゅなって女の子にモテへんで」  笑う雪に、顔まっ赤の少年。もしかしてこの子も捨て子なんちゃうやろか、ふっと閃く雪。そしたら自分と一緒や、しかもこの弁天川で自分が見付けるやて、何ちゅう運命の悪戯やろ、少年に運命を感じる雪。 「な、にいさん。もし帰るとこなかったら、雪とこ来る」  試しに聞いてみる。もう長いこと河原にいるせいですっかり体が冷え、雪の唇は震え気味。どうせ何も返事などしてくれへんやろと高を括っていると、突然少年は立ち上がりさっきそうしたように、嬉しそうに夜空の一点を指差す。 「どないしたん、にいさん」  驚く雪に、少年はこう一言小さく告げる。 「宇宙船」  えっ。 「嘘、いややわ、にいさん。何処」  雪も釣られて立ち上がり夜空を見上げる。けれどそれらしいものは何処にも見当たらない。空にはただ、きらきらと星が瞬いているばかり。少年はけれど続けてこう答える。 「今、白鳥座ステーションに停車したよ」 「へ」  息を呑み、雪はまた少年の顔をじっと見詰める。すると無言のうちに少年の瞳が雪に語り掛け、雪は丸で催眠術に掛かった如く少年の瞳の中の銀河或いは空想を共有する。雪は、少年の空想の中へと吸い込まれるのである。
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