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ふと気がつけば、あれだけ響いていた蝉の鳴き声がピタリと止んでいた。知らぬ間に外はすっかり夕間暮れ、時間の経過を思い知る。始めた頃はまだ炎天下、陽炎がアスファルトから立ち上っていた。
「ねえ、蝉ってなんで鳴き止むのか知ってる?」
一糸纏わぬままで得意げに尋ねてくる。無邪気な表情と朱点まみれの丸裸がミスマッチすぎる。俺にとっては蝉が鳴こうが鳴き止もうがそんなこと心底どうでも良くて、早く次のラウンドに持ち込みたかったが、うんちくを披露したくてうずうずしているこの顔が可愛くて、つい望みを叶えてやろうと思ってしまう。
「知らない。どうして?」
「二十五度以下では鳴かないんだって」
「なら夜でも二十五度以上になれば鳴くってこと?」
「うーん……たぶん……?」
突っ込んじゃ駄目なやつだった。したり顔はみるみる困り顔になって、顎に手を当てて考え込んでしまった。せっかくいい気分にしてあげようと思ったのに。でも、困った顔も可愛いからいいか。いい気分には他のことでしてあげる。
本当は、気温の他に明るさも関係するし、雨を察知したときだって鳴き止むことを、俺は知っている。
氷が溶けてすっかり薄まり、そして温まった汗だくの麦茶を飲む気にもなれず、俺は冷蔵庫へ向かおうと立ち上がった。全身が怠くて重い。もう何戦交えたかわからない。それでも。
「ありがとう! 喉カラッカラ」
――そりゃ、あれだけずっと声を上げてりゃな。
キンキンに冷えたペットボトルの麦茶を手渡すと、屈託なく両手を伸ばしてくるのが愛おしい。その無邪気な笑顔がいやらしく歪むのを何度だって見たいと思ってしまう。こんな顔、俺にしか見せて欲しくない、とも。
だから、細くて綺麗なからだが壊れてしまうんじゃないかってぐらいに、何度も何度も、食らい尽くすように抱いてしまう。
一緒にいられる時間は限られている。
こいつの両親が帰省から帰ってくるのは、明日の昼頃。
まさか自分たちが家庭教師を頼んだ近所の面倒見のいい幼なじみのお兄ちゃんに、大事な我が子を食い散らかされてるだなんて、思いもしないだろうな。
「一緒なら安心して置いていけるわね」
だなんて言われて、良心が痛まないと言えば嘘になる。
どうしても、この関係を今はまだ知られてはいけない。こいつを第一志望の大学に合格させるっていう、俺の使命を果たすまでは。
互いに無言で麦茶を飲み干す。ゴクッ、ゴクッ、と飲み干す喉の音だけが聞こえる。
一気にペットボトルを空にした後、「ぷはぁ!」と満足そうに大きく息を吐いた口の端からは飲まれそびれた茶褐色の線。
さあ、水分補給が終わったことだし、再開しようか。
次に蝉が鳴き出すまで、寝かせないよ。
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