婚姻届を下から書く

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婚姻届を下から書く

独身最後の夜は、男だけで盛り上がった。 「それにしてもよくあんな美人を捕まえたよな」 夜も深まり、酔いつぶれた奴らが寝息を立てる横で、修一は酒をなめながらそんなことをつぶやいた。 「まあな」   俺は、得意気にアゴを上げた。 「しかもスピード婚。付き合って?」 「三か月」 「うらやましいぜ」   修一は、心底くやしそうに身体をのけぞった。 優花と出会った数か月前の出来事がよみがえった。   俺はいつも通り会社に行くために車を運転していた。 スピードを落として住宅街を走っていたのだが、角から飛び出してきた優花を轢いてしまったのだ。 やってしまった。 もう人生終わりだと思った。 すぐに車から降りて彼女に駆け寄ると、言葉を失った。 あまりにも美しく整った顔立ちだったからだ。 怪我の具合を心配することも忘れて、ただ彼女の顔にみとれていた。 「いたたた」と彼女が言葉を発して初めて人を轢いてしまったことを思い出し、慌てて謝罪を繰り返して怪我の確認をした。   車で病院まで送ると、幸いすり傷だけで済んだ。 帰ると言う彼女に土下座をする勢いで全身の検査をしてほしいと頼み込んだ。 彼女は、渋々応じた。 検査の結果、どこにも異常はなく、「これで満足ですか?」とあきれられた。 異常がないと分かっても怪我をしたことは事実だ。 俺は、彼女の怪我が治るまで送り迎えをすると約束した。   これにも彼女は抵抗を見せたが、俺のしつこさに負けて最後は承諾してくれた。 やましい気持ちがなかったと言えば嘘になるが、誠意は示したかった。   彼女の通勤時間に合わせて朝晩送り迎えをし、話をする中で彼女の内面も好きになった。 彼女のすり傷が完治した頃、気持ちを伝えた。 OKの返事をもらったときは悪運が人生最高の幸運に転じたと有頂天になった。 「それにしても三年前は大変だったよな」   修一の言葉にあの顔を思い出して、気分が急降下した。 「嫌なこと思い出させるなよ」 「わりいわりい。でも怖い女だったよな。俺は、おまえが殺されるんじゃないかと思ったんだから」   三年前、両親が交通事故で亡くなり、実家に帰省していたとき、あの女に出会った。 葬儀が終わっても実家の片づけのために有休を取っていた。 一人っ子で突然父も母も亡くなってしまったので、俺がやるしかなかった。   夜、飲み屋で一人飲んでいたら、女が店に入って来た。 店は混んでいて、カウンターの俺の隣に座った。 その女の顔を見たとき、目が釘づけになった。 女は、ハダカデバネズミみたいな顔をしていた。 小さな目に豚みたいな鼻、大きく前に突き出た前歯、ちりちりの髪の毛。   女は、グラスを飛び出た歯に当てながら豪快に飲んでいた。 普段はそんなことをしないのだが、気づいたら女に話しかけていた。 今思うと、突然家族をなくし、寂しかったのだと思う。 じゃないと、あんな女に話しかけたりはしない。 「お姉さん、すごいですね」と言ったら、女は、自分の歯をむき出しにして「これ?」と自分の歯を指さした。 「いやいや、飲みっぷりが」 と誤解を解こうとしたが、思わず笑ってしまった。 それを見た女が、次々と変な顔を披露し、自分の顔で笑いをとった。 そのたくましさに惚れてしまったのか、それともただ酔っていただけなのか、とにかくその夜、ハダカデバネズミそっくりの女と関係を結んでしまったのだ。 それが悪夢の始まりだった。 田舎の女ともう二度と会うことはない。 ただ一夜の過ちだとすぐに忘れたのだが、東京に帰った俺の前にその女が現れた。 「ペイペイ」   ペイペイ?  あの夜、「洋平だからペイペイね」と楽しそうに俺をそう呼んでいたことを思い出した。 「あ・た・し。覚えてない?」 どこでどう調べたのか、部屋の扉の前に女は立っていた。 無視するべきか、挨拶をするべきか、一瞬のうちに答えは出た。 「ああ、どうも」   自宅を知られていることを考えたら無視はできなかった。 「いやだ、他人行儀ね」   女は俺にすり寄った。 女の手を静かに振りほどきながら「どうしてここが?」と質問をした。 「私たちの仲でそういうこと聞く?」   女は、さっきよりも強く俺の腕にからみついた。 酔って自宅の住所を教えてしまったのか。 だとしたら自分が悪いが、だからってわざわざ二時間もかけて自宅に押しかけてくるか?  再び腕を振りほどこうとしたが、女の力は強かった。 「東京観光かな?」 「やだ。私のこと田舎の女だと思ってたの?」 「ちがうの?」 「ふふふ、内緒」   女は、小さな目を限界まで広げて上目づかいをし、歯をむき出して笑った。 全身に鳥肌が立ち、背中に冷や汗が流れた。 「えーっと、帰り道は分かりますか?」   強引に女を引き剥がすと腕をとり、大通りまで連れ出してタクシーを止めた。 「またね」   女はあっさりとタクシーに乗り込み、手を振りながら去っていった。 マンションまで走って部屋に駆け込むと、ロックをしてカーテンを閉めた。 全身が汗でびっしょりだった。   その日から、女は俺をつけ回した。 無視をすると行動がエスカレートし、「やめてくれ」と言うと歯をむき出して笑う。 友人と飲んでいると、俺の彼女だと言って居座る、車で移動しようとするとボンネットに乗る、会社にまで現れ、俺のいない隙に俺の妻だと名乗って社内を歩き回った。   頭がおかしくなりそうだった。 こいつに俺の人生を奪われてたまるもんか。 嫌悪は怒りに変わった。 「らぶ子って名前も不気味だったよな」   修一は、キッチンでアイスペールに氷を入れ直すと、寝ている男たちをまたぎなから戻った。 「らぶ子って本名か?」 「どうだろうな。偽名かもな。今となってはどうでもいいけど」   修一は、トングで二つのグラスに氷を入れると、ウイスキーを注いだ。 「ところでそのストーカー女とどうやって別れたんだ? 金でも渡したのか?」 「まあ、そんなところだな」   氷がカランと鳴った。   こいつがいたら俺の人生はめちゃくちゃだ。 そう思ったとき、方法は一つしか思い浮かばなかった。 車の中で首を絞めて、そのまま女と出会った田舎に車を走らせた。 そして、空き家になった自宅の庭に埋めたのだ。   女には家族がいなかった。 携帯電話の電話帳を調べたら一件も登録がなかった。 友だちもいない。 そして、都合がいいことに仕事もしていなかった。 どうやって暮らしているのかと聞いたら、親の遺産だと答えた。 金持ちらしいが、金には手をつけなかった。 一瞬、迷ったが、とにかく天涯孤独の女が誰にも知られずに姿を消して、元の生活に戻ることができればよかった。   空き家になった実家を取り壊しさえしなければ一生見つからない。 その権限を持っているのは俺だけだ。 こんなに都合がいいことがあるだろうか。 俺はついてる。 悪運が幸運に変わったのだ。   こんなに丁寧に字を書くのは初めてかもしれない。 緊張でペンを握る手に汗がにじんだ。 「まちがえても、もう一枚あるから大丈夫だよ」   隣でのぞき込む優花がくすくす笑いながら言った。 左側を書き終わると、大きく深呼吸をした。 どんなに丁寧に書いても俺の下手くそな字は変わらない。 「ちょっと文字が曲がってるな。書き直した方がいいかな?」 「大丈夫だよ。上手に書けてるよ」   優花は、用紙を掲げて眺める俺の手から、婚姻届を取り上げた。 「今度は私の番」   そう言ってサラサラの髪を耳にかけるとペンを持った。 俺は、じっと優花の手元を見つめた。 「おいおい、どこから書いてるの?」   優花は、用紙の下から書き始めた。 彼女は、顔を上げると唇をとがらせ抗議した。 「どこから書いてもいいでしょ。上から書かなきゃいけない決まりでもあるの?」 「そうだけど、普通は上から書くでしょ?」 「私、普通じゃないから」   ぷりぷりと怒る優花もかわいい。 こんなことでケンカしてもしょうがない。 俺は、両親の名前から書く優花を見守った。 ゆっくりと丁寧に文字を連ねる優花の字はきれいだった。 そして、このとき両親の名前を始めて知った。 インクからにじみ出る文字を読む。 「鈴木……二郎。おとうさん次男?」 「そう」 「鈴木……正子」 「二人とも平凡な名前でしょ?」   優花は、両親の名前を書き終えると顔を上げた。 「平凡が一番だよ」   再び優花が文字を書き始めると、俺は驚いた。 「本籍、宮城?」 「うん。そうだよ」   続きを書く優花の手元を見ながらまた驚いた。 優花が俺の出身地の住所を書いたからだ。 「嘘だろ?」   そういえば、出身地について話したことがなかった。 「何が?」 「同郷なの?」 「私の出身は関西」 「えっ? だって……」   用紙の本籍地の欄を指差しながらまごついていると優花が笑った。 「洋平、知らないの? 本籍地は変えられるんだよ」 「そうなの?」 「有名な観光地にする人もいるし、日本ならどこでもいいの。私は、仙台駅にした」 「へえ。そうなんだ。でもなんで仙台駅なの?」 「なんとなく」   時々、優花は変わった子だなと思うことがある。 納得できないままうまくかわされてしまうのだ。   優花はきれいにネイルされた指を動かしながら、住所と生年月日を書くと、顔を上げふーっと息を吐いた。 優花も緊張しているみたいだ。 「まちがえても、もう一枚あるから大丈夫だよ」   俺の言葉に優花はニッと笑って、歯並びの良い白い歯を見せた。 優花が苗字を書き、名前を書き始めたとき、俺は声を出して笑った。 「鈴木愛って、誰? 優花って文字を『愛』にまちがえる?」   腹を抱えて笑う俺に構わず、優花は書き続けていた。 「鈴木愛子って……。まちがえても大丈夫って言ったけど……」   笑う俺を優花は真顔で見つめていた。 その真面目な雰囲気に俺の笑いは急速にしぼんだ。 嘘だよ! と舌を出してケラケラと笑う彼女を期待したが、そうはならなかった。 「真面目に書いてるの?」 「私はいつだって真面目よ」 「どういうこと? 偽名を使ってたの?」   優花は、俺の質問を無視して婚姻届の続きを書いた。 ひらがなで『すずき』と書くと、ペンを持ったまま俺の顔を見た。 優花の瞳孔が開いた。 それから、ゆっくりとペンを動かし、『ら……ぶ……こ』と書いた。   その文字を見て血の気が引いた。 まさか。そんなことがあるわけがない。 あの女と目の前の女が同一人物だなんてありえない。 偶然だ。そうだ、偶然に決まっている。 それにあの女は死んだんだ。 実家の庭に今も埋まっているのだ。   優花はゆっくりと口角を上げて、ニヤッと不敵な笑みを浮かべた。 「私、きれいになったでしょ? 整形したの」   ごくりと唾を飲み込むと、優花の顔がみるみる歪んで鬼のようになった。 全身に鳥肌が立った。 「私、あなたを一生ゆるさない」   そう言って優花は俺に迫って来た。 殺される、と思った瞬間、優花は、ニコッと笑って俺の手を強く握った。 「これで死ぬまで一緒だね、ペイペイ」
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