悪夢の夏

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 ◇◇  風死す真夏の汽車に延々と揺られ、十年ぶりに踏んだ本郷の生家は剣呑として温かいところがひとつもなかった。昔より眉間の皺を濃くした父はさして邪険というほどでもなかったが、史乃は相変わらずの様相で、終始刺々しい態度であちこちハタキをかけている。  今更のことだ。周は特別つらいとも思わなかった。  まして跡継ぎに望まれ連れ戻されたにも関わらず、やはりおまえは蔵の中にお住みと告げられた時でさえ、周は落胆よりも歓喜した。 「だがねぇおまえ、あの蔵の中で見るもの聞いたものを、誰にも喋っちゃあいけないよ。もし破ったときにはおまえ、おまえの大切なものを、一つずつ壊すからねぇ……」  いいかい。  薄笑みで念を押す史乃の目もと口もとに、一種企むような含みがあるのを周は見逃さなかった。  見聞されたくない物がある建物になぜ自分を住まわせるのか分からないが、仮に罠とて選択の余地はない。  長持ちを携え蔵の前に立つ。日は既に落ち、足元も見えぬ暗さだ。木戸口に手を掛けると、長年の風雨に歪んだ木戸はずっしりと重かった。周は渾身の力を込めた。が内側からいきなり戸を引かれ、唐突に放たれた闇の中に体がつんのめる。手から長持ちがすり抜けた。転ぶ! 目を瞑ったが衝撃も痛みもない。  周は自身の体が骨骨とした腕に抱きとめられているのに気がついた。蔵から漏れた灯りに照らされたのは、草木染めの樽に頭から突っ込んだような髪の色を持つ男であった。その奇怪な髪で顔を覆われた表情の見えない男──それが確かに周を抱きとめ、うっそりと立っていたのである。  男は夏だというのに肩からくるぶしまでを真っ黒なインバネス•コートで覆い隠して、おまけにフードを被っていた。  西洋の死神さながらの姿にひッと悲鳴を上げた周を、二本の腕が猛烈な強さで蔵の中に引き摺り込んでいく。  殺される!  こんな化け物の手に死されるために自分は蔵に寄越されたのか? 「やめろ、やめろっ!」  生とは死との相乗りなりと悟る周とて、本気で死ぬと思えば足が震えた。  あっははは、笑いながら腕を離され周は尻餅をついた。腰が抜けていた。  男は周を指差しながらなおも腹を抱えて笑った。  頭がおかしいのだろうか? 猜疑に駆られへたり込んでいた両手を男に握られた。背に冷や水をぶっかけられる心地がした。  ああ死ぬ、自分は化け物にひねり殺されて死ぬのだ。どっと頭に血がのぼり、歯の根がガチガチと鳴った。 「おかえり」  抑揚のない声が恐怖を与える。まして顔がすべて髪に覆われ、感情がひとつも読めぬ相手なのだ。 「遅かったじゃない」   奇怪な男が小首を傾げた。  違う。俺はおまえに殺されるためにここへ来たのじゃない。 「よく見せて」  男は額に手をやって、その嫌な髪のれんをようやく掻き分けてみせた。その隙間から現れた片目は周の記憶とぴたりと重なる色をしていた。 「あっ!」  今度はこちらが指差せば、狐の目はこれ以上ないほど大きくなって、けらけらけら、満足そうに笑った。
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