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「おかえり周。ふふふ」
ふふふははは、楽しそうに笑い続ける。周は得心した。なるほど自分はかつてのあれを狐の童女と思い込んでいたが、事実は男だったのである。
周は眉を顰めた。
会いたい会いたいと思ってきてみれば、何なのだろうこの有様は?
周の尻の下に続くしみだらけの畳は湿気を吸って所々ひどく膨張していて、身じろぎをしようものなら熱気に蒸された藁と埃の発酵したような匂いが醜悪に鼻をつく。あちこちに蛞蝓も這っている。
その不愉快な畳に散乱するのは無数の本である。周が見知っているだけでも、やれ萩原朔太郎の、武者小路実篤の、志賀直哉……芥川龍之介、有島武郎、谷崎潤一郎等……新進気鋭の作家やら、竹久夢二のデザイン集、雑誌の青踏、思潮、赤い鳥。また西洋史、地学、生物学……に至るまで、文台の傍に所狭しと散らばっているのである。
文台の上には蔵の唯一の光源であるタングステン電球がぶら下がる。電球には埃まみれの傘が掛けられている。その周りで灰汁色の蛾が鱗粉を散らしている。
何より気になるのは狐の右足首を咬む真っ黒な足枷だ。枷から伸びる黒い鎖は太い鉄柱に繋がれていて、蔵の中を歩き廻るには足りてもとうてい外へは出られぬ長さに思えた。
枷に咬まれたくるぶし周りは赤黒く腫れ上がり、鎖には執念を感じる傷が幾つも走っていた。ありとあらゆる方法で断ち切ろうと試みたが、ついに切れなかった。そんな諦めと怨念が刻み込まれているようで、周はゾッと凍りついた。背筋を嫌な汗が流れていった。
「その足どうして……、お前、お前いったい何なんだ。おまえの親は狐だと聞いているが、本当か」
腹と胸と喉が震えて上手く言葉にならない。
狐は髪のれんから両目を光らせ、くすっと笑った。
「今夜は、蒸すな……。ひとつ涼しくなるように、怖い話でもどうだ?」
死神は四辺がくちゃくちゃに折れ曲がった原稿用紙の束をおもむろに周に差し出した。
「読めよ」
黄ばんだ原稿を強引に押し付けられたが、どうにも恐ろしい足枷が目に入る。狐はやはり繋がれるべき殺人鬼で、逆らえば逆上するかもしれぬのだ。
ならば、読む。読もうではないか。そうして隙を見て、這って逃げればよい。あの忌まわしい足枷のために、やつは外までは追って来られぬはずなのだから。そうだ……。
薄暗い蒸し風呂の中で原稿用紙の束を抱えた。一枚目の欄外には、『サルマキスの同胞』なる訳の分からぬタイトルが綴られていた。
その書き出しとは、こうである──。
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