悪夢の夏

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 ◇◇  冬の日の別れから数えて十年になる。(十の数字は何度も消して上書きされた跡があった)  いつかこうしてまたお前に出会えるものと私は信じていたよ。  外の世界へ飛び出したお前の上には実に様々な現実の事象が起きたろう。しかし私の身の上はこの通りであるから、昨日も今日も、明日も変わらぬ。ただわやになった畳に寝転び、汚れた天井を見上げるだけの毎日だ。  だからお前が私をすっかり忘れ果てようともそれは仕方がないのだけれど、私の方は片時も忘れたことがない。今日は昨日の延長なれば、お前のことは昨日のように覚えているよ。  おまえがここに帰ってきたということは、史乃が死んで旦那の仏心が働いたか、史乃の子供が死んだかのいずれかであろうが──ともあれ周、おまえは確かに帰ってきたのだ。  私はおまえが帰るのにあわせて二つの原稿を用意した。ひとつは史乃が死んだ場合のもの。今ひとつは、史乃の子供が死んだ場合のものである。どちらを手渡すかは状況しだいだ。 **  なるほどこちらの原稿か。おまえもつくづく運のない人間であるらしい。  史乃の子供が死んでせっかく後継ぎに戻されたというのに、また蔵の中とは憐れだな。  憐れなのはそれだけではない。なあ周。史乃は何故おまえに私を当てがったのか、その理由(わけ)を知っているか。  むろん私は知っている。私は肺を病む者だ。史乃は、お前が早く私から病を得て、死んでほしいと思っているのだよ……!  父は私の病のことを知らぬ。どころか、ここに私がいることすら、とうの昔に忘れたかもしれぬ。  業腹な史乃は、実子亡き今お前に家財を分け与えるのが悔しくて堪らないのだ。そうするくらいならば、いっそ家が絶えてもいいという無責任さでお前の死を願っているのだよ。  ときにお前は私の服装を見て驚いたろうか。おまえが西洋に明るいものならば、死神のようだと思うたかもしれぬ。  否、これらは我が母の形見の服である。何故に母のものと言いながら男の装いなるを不思議に思うか。しかしこれには訳があるのだ──。  私が何者であるのか、お前は知りたくてたまらないはずだ。  まず第一にいえることは、私は狐の子ではない。素直なお前はともすればいまだにそう信じているかも分からぬから、一応の断りをいれておこう。  私の世話をしているのは十八も年上の雪子という女中だ。雪子は私のことをえん様と呼ぶ。かつて私はその雪子を呼び止め色々のことを聞いた。  私の身の上を知りたいのなら、雪子に聞くといい。私がそうせよと指示したものだと言えば、頑固に口をつぐむということも、ないはずだから──。
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