悪夢の夏

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 周が顔を上げると、死神は試すような目つきで見下ろした。さて何が本当で、何を嘘だと思ったか? そう問うているような視線であった。 「仮に……仮にここに書かれた史乃の企みが事実だとしても、そんなの、僕が父に告げ口をしてしまえば済むことじゃないか」 「そうだな。それができるかどうかは、お前次第だが……私はできない方に賭けてみたい」 「なぜ」 「なぜって、お前は優しいから」 「優しい?」 「ここへ入る前に史乃に変なことを言われなかったか? そうだな。例えば、妙な告げ口したらお前を殺す、とか、或いは何か、大事なものを奪ってやるだとか」  周は表情をこわばらせた。死神のいうことが、全くその通りだったからだ。 「だが大事なものといわれても、僕にはもう、何も」 「ないかな。……そうだと良いな」  肯定しながら死神はどこか寂しげに目を伏せた。 「その雪子というひとに……」 「うん。聞いてみるといい」  翌日の夕べ、周は食べ物を運びに来た雪子を帰りしなに呼び止めた。蔵の中に住むえんという者にこれこれと聞いたのだと切り出すと、死神の言った通り、雪子は案外すんなりと口を割った。  ──かようのことは外には言えませぬが──この家に勤める者ならば、誰でも知るところにございますから。お話いたします。  えん様をお産みになったお母様は──いえ、お父様とお呼びした方が良いのかも分かりませぬが──半陰陽のお身体を持ちながらそれを隠し、十七年前にこの家に嫁いでらっしたのです。  ええ、旦那様の最初の奥様だった方ですわ。ですが、いずれお身体の秘密を知った旦那様は、奥様に寄り付こうとはなさいませんでした。それで正気を失うほどに苦しまれた奥様は、ある恐ろしい試みをなさったのです。  つまりご自身の精を指に付けて、自らの女の奥に……。  それは虚しさを紛らわすための行為でもあったのでしょうしかし、それで奥様は確かに身籠もられたのでございます。  子を持てる身体だと知れば旦那様の気を引けると思うたのかもしれません。けれど旦那様はますます奥様を気味悪がられ、とうとう新しい蔵をお建てになって、そこに身重の奥様を閉じ込めておしまいになったのです。ええ。察しの通り、それがあの蔵なのでございます──。  そうしてお生まれになったのが、えん様にございます。もとよりこの世に生まれてはならぬお方なのです。それ故ずっと蔵の中で、死ぬまで繋がれるべき運命なのです。そのお体とて、ご自害なされた奥様と同じ、半陰陽の──。  そこまでを告白すると、雪子はわっと泣き出した。 **  ギリシャ神話にヘルマプロディートスという少年が登場する。ヘルメースを父に、アプロディーテーを母に持つ類まれなる美少年である彼は、あるとき泉で水浴びをしていた。  泉にはナーイアスと呼ばれる精霊の女たちが住んでいたが、そのうちのサルマキスはヘルマプロディートスの美しい姿に欲を起こし、ついには強引に体を奪ってしまった。すると二人は融合し、一人の両性具有者になったという──。 **  馬鹿な、あり得ない。まさか一個体の身体の中で男の精と女の卵が混じり合い、新たな生命を育むなんて。それは生物学上絶対にあってはならぬことだ。せめて奥様という人が適当な間男を引き入れて生んだ子だと言われた方が、よほど救われる気さえした。  十六年。十六年だ。彼がそんなにも執拗に監禁を強いられる理由が、そこにあるのだとしたら。  ああ、だとしたら、……だとしたら……。
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