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原稿はそこで終わっていた。
周の肩がぶるぶると震え始めた。
「面白かった?」
狐が問うた。周は訳の分からない涙を滔々と流していた。
「ねえ、面白かった?」
たたみかけるその顔を見ないようにして、腹の中にぐちゃぐちゃに這い回る無数の感情を押さえ込んだ。そうしなければ叫び出してしまいそうだった。
「……思い出した」
「なに?」
「思い出したんだ、お前の名前」
「そう? それで、これ読んでお前、どう思ったの」
問いかける狐の顔は無邪気に破顔した。
ああ、そうだ──。周は目を見張った。
この顔。そう、この顔だ。胸の奥深く、記憶の聖域にそっとしまった、うすら緑がかった優しい顔は。
ひと組の布団に潜り込み、母を囲んで眠った温かな記憶が蘇った。摘んだ草花で花冠を編んでは互いの頭に競うように捧げた、宝物の昨日が。
こんな大事な思い出をどうして忘れていたのだろう。そうきっと、ひとたび優しい夢を掘り起こしてしまえば今日という日の苛烈さにくじけて、立ち上がれなくなるのを恐れたからだ。
ただ生きるために記憶に鍵をかけ、忘れようと努めてしまったのだ。ああきっと、そうに違いなかったのだ。
「会いたかった」
周は言った。
「会いたかったよ。僕はきっとお前に会いたかった。会いたかったんだ……会いたかった」
零れた涙を拭うと、着物がたわんで肘までが露わになった。
「それ……どうしたの」
死神は驚いたように周の腕を指差した。腕には火かき棒で焼かれた醜い火傷の痕が幾つも残っていた。
「ああ」
周は今気づいたように自嘲し、恥じて着物の袖を引いた。
「なるほどここは、地獄だけれど」
隠した腕を握って死神を見つめ、
「地獄はなにも、ここだけじゃないってことさ」
そうして、慰めるように静かに笑んだ。
死神が目を見開いた。その目から頬にサッと涙が走った。
どちらともなく伸ばされた手が互いの体を抱きしめあった。
同胞。血の繋がりはなくとも彼は確かに肉親なのだ。
肉親? 否、そんな言葉では生温い。
骨肉。そう、骨肉だ。
『だがねぇおまえ、あの蔵の中で見るもの聞いたものを、誰にも喋っちゃあいけないよ。もし破ったときにはおまえ、おまえの大切なものを、一つづつ壊すからねぇ……』
なるほど史乃の企みは正しい。あの女は見抜いていたのだ。いかに周が死神を深く思っているのかを。
いったい、この原稿に書かれた事柄が嘘か誠かを周は知らない。
死神が本当に死病を患い、史乃がそれを利用しようとしているのかも、彼の体が誠に半陰陽なるのかも、雪子なる女中が実在するのかさえ、周はまだ何も知らないのだ。
でも今はただ歓びに震えたかった。生きて再び会えた奇跡を、この血潮を感じていたい。
灼熱の悪夢の夜が周の肺を烈々と灼いた。
死神の僅かなふくらみに耳を押し当てる。荒れ狂う胸の嵐がヒュウゥ……とすすり泣いた。
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