悪夢の夏

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 生きることとはつまり、死との相乗りである。  15の(あまね)がそうまで思い詰めるほど、苛烈を極めた生い立ちが、今また彼を翻弄しようと爪を研いでいた。  ガタリと戸口を鳴らして養父が帰った。賭場にでも行っていたのか、酒と汗臭さにまみれた手拭いとパナマ帽を脱ぎ捨てると、周にいろいろのことを言ってくる。  二人の間を太った蝿がぶんぶん飛んだ。  周は聞くふりをしながら手拭いを拾った。背に負ぶる赤子が元気に泣くのでうるさくてかなわない。 「すみません、よく聞こえませんでした。もう一度……」  願い出たところでまた赤子が泣いた。養父が癇癪を起こして火かき棒を押し当ててくる前に赤子を軽くあやした。  しかし泣き声はますます狂ったように大きくなる。赤子も感じているのだろう。この家で唯一自分を大事に扱ってくれる兄を、明日には失うということを。  東京府本郷区の外れにある名家の長男として、周は生まれた。長男といっても、そのころ本妻を亡くしたばかりの父が妾に生ませた子である。  翌年に父は史乃という女を後妻に娶ったが、この女が性悪で、父を手玉に取る一方、自分が懐妊したと知ると周の母を邪険にし、ついにはいびり殺した。  史乃が男児を生むと、邪魔な周も消そうと考え、当時まだ子のなかった下町の夫婦に周をくれてしまったのである。  周が親と仰がされたのは、ほとんどやくざ崩れの養父と、それに似たり寄ったりのだらしない養母だった。  召使い同然の暮らしの中で周の心を励ましたのは、狭い畑に集まる雀らと、死んだ母の形見の数珠だけ。  五歳まで共に暮らした母は優しく穏やかな人で、死ぬ間際にさえ周に笑顔を遺してくれた。のちのち犬畜生にも劣る養父母をあてがわれても、周の心が曲がらずに済んだのはそのためだ。  だが世の中とは無常なもので、史乃の産んだ子がつまらぬ風邪から肺炎を拗らせ、半月前にあっけなく逝ってしまった。次の子を望みたくとも史乃は子宮を患っている。それで今更になって、周に白羽の矢が立ったのである。
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