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菊王丸が現れたのは、ちょうど宵闇の入り口に差し掛かった頃のことであった。
東天に薄白い弓張月が姿を見せてはいたが、現世はまだ残照に包まれ、今日という日が終わりゆくのを名残惜しんでいるかのような、そんな逢魔が時のことであった。
花の頃にはまだ早く、山の端には残雪あり。日も暮れなば、辺りの風も一息に冷たきものとなる時節。屋敷の家人らは、およそ訪れるはずもない季節外れの客人に戸惑っていたが、俺はたいして驚きもしなかった。
ここ幾日か感じていた体の不調ゆえか。あるいはそうやって無理やり合点をいかせることで己を律したか。妙な話ではあるが、俺自身にもまことのところはよく分からぬのだ。
俺は、菊王丸を座敷に上げると、正面に座し用向きを問うた。
すると、「飲むものも食べるものも何も要りませぬ。私は、ただ能登殿と囲碁を打つことのみを所望いたします」と言うので、やはりそうかと思い、家人に碁盤と碁石を用意させた。俺には菊王丸がそう答えるだろうということが分かっていたのだ。
さてもそうして囲碁を打ち始めて、果たしてどれくらいの時が移った頃だったか。屋敷の外は、もうすっかり夜の匂い。なれど俺も菊王丸も、そんな時の移ろいなど気にも留めず、ただひたすらに碁石を打ちあっていた。はるかに遠き日の昔話など語らいながら。
「壇ノ浦から、はやもう四年が経ちまするか。時の移ろいとは、まこと早いものでありますなあ。能登殿は、彼の戦でも鬼神の如き戦ぶりであったのでしょうなあ」
「菊よ。能登殿などとは呼んでくれるな。今やもう、その名は深き波の底に沈めてしまったのだ。はるかに遠き昔日の幻ぞ。今は、ただの山人の国盛。そう名乗っておる」
自嘲気味に言ったものの、今の俺が官職に就いておらぬのはまことのことであったし、国盛という名は俺の幼名でもある。何ひとつ嘘は吐いておらぬ。落人狩りの目をくらますには、その名でいる方が都合も良かったのだ。
「それにな、俺は壇ノ浦ではろくな働きをしておらぬ」
菊王丸は、壇ノ浦の戦いに参陣していない。戦がどのようなものであったのか、また俺がどのような戦ぶりであったのかを知る由もない。故に何も気にすることなく口にできるのだ。あのような思い出したくもないむごい戦のことを。
九郎判官義経の首級さえ挙げておれば……。
「そう言えばここへ来る途中、蔓で編んである橋を目にしました。あれは能登殿、いや、国盛様の一計でありましょうか」
俺の苦い心の内を見透かしたのか、菊王丸はするりと話を変えた。
「ああ、もしも源氏の追手らに追われようとも、蔓で編んだ橋であれば、斬り落とさば、それ以上は追って来れまいと思うてな」
ここへは、あの橋を渡るよりほかに来る術はない。だが菊王丸は、渡って来たとは言わなかった。
「なるほど、渡る者を選ぶとは、まるで彼岸に至る橋のようですなあ」
彼岸だと? 妙なことを言うものだ。なれば菊王丸は、ここが涅槃であるとでも言いたいのか。俺は、その言葉には、あえて何も答えなかった。
俺は、壇ノ浦の戦の折、源氏の郎党らを道連れに海に飛び込んだ。一門の滅びを前に無常を感じこそすれ、何の命を惜しむことがあろうや。この世に未練があるわけでもなし、むしろ源氏の世など見たくもなかったのだから。
なれど俺は沈みゆく波の下で見てしまったのだ。先に身投げしていた帝のお姿を。
帝と共に飛び込んだはずの、二位尼様の姿は見えなかった。何処かではぐれてしまったか、あるいは先に浄土へ行かれたか。
いずれにしても、息もできずにもがき苦しんでいる幼き帝を、そのままにしておくことなど俺にはできなかった。帝は、その時まだ御年五歳であったのだぞ。
俺は、薄暗い海の底で、これも運命かと思い帝をお助けしたのだ。耳の底では、ごーっという、まるで冥土へ導く調べであるかのような音だけが聞こえていた。
あれからはや四年。栄華を極めていた都での日々は、今はもう、はるかに遠き夢物語となってしもうた。今の暮らしは、あの頃とは比べるべくもない。日々生きていくことのみで精いっぱいだ。決してここは涅槃などではないのだ。
幼き帝には、御不自由をお掛けし、たいそう申し訳なく思っている。なれど菊王丸よ。俺は帝をお助けしたことを一度たりとて後悔したことはない。なぜだか分かるか。
波の下には都などないからだ。
菊王丸は、このような山奥に隠れ住み、一体何を糧として生きているのかと俺に問うた。俺は、今の暮らしぶりをそのまま聞かせてやった。
「山菜など取って暮らしておる。今の我らがかつてのような贅を尽くした暮らしなどできるはずもなし。都での暮らししかお知りにならぬ帝にとっては、さぞやお辛い日々であろうよ。よもや食べるものに窮する日が来ようとはな。なれど帝はお優しい方である故、何も言わずにそれらを召し上がってくれる。稀に鹿や猪の狩れることもあるぞ。今の時節は獣も姿を見せぬが、幾日か前には狐が狩れたというので、帝にお食べ頂いたところだ」
「ほお、狐とは珍しい。いや、季節がどうということではなく、そも四国に狐はおらぬと聞いておりました故な。何でも弘法大師空海が、かつて四国から全ての狐を追い払ったとか。故に四国は狗神の支配する地であると」
「狗神?」
「はい、左様に聞き及んでおりまする。そうであるのに狐とは、それは珍しいものをお食べになられましたな」
「いや、食したのは帝のみだ。さほど大きな狐でもなかった故」
確かに狸は見るが狐を見たのはその時一度のみ。そういえば山向にある神社が、そういった狗神らの憑き物を落とす謂れのある神社であると。家人らがそう言っていた気がする。さて、何という神社であったか。とはいえ、まこと狗神なるものがいるはずもなし。仮にも神だというのなら、是非にもまみえて今の我らをお救いいただきたく祈願奉るものを。
ぱちん。
菊王丸が碁盤に石を置く音が夜のしじまにこだまする。そして菊王丸は、また別の話を俺に聞かせるのだ。
「京の大原に建礼門院様がおられることはご存知でありましょうか」
「うわさには聞いておる」
落飾され、一門の菩提を弔われていると。なれど俺は、その話を帝には伝えておらぬ。
時期尚早であろう。むろん伝えたい気持ちがないわけではない。なれど母親が生きて京にいると知れば、幼き帝は何と思われるであろうか。ようよう今を耐え忍んでいるお心が揺らいでしまうのではないだろうか。
それに身罷ったはずの帝が現れるというだけで、都には嵐が吹き荒れるであろう。建礼門院様はともかくとしてもだ。新たな帝が擁立されている今、都には、かつての帝が現れると都合が悪い人間が大勢いるのだ。朝廷も然り。法皇様とて、いかに思われることか。
我らは、今、危うき立場にある。都へ戻ったとて、かつての崇徳帝のように、すぐまた配流となるのであれば何の意味もない。我らは、今、帝を失うわけにはいかぬのだ。
ぱちん。
「そろそろそなたが現れたまことの訳を話してはくれまいか」
俺は碁盤に石を置いた後で菊王丸にそう言った。そして返事を待たずに言葉を連ねた。
「この勝負に俺が勝ったならば、今しばらく生きながらえることができようか」
一度は波の下に捨てた命。今さら惜しくなどはない。なれど幼き帝を残してゆくとなれば何とも無念なこと。せめて帝がご成長なされた後であれば、何の憂いもなく浄土へと旅立てるものを。
菊王丸は、俺の言葉にかすかに微笑むのみだった。かげろうが如く。儚げに。
本当は、俺には分かっていたのだ。菊王丸が俺の前に現れたその訳が。俺は、かつて似たような目に遭うていたのだから。あれは確か屋島の合戦の幾日か前のことであった。戦を前に心が昂っている俺のところへ、無官大夫敦盛が訪ねてきたのだ。
「能登殿、お久しゅうござりまする」
敦盛は、おかしなことなど何もないといった涼しげな顔でそう言った。
細面で色白の美少年。武士というよりも公達と言った方がよく似合う。だが俺は、敦盛の体の中に平家の武士としての熱き血が流れていることを知っていた。
誰よりも誇り高く、侮られることを許さない。辱めを受けるくらいならば、むしろ死を選ぶ。そういうやつであった。
確かに刀を振るうよりも笛など吹いておる方が余程似合いの見た目をしていた。実際に幾度もそういう風に言われたことがあったのであろう。敦盛は、そのことがどうにも歯がゆかったのだ。故に、ことさらそういう侮りだけは許さなかった。気高い男であった。だが、それが故に……。
「敦盛よ、何ぞ無念があってさまよい出でたか。俺が叶えてやる故、何なりと言うてみるがよい」
なればとて、敦盛は、俺と囲碁を打ちたいと言った。妙なことを言うものだとは思ったが、それで敦盛が彼岸に至ることが叶うならばよし。俺は言うとおりにしてやった。
恐れはなかった。むしろ昔語りに花が咲いた。今更になりて、このように多くを語らうのも何かの縁か。もっと早くにこうしておれば、何かが変わっていたのやもしれぬ。
ぱちん。
敦盛は碁盤に石を置くと、顔を上げて微笑んだ。俺の負けであった。今まで一度たりとも敦盛に負けたことなどなかったというのに。
手を抜いたつもりはない。花を持たせたという訳でもない。真剣勝負で俺は打ち負かされたのだ。悔しくはなかった。どこか清々しい心持ですらあった。
「何とか無事にお役目が果たせました。しかと案内できそうにござりまする」
敦盛は、安心と寂寥の狭間にいるような顔でそう言った。
お役目とは何ぞ。案内とは。俺がそう問おうとした時、辺りを一陣の風が吹き抜けた。風が通り過ぎた後で再び顔を上げると、もうそこに敦盛の姿はなかった。何者かが見せた儚き夢であったか。なれどこれで敦盛が迷いなく行けるならばそれでよい。
それより幾日か後、我らは九郎判官義経率いる一軍と相対した。奇策を取る義経に我ら一門は浮き足立ち、一ノ谷に続いて、またもや敗色濃厚となった。
ええい、せめて一矢報いん。俺は、五人張りの強弓を引き、佐藤某と大声で名乗りを挙げているひときわ目立っていた義経郎党目がけて矢を射かけた。甲高い音を鳴らしながら空を切り裂いた矢は、見事そやつの眉間を貫いた。見たか、これこそ一射必中というものよ。
すぐさま俺の傍らより、落馬した郎党の首を掻き切らんと走り出でたる者があった。慌てずとも死体は逃げぬが、やつらに引き払われることもある。その前に駆けだしたのだ。
それは俺の最も寵愛している小姓、菊王丸であった。そして菊王丸が佐藤某の首級を挙げんとしたまさにその時、ひと際甲高い空を切り裂く音とともに飛来した矢が、菊王丸の頭を貫いた。
俺が駆け寄った時には既にこと切れていた。ああ、何ということだ。俺は、敵に奪われぬよう、菊王丸の身柄を引き上げた。ああ、何という。
その時の俺の怒りと悲しみたるやいかばかりか。この恨み、必ず晴らしてくれようぞ。
その時になって、俺は、敦盛が訪ねてきたまことの意味を悟った。一ノ谷で既に討たれていた敦盛は、菊王丸を黄泉路へと誘う案内人であったのだと。
ぱちん。
どのくらい碁を打っていたのであろうか。気付けば盤上の勝負は決していた。いつしか薄白い弓張月は中天にまで上っていた。辺りに人の気配はなく、ただただしじまが敷き詰められているばかり。そこにはもう菊王丸の姿などなかった。ああ、そなたは俺を黄泉路へと導くために俺を訪ねてきたのだな、菊王丸よ。
明くる朝、家人らが血相を変えて騒ぐので何事かと問うと、帝のご様子がおかしいのだと言う。一抹の不安を抱えながら、俺は御座所へと向かった。果たして俺が着いたとき、帝は既に崩じられていた。
ああ、俺は己のことのみを考えるばかりで、幼き帝のご様子に気付くことができなかった。思えばまだわずか九歳の童であったというのに。
俺はまた後になってから知ることとなった。菊王丸が案内しようとしていたのは、俺ではなく帝であったのだと。安らかなお顔であったことがせめてもの救いであろうか。それともそれは俺がそう思いたいだけであろうか。
「かか様も、ばば様も、皆、波の下の都へ行ったというに、何ゆえ朕だけが行けなんだのじゃ。朕の功徳が足りぬのか。のう、国盛、朕を波の下の都に連れて行ってたも」
帝よ、菊王丸がしかと案内いたします故ご安心召されよ。
帝を埋葬した数日後、俺は山向の神社を参拝した。何処からそういう話が湧いたのか、家人らが帝の死は狗神の祟りではないかと言って恐れていたからだ。だが俺は、祟りとはまるで関係なきことを祈願した。
「この地は残雪、残照、果ては人の思いまでと、ありとあらゆる万物が置き去りにされていく寂しき地。なればこそ我が一門の名を、この地に永久に残し奉らんことを平能登守教経の名において祈願いたすものなり」
俺は、ぼんやりと天を見上げ帝を思った。帝は波の下の都に行けたであろうか。皆と会えたであろうか。少し遅れてしもうたが、今ごろ皆と笑いあえているであろうか。
行く者、送る者。いずれが幸福で、いずれが不幸であるかは誰にも分からぬ。なれど叶うなら、次は己が行く側でありたいものだ。春はまだ遠い。(了)
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