2人が本棚に入れています
本棚に追加
遠いな、と思った。
凪いでいた。遮る壁のない岬の上は風が強いだろうと想像していたのに、空気は私の周りでただ浮いている。ぬるま湯のような七月の暑さに浸されていた。
突き出した地面の輪郭の向こう、青く敷き詰められた海原はどこまでも彼方に見える。水面もまた静かなのだろうか。それとも遥か上空から見下ろすせいで、波の起伏が見えていないだけなのだろうか。
私の立つ岬の上も、下に広がる海も動かない。同じくらい、動かない。同じように見える。それなのにどうして遠く感じるのだろう。
「自殺の名所、って言いますよね」
声につられて顔を上げた。右手の方を見やると、男が一人、私と同じく海に向かって立っていた。顎紐の付いた帽子をかぶり、薄茶色のリュックを背負っている。私を見てはいない。海と同じように動かず、ただ立っている。他には誰もいない。私は前に向き直った。
「どういう意味だと思います?」
再び男の声につられて、私は右側に顔を向けた。
今度は男がこちらを見ていた。口元に薄ら笑いを浮かべている。四十歳前後だろうか、乾燥してくたびれた印象の男だった。
「なんですか?」
私が返事をすると同時に、ゴウと突風が吹き抜けた。冷水が差し込まれたようで意識が冴える。
応える声は半分ほどかき消されてしまったはずだが、男には届いたようだった。顔だけこちらに向けた男は、頬を少し持ち上げて笑みを広げた。
「自殺の名所って言葉、あるじゃないですか。あれってどういう場所のこと言うんですかね?」
障害物は熱だった。ひんやりとした風にあおられながら、男の声はクリアに聞こえた。返す私の声もまたまっすぐに響いていくようだった。
「有名な場所ってことじゃないですか? オーロラの名所とか、花火の名所とかと同じですよ」
「“隠れた名所”って言葉もありますよ。つまり、よく知られているかどうかは関係ないんじゃないですかね」
私は海に向き直って考える。
投身自殺の多い岬だと聞いている。
夜になると、いないはずの人間が崖から飛び込む様が見られるだの、写真を撮ると海から伸びる白い手が見えるだの、噂話は枚挙にいとまがない。
実際、噂を惹き起こすに充分な事実もある。ここから身を投げた人間は報道されただけでも四人。そのうちどれが自殺で、どれが事故なのかは判然としないという。
最初のコメントを投稿しよう!