ノゾミ様

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 数年前、私は、とある郊外の小学校に勤めていた。当然、田舎だからといって学習内容に差があることはなかったが、一つだけ不思議な指導があった。 「書道の時間に『希望』とは書かせないでね」  いつもは柔らかいはずの教科主任の目が、その言葉を放った時だけ鋭いものになっていた。 「どうしてですか?」 「そういう決まりなのよ」  他の先生に聞いても、何となくはぐらかされた。  初めての書道の時間、私は戸惑いを抱えたまま教壇に立った。 「何を書いても良いけど、『希望』という字は書かないでね」 「そんなの分かってるよー」  理由をどう説明しようと考えていた私は、ぽかんとした。その勢いで児童たちに尋ねたのだ。 「ねえ、どうして『希望』って書いちゃいけないの?」  すると、さっきまで騒がしかったはずの教室が、途端水を打ったように静まり返った。 「ノゾミ様がいらっしゃるから」  普段、大人に対して十分な敬語で会話ができない児童たち。だがこの時だけは、毅然とした態度で答えたのだ。 「書いちゃいけないわけじゃないよ、書く時は決まってるの」 「『希望』って書くと、ノゾミ様がお迎えにいらっしゃるんだ」 「だから、本当にノゾミ様にお迎えに来て頂きたい時にしか、書いたらダメなの」  彼らが冗談を言っているようには見えなかった。 「……ノゾミ様はお迎えに来て、何をするの?」 「素晴らしい世界に連れてってくださるんだよ」  その小学校を異動してからは、そのこともすっかり忘れていた。  今、突然思い出したのには理由がある。 『〇〇町で神隠し』『町民全員が一夜で忽然と』  今日の朝刊。見出しに踊っているのは、その小学校がある町の名だった。 『〇〇小学校で最後に撮られた写真』  編集者が何の気なしに掲載したであろうその写真は、私をぞっとさせた。  教室の中、児童たちが並んで、こちらに満面の笑みを向けている。  その背後の壁一面には、思い思いの文字で書かれた『希望』の半紙が、ずらりと貼られていた。
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