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第1話 ラジオを聞くおんな
車は、高原を一直線に横切ってゆく。
いつもなら右前席が定位置の和気みずるが、珍しく二列目から車窓を眺めていた。時刻は夜に近づいていたが、ひろびろとした空はまだ青かった。
道の両側には草木が緑の炎のようにうねっていて、カーラジオから流れる曲が揺れる陽炎を歌っていた。
–––– 道具立ては申し分ないのになあ。
もの悲しい気分が邪魔して、どうしてもすっきり夏を楽しめない。
時報が鳴ってラジオの番組が変わった。
低くよく響く声のパーソナリティーが、本日のお題は「夏真っ盛り」だ、と話している。そのうちにぎやかな曲がはじまり、運転席の難波刑事が微妙な音程でハモりだした。
車中のため、逃げ場所のないのが少々つらい。
–––– そういえば、久保園さんの家もラジオはかけっぱなしだった。あれは寂しいから…だよね。
ついうっかり考えて、ため息をついた。久保園という人物こそ、この冴えない気分の理由にほかならない。
隣の席に身じろぎの気配があった。みずるは振り返り、
「あまり冷たくはないけど、お水でも飲む?」と聞いた。しかし、彼女の「相棒」である隣席の宇藤木海彦から返ってきたのは、
「ふごご、ご」という弱々しい声だけだった。
「NO THANK YOU」 の意味だというのは、とりあえずはバディなので判る。
宇藤木は、目を閉じて口を薄く開き、リクライニングした座席に長身をぐったりとあずけている。
外見だけは申し分ない男だけに、ピエタ像ばりの荘厳な気配が漂わなくもないけれど、こぼれる涙と鼻水がそれを打ち消してしまっている。
「ごごば、どご」宇藤木がまた言った。
「現在地点?まだ高原道路の途中。出るにはもう少しかかるかな。でも見て。空だって緑だって本当にきれい。大丈夫、窓を開けるなんて意地悪しないから」
「どぼぼ」
「んもー、なんですか、ふたりとも。労咳の浪人と孝行娘みたいな会話してー」
運転席から難波がじれたように言った。「とにかく予定のお仕事は終了したんですから、もっとハッピーな雰囲気を漂わせてください」
「だって仕方ないでしょ。依然すごい花粉症なんだから。多少すごすぎる気はするけど」
「しかし、つくづく独創的な人ですねえ。春どころかもうじきお盆ですよ」
「時流にのらないキャラだし」みずるは肩をすくめた。考えたら、朝から似た会話を7、8回は繰り返している。
「やっぱり、高原がまずかったかなあ。けど、まきばの牛は元気でしたよね。あー、バニラソフト食べたかった。そういや、牛に花粉症はないのかな」
「羊さんもそうよね」
「げぼぼ」
本日のみずるたちは、朝早くから県北部にある高原地帯へと出かけ、今はその帰りだった。
案内役兼運転手は県警の難波、同行者は例によってみずるが管理?を担当する宇藤木海彦だ。当人もめったに名乗らないけれど、宇藤木は俗に言う探偵であり、警察の委嘱を受けて仕事をしている。
目下、捜査を進めている案件について、たまたま聴取および協力依頼先が県北に集中していた。そこで、宇藤木の巨躯を押し込めるミニバンを難波が調達し、1日かけて順に訪ねたというわけだった。
宇藤木の花粉症は、昨晩には落ち着いたとのことだったが出発後、目に見えて症状が悪化した。最後はみずるについて歩くだけのゾンビと変わらない状態になってしまった。
無責任男をもって任じる難波も、半病人を引っ張り回したのに多少の痛痒は覚えているらしく、からかいながらも容体を気にしている。
「どこか、ドラッグストアにすかっと効く薬が売ってたりしますかねえ。いまさらですが原因はスギ?ヒノキ?このあたりだとカバの木とか?」
みずるも掛け合いに応じた。「百日紅の花、とかじゃないわよねえ」
すると、ようやくガラガラ声の返事があった。
「だぶん、宇宙ウイルス」
「ふーん」納得したようにみずるはうなずいた。「外星人ってホント、大変ね」
白い飛行機雲が、青空によく映えている。みずるはそれを黙って見上げた。あと1時間もすれば、この青は群青となり、星が瞬くのだろうか。こんな情けなメンズと一緒でなければ、夜まで残ってその美しさを確かめてみたい。
「やっぱ、あそこが罠でしたよね」難波はまだ宇藤木と話している。病馬に語りかける飼育員を連想した。
「久保園さんの家って、玄関を開けたらゴハンじゃなくて埃と瘴気が待ち構えてたでしょ。おまけに隣は杉木立。あれから傷口に塩状態ですね」
「げぼぼ」
「そうよねえ」見解が一致したので、みずるも力なく相槌を打った。
駆け足で5カ所を回る目まぐるしい1日のうち、久保園邸に滞在したのは1時間に満たなかった。
それでも、あれ以来宇藤木はまさしくヨレヨレとなり、みずるはしょんぼりため息ばかりつくようになった。生気のない久保園の姿が、スマホのアプデ通知みたいにしつこく脳裏に居座っている。
カーラジオは相変わらず、夏に縁のあるポップスを流している。
映画の主題歌だという明るい曲がはじまった。お化けを題材にしたこの歌は、今朝がたの久保園の家でも聞こえていた。
「あれ和気さん。貧乏神並みに不景気な顔してますね」難波がバックミラー越しに言った。「そこまで宇藤木さんにシンクロするわけないし、お腹でも空きましたか」
「せめて物憂うげな顔って表現しろよ」
「そういや、お昼も定食は取らなかったな。ねえねえ、晩御飯までいかなくても、どこかでちょびっとお茶しません?脳に糖分を補給したら元気もでますよ。もちろん割り勘で」
みずるを気にかけたというより、本人がそろそろ空腹なのだろう。
「いや、燃料切れとかじゃなくて」と、みずるは言った。「なんていうか、ラジオのせい…かな」
「ラジオ?いま歌ってる歌手がきらいとか。ヨメが美人なのはボクもむかついてますけどね。番組、変えます?」
「ちがうちがう。ちょっと思い出しただけ。気にしないで」
にぶい難波に内心を説明するのも、正直面倒くさい。
みずるの言葉に、一度は前方を向いた難波だったが、急に声をひそめ、
「お化けかあ…そうだ和気さん、知ってます?」と、聞いた。もっとさりげない口調と表情になるべきところ、どうみても悪事を思いついた腹黒ダヌキである。お化けはおまえだよ、とみずるは内心でつっこみつつ、
「しっかり前を見て運転してね」と、つとめて冷静に言った。「単純な田舎道ほど油断できないし」
「それはもう、完璧です。ときに最近、子供の間に怪談が流行っているんですって。しかもラジオドラマなんですよ。ラ、ジ、オ」
「それは、七海ちゃんのことかな?それとも遼くん?」
難波が「子供」と一般化して語った場合、たいていは彼の姪か甥についての話だった。
「…まあ、七海ですけどね」
七海は、小学校6年になる難波の姪だ。叔父とは大違いの賢くしっかりした少女である。みずるとも面識があり、ときどき手紙をやりとりしていた。
「そういえば、一昨日届いた暑中見舞いのハガキ。可愛いお化けの絵だったなあ」
「でしょ。あいつ、けっこう凝り性なんです」
「そうなのか。お返しに怖い本でも贈ろうかな」
彼女が読書を好み、ミステリーやスリラーに関心があるのは知っていた。
だがそれとは別に、この頃は怪談や恐怖譚、それも音声ドラマに興味を持ち、インターネットに動画として上げられたその手の作品にすっかりハマっているのだという。
みずるは尋ねた。「怪談話って、最近よくネットで見るやつ?誰かがカメラに向けて恐怖体験をしゃべったり。それっぽい映像付きのもあるでしょう」
「違うんです。あんなガサガサしたんじゃなくて、求めるのはもっとしっとりと出来が良く、キレがあるの。ここが重要」
「生ビールみたいね」
「すなわち『ラジオドラマ』なのです」難波は自分でうんうんうなずきながら言った。「落語とか稲川淳二とかでもない。あれはあれで面白いけど。つまり」
主に昭和の時代に製作・放送されたラジオドラマが、今どきのネット上には無造作に転がっている。当時の名優や名ナレーターの演じた作品もあって、現代の大人が聴いてもゾクッとくる傑作すら存在するそうだ。
「ラジオドラマのオールディーズってとこかな」みずるは小首を傾げた。
「そんなのを見つけては友だちと聞いたり、あるいは互いに稲川ってるそうです」
「ああ、自分で演じるってこと」
「それでヤツ、まだ親からネットは時間制限されていて、調べきれてないとかで情報提供を求められた。素直なボクは正直に探して、『恐怖新聞』とか教えたんです。そしたらマンガ版まで買わされちゃって、大損だあ」
それを聴いた宇藤木がもごもご言った。「うしろの百太郎は?」と聞いたようだった。意外に元気は残っているなと、みずるはそのまま放置した。
「もうネタ切れだと言ったら、『それじゃふつうの怖い話でもいい、警察に伝わってたりしないの?』って。でも、ぼかあ…」難波はなんとも嫌そうな顔をしてみせた。
「本来、ホラーとか怪談は苦手だものね」
難波はうなずいた。「本物の死体は見慣れてますけどね、なんちって。それでご協力をいただけないかと思って」
「私も得意分野ってわけじゃないし」と、みずるは思案しつつ答えた。
「この頃うちの母が、ネットから本の朗読を聞いてて、あれにも怖いのはあったな。「くだんのはは」とか「ナポレオン狂」とか。でも、月額制だから親御さんの許しがいるよね。そうだ、宇藤木さんは知らないかな。たしかラジオドラマも好きだったでしょう。あれはミステリー?」
「黒後家蜘蛛の会」という昔のラジオドラマについて、声優の演技に彼が感心しているのは以前から聞いていた。それに、「何もないところからいきなり声だけを拾うって、その闇がラジオの魅力ですね」と、よくわからないことを言われた記憶もあった。
「ごぼ」
みずるは隣席にむきなおり、「どう?ゲロしなさい」とせっついた。少し刺激を与えてみるのも悪くはなさそうだ。「怖い話だったら、実話でもなんでもいいんだって」
彼女の声に宇藤木はいったん上体を起こしたが、電池がきれたようにドタっとシートにもたれた。
だが、「面白ぞうだじ、考えでびばず」と声がした。関心はあるようだ。
「はは、宇藤木さんなら怪奇事件とかゴーストストーリー、絶対詳しいや。本人からして妖しいし。ほとんど吸血鬼。すぐ死ぬし」難波はそう言ってから、付け加えた。
「今朝の久保園さんも、かなり妖怪というか幽霊じみてましたね。夜に会ったらコワ過ぎますよ、ぜったい」
「なんてこというの」みずるはたしなめたが、たしかにそんな雰囲気はあった。
久保園は、フルネームを久保園芳美という。20代のうちに結婚したが夫とは早く死別し、その後は県北部の両親の家へと移った。そして両親の死後も同地にとどまって、現在まで一人暮らしを続けていた。
彼女を訪ねたのは、ある未解決連続失踪事件が関係している。
事件の発覚は18年前。県北部に集中豪雨被害が頻発した年にさかのぼる。
消息不明となった男女4人の家族に宛てて、殺害と死体遺棄をほのめかす手紙が送られてきた。差出人は不明、送られてきたのは各一通のみ。また、4人にめぼしいつながりはなく、その後も遺体はもとより確たる証拠すら発見されなかった。次第にいたずらとの見方が強まったのは無理からぬところであり、長く迷宮入り案件として放置されてきた。
ところが今年に入って、ある失踪者に近い人物が告白めいた手紙を残して亡くなり、にわかに騒ぎとなった。
そして失踪者のひとり、酒井明美という女性のただ一人の姉が久保園だった。新事実についての意見と、その後なにか思い出したことはないかを確かめに行ったわけだ。
ただ、いかにも宇藤木の扱いそうな案件ではあるが、現時点では今日の聴取のみの関わりしかない。本来の担当だった刑事が体調を崩したとかで、後輩にあたる難波が安請け合いして聴取業務を引き受けた、いわば代理訪問だった。
そして、高原を越えて山を抜け、やっと到着した彼女の住む家は、いわゆるゴミ屋敷だった。
「どうして先輩が遠慮したのかが、よっくわかった」と、家を見上げたみずるは言った。
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