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第5話 地に広がるもの
「その前の週末、近くにできたばかりの温泉施設へ祖父母と出かけたら、偶然に河原崎氏と会った」
と、宇藤木はメモを併用しながらとつとつと話した。
祖母の会釈に気づいた河原崎は、なんと自ら愛想よく話しかけてきた。
「想像以上に掃除は大変でした」「エアコンも給湯器も替える羽目になり、大出費です」などと、人がわりしたかのように親しげに語り続けた。そして、
「今日は予行演習、月曜からは本物で骨休みしてきます」と、有名な温泉宿の名を挙げると上機嫌で去って行った。
祖父は穏やかに応対していたが、後でポツリと「迷惑をかけたとは、ひとこともなかったな」と言った。
温泉とはいっても、友人や店員たちと行くのではなさそうだ。一人だと寂しくないのだろうか。
宇藤木少年と祖母がそんな話をしていると、祖父が少し困った顔をした。『違う、あそこは今も芸者を呼べるんだ。目的はそっちだ』
「うーむ」温泉の名を知ると難波が意味深な声になった。「ほほう、あそこですか。温泉芸者とは。当時はさぞかし」
みずるは顔をしかめたが、宇藤木は素知らぬ顔で話を続けた。
とにかく、その日の会話を根拠に、少年は家主が不在と判断し、家への潜入を試みた。
作戦実行に先立って、まず小出家の周囲を巡り門の隙間から中をのぞいた。
こちらは眠っているかのように静かだった。
内側はすっかり片付けられ、がらんとしていた。しばらく様子を探ったが、猫も人の気配もない。先般、内装業者らしき人々の姿があったと聞いたが、それもいない。気配からしてこっちの家に猫はいない、と少年は結論づけた。と、いうことは。
宇藤木少年は度胸を決め、河原崎家門前へと移動した。
さっきの小出家と同様、門の隙間へと少年は静かに近づいた。
が、その直後に全身が総毛だった。
どこからか河原崎が姿をあらわしたのだ。
待ち受けていたというより、服装からすると旅行から戻って間もなく、人影に気づいて近づいてきた感じだった。
しかし、いきなり怒鳴られたりはなかった。似た年頃の少年少女と比べ、目立って手足の長い宇藤木少年のことを、河原崎は見覚えていたようだった。
彼はしばらく黙ったまま、少年を見つめていた。目には特に感情は浮かんでおらず、公園で遊ぶ子供たちを怯えさせた猛々しさもない。少年は勇気を奮い起こすと、
「猫が入っちゃったんです。庭を探させてください」と頼んだ。拍子抜けするほどあっさりと了承された。
「ああ。いまならいいですよ」との口調は、心ここにあらずという印象を受けたが、猫がまた逃げるのを恐れ、宇藤木少年は小走りに庭の奥へと進んだ。
そこまで聞いて難波が、「あっぶね」と声をあげた。
可愛がっている姪と甥には常々、大人を信じすぎるなと忠告しているのだという。決して知らない大人と二人きりになるな、とも。
みずるもそう感じた。当人はなにも言わないが、おそらく当時の宇藤木少年は、すでに現在の非凡な顔かたちの片鱗を見せていただろう。瑞瑞しく、おまけに体つきはまだ子供だったはず。
その手の趣味のある大人からすれば、カモネギである。
「まさか、危ない目に遭わなかったですよね」と、みずるが聞くと、
「ごれがらお話じじまず」と宇藤木は言った。
庭は、想像以上に奥行きがあった。
行き止まりと思ったその奥に、坪庭だったと思しき空間があった。
とはいえ、かつては美しい植物に彩られていたはずのそこには、花も芝生もない殺風景な空間が広がっていた。
がらんとして、小さな運動場といった趣の茶色いスペースだけがあった。ありがちな塀際の雑草も生えていない。
だが少年は、なんとなく疑問を覚えた。
ここは間違いなく、ゴミ屋敷だったはずだ。手入れなんて何年もしていなかったろう。先日、大人たちが掃除をしたとしても、きれい過ぎはしないか。
こちらに来てから少年は、毎日こまめに草むしりをする祖母を、その度ごとに手伝っていた。それから考えて、これほどまで何も生えていないのは、おそらく除草剤を使ったのだろう。
しかし、ほんとうに大掃除がはじまってから撒いたのだろうか。
庭のどこにも薬剤による茶色い枯れ草はなかった。あとで抜いたにしても、ここまでの状態とは、あまりに「無さ過ぎ」と感じる。上から土を敷いたのか?いや、造園業者が来たとは聞いていない。
すると、河原崎は庭をえんえんと放置してたのではなかったのか?
湧き上がる疑念を胸に、少年はしばらくの間、庭先にたたずんでいた。
だが、そこは決して静かではなく、むしろ騒がしかった。
よく響く男性の話し声。ジャズであろう、大人びた音楽。ラジオと思われた。庭に面した居間にオーディオ機器があるらしく、内容ははっきり聞き取れた。
また、人の声がした。どうやら演奏家に関する蘊蓄を語っているようだ。
ガンマーはいた。
どこかで少年の姿を見ていたのだろう。猫はゆうゆうと陽の下に出てきた。
しかし、すぐには彼に近づかず、目の前を横切って庭の反対側へ歩いた。そこにはレンガによる区切りの残骸があった。花壇のあとだったかもしれない。少年もあとをついて行った。
そして緑を見つけた。
草花のタネでも残っていたのか、大人が両手を伸ばしたほどの幅に、なにかの若葉がびっしり芽吹いていた。
それを見た宇藤木少年は、少しホッとした気にもなった。無機質な谷間に、ようやく見つけた生き物の気配だったからだ。横長なのは、帯状にコスモスでも植えてあったのだろう。それとも畑だったのか。
どこかで見た形なのに、少年はふと気づき、しばらく見つめていた。草はまだ細く短く種類はわからない。ハーブの一種かもしれない。
さて、登場した猫のガンマーは、これ見よがしに花壇跡へと踏み込むと、くんくん地面の匂いを嗅いだ。そして、土を掘り返そうとするかのように、前脚をちょいちょいと動かした。
少年は焦った。
バカ猫め、ここをトイレにするつもりでいやがる。
ゴミ屋敷の当時ならともかく、今日はまずい。
慌てて捕まえようとすると、案に相違してガンマーはすばやく彼の足元に移動し、今度はちょこんとその場に座った。前脚を伸ばし、尻を地面につけた香箱座りというやつだ。そして、生えている草に向かって頭を垂れたまま動かなくなった。まるで瞑目しているようだった。
そういえば、横に長く草の生えたその形は、どこか墓標か墳墓を連想させた。猫は依然、じっとしている。
もしかして、先輩猫が土の下に埋まったりしているのだろうか。
わからない。ただ、ラジオから人の声はしなくなり、低くピアノの音だけが聞こえていた。
その肅然とした気配に、少年は深く考えず、祖父母がするように首を垂れ、瞑目した。
この庭に宿るであろう、見知らぬ霊にあいさつするかのように。
そのとき、河原崎が姿をあらわした。時間がかかり過ぎるのを不審に思ったのだろう。
彼は、小さく口を開いて立ち止まった。見開いた瞳が揺れていた。
猫と少年がそろって黙祷している姿に驚いたようだった。そして芽吹いた草に目をやると、唾を飲み込んだ。
やっぱ、まずかったかな。
とりあえず場を取り繕うため、宇藤木少年はとってつけたような笑顔を浮かべた。
–––– あっ、すぐ帰ります。すみません。えっと、猫がこんな真似をしているのは、たぶん、草の生え方が面白かったから。だってこれ、まるで人間の形みたい。へへへ。
河原崎はなんの反応も見せず、庭にはラジオからの音だけが響いていた。
だがその時、ガンマーが動き出した。
猫は少年の足元で向きを変え、前に進み出た。男二人の間に割り込む形となった。
そして、これまで少年が見たことのない怖い表情を河原崎に向けた。
尻尾をブラシのように膨らませ、唸り声をあげ続ける。
どうしてこんな、と戸惑うほどに猫は全身に力を充満させていた。
–––– こら、ガンマー。
少年の声に、河原崎は呆けたような表情になると、猫を見つめ少年を見た。
だが、それもほんの短い時間だった。
中年男は、まるで自分に言い聞かせるように言った。
「ここには女房がいつも花を植えていてね。長く手入れしていなかった。もう何年になるか。ひとつこれから、やってみるかな」
そのまま河原崎はゆっくりと歩きはじめた。しかしすぐに花壇を越えて、ブロック塀の際にたどりついた。
行き止まりだ。昼の光の下で見た河原崎の頬骨はとがり、ズボンはぶかぶかだった。細身の彼がさらに痩せてしまっていた。歩みはギクシャクとして、妖術のかかった骸骨が行進するかのようだ。
(怒らせた?)理解しにくい相手の反応に宇藤木少年が戸惑っていると、河原崎は急に地面に膝をついた。そして、落ちてあった石や煉瓦片を手に掴んだり戻したりした。取捨選択しているようだった。
–––– おかしい。ぜったいにおかしい。
河原崎の内面に、異変が生じている。
そう察知した少年はとっさに、尻尾を膨らませてフーフーいう猫を無理やり抱き上げた。
振り向いた河原崎の目は、暗い洞窟のようだった。
彼が立ち上がり、一歩踏み出すと、少年は一歩下がった。
これまで、大人に怒られはしても、こんな目で睨まれ迫られた経験はなかった。というより、相手が突然、人ではない別の存在に変貌したとしか思えなかった。人外の口の中だけが妙に赤かった。
周囲から一切の音が失せたように感じたその瞬間、いやにはっきりとラジオの声が耳に飛び込んできた。
いろんな歌を継ぎはぎした詩の群れ。音も整っておらず、雑音がまじり、ざらつき、きしきししている。
あの日あなたに/夜明けの/叩け/繰り返しなんども/冷たく固い/砂に埋めた/夢中で掘った/君は、かわった/思い出すのは/遺骨を抱いて/忘れてしまいたい…。
河原崎が足をとめた。だが、あいかわらず洞窟のような目、はにわのような口元。
ラジオがまた言った。
「リクエストいただきました。曲は、『私を忘れないで』」
歌がはじまると河原崎の両手が下がった。「…たったひとつ許されたのは、深くて甘い眠り」
女性の声だが、ささやくような掠れ声のため、途切れ途切れにしか聞こえない。
「探さないで、もう2度と起こさないで」「砕かれて、空に撒かれた私の願い」
光のない河原崎の瞳が揺れていた。
「だれもが胸に宿す、たったひとつのいのち」
一方の少年は、なんて陰気な歌だと思っていた。
「うばわないで、こわさないで、そして慈しんで」
ついに河原崎は首を横に振りはじめた。「あなたはもうわかっているわね。いつ迄もわたしと一緒だから」
そこまで聞くと、掴んだ石が手から離れた。石が落ちた先も見ずに、少年は猫を抱き抱えたまま、家から逃げ去った。なにかうめき声のした気もするが、それを振り切るように少年は黙って走った。一度も振り返らず、走りに走った。無我夢中だった。
感じたのはただ、胸に抱えたガンマーがいつもより熱っぽかったことだ。それだけだった。
「と、いうことは、危機一髪で難を逃れた…?」
みずるの問いに、「どうかな」という感じに宇藤木は彼女を見た。
「あとから、家になにか言ってきたってことは?」
これには首を強く横に振った。
「そのあと、河原崎さんはどうなったんです?ゴミ集めが再発してたら面白い」
と、難波が聞いた。顔は明るい笑顔を浮かべているが、声は妙におとなしい。
「ずぐに死んだ」ガラガラ声が言った。
「ああ、やっぱり」
まだ、夏休みの終わらないうちに、河原崎の死が伝わってきた。亡くなった場所は自宅の居間だった。
ソファーにもたれ、音楽を聞くような姿勢のまま、こときれていた。
隣の小出家はリフォームが済み、賃貸住宅になっていた。
そこに入った店子が、異変に気づき通報したのだという。
河原崎はもともと心臓に持病があり、外傷もないことから心不全による病死と判断された。
彼の死を聞いた大人たちは「皮肉な話だね」と言い交わした。一念発起して大掃除したのが身体にこたえ、寿命を縮めたと見ていたようだ。加えて、家をきれいにしたことが早い発見につながったという意味もあった。たしかに、以前のままなら死んでも簡単には気づいてもらえなかっただろう。
小出への態度とは異なり、河原崎は新しい隣人に対し、毎朝愛想よく挨拶を交わしていたそうだった。発見されたのも、数日姿の見えないのを相手が不審に思ったためだった。
なお、まだ暑い時期だったから、当初は熱中症によるものとの噂が流れてきたが、彼の倒れていた居間は冷房がガンガンに効いていて、それらしき痕跡もなかった。居間では大掃除と同時に買い替えた新型のエアコンがフル稼働状態となっていた。
「ぢなみに」ラジオもまた、つけっぱなしだったという。
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