67人が本棚に入れています
本棚に追加
「ひさしぶりだね、入江くん。仕事復帰おめでとう」
倉木は人の良さそうな笑みを浮かべる。物腰やわらかく、どこか涼やかな印象さえ漂わせるこの男は、その本性を隠すのがイヤになるくらいうまかった。
冷や汗がふき出し、こめかみをつたっていく。
俺はただひたすら顔に笑みをはりつかせ、意識を失わないようにすることで精いっぱいだった。グラスを落とさないように必死でにぎりしめる。
部屋でひとり、倉木のことを思い出していた時は、あれほど自由に暴言が吐けたのに、いざ目の前にすると頭が真っ白だ。
「あれ、顔色悪いね。大丈夫?」
倉木が俺の顔に手をのばそうとした瞬間、たえられなくなって勢いよくはじいてしまう。
「あ、悪ぃ…はは。でも大丈夫だから」
俺を心配そうに見下ろすその目は、まるで善人のように気づかわしげに揺れていた。
けれど俺は知っている。このすました顔の裏では、俺が動揺しているのを見て楽しんでいるに違いないことを。
…くそが。
「ていうかさあ、ふたりって知り合いなのに、連絡先知らないの?なら今交換しちゃえば?」
サナが口元に指をあて、首をかしげた。倉木は飄々と答える。
「そういえば、LINEまだだったね。せっかくだしそうする?」
本当は、俺が一方的にブロックしているだけだ。けれど、そんなこと言えるはずもなく。
「…スマホ、クロークにあずけちまったから、後でな」
倉木はにこりとほほ笑む。この男は、あくまで俺たちが”ちょっとした知り合い”の体で、この場を進めるつもりらしい。
…ふざけんなよ。どんな拷問だ。いつまでこの茶番続けるつもりだよ。
「ていうか入江くん、ほんと汗すごいよっ。ほんとのほんとに大丈夫?」
「いや、このタキシード、生地がぶあつくて。…悪いけどちょっとトイレ行ってくる」
会場の出入り口をさがし、すがる思いで足を動かす。途中倉木と肩がぶつかったが、そのまま早歩きで通りすぎた。
トイレにかけ込むと、手洗い場にもたれかかる。個室がいくつかあったけれどだれも入っておらず、俺は心を落ち着けるためにゆっくりと息を吐いた。
鏡で自分の顔を見ると、ひどくやつれて見える。
その時、トイレのドアが開いて、倉木が悠然と入ってきた。
「入江くん。忘れ物だよ」
にこりとほほ笑み、片手をひらひらとふっている。その手には俺のハンカチがにぎられていた。
「会場の床に落としてたよ」
「うそつけ。どうせ、さっきぶつかった時にでもスったんだろ」
「信用ないなあ」
倉木はクスリと笑いをこぼし、俺の背後にそっと近寄る。優雅な動きで、ハンカチを俺のズボンのポケットに入れた。
「これ、返しとくね。もう落としちゃダメだよ」
なでるような手の感触が、太ももに伝わる。びくりと肩をふるわせると、倉木の笑顔が深くなった。
「入江くん、どうしたの。そんなに怯えちゃって」
俺は拳をにぎり、鏡越しに倉木をにらみつけた。
「うるせえよ。つうかいつまでそのキャラやんだよ。気持ち悪い」
倉木は口元に手をあて、その口角を凶悪なまでにつり上げる。ゾッとするような笑みだった。
「だって、この方がお互いありがたいでしょ。兄さん」
最初のコメントを投稿しよう!