第三章

9/18
前へ
/49ページ
次へ
「ひさしぶりだね、入江くん。仕事復帰おめでとう」  倉木は人の良さそうな笑みを浮かべる。物腰やわらかく、どこか涼やかな印象さえ(ただよ)わせるこの男は、その本性を隠すのがイヤになるくらいうまかった。  冷や汗がふき出し、こめかみをつたっていく。  俺はただひたすら顔に笑みをはりつかせ、意識を失わないようにすることで精いっぱいだった。グラスを落とさないように必死でにぎりしめる。  部屋でひとり、倉木のことを思い出していた時は、あれほど自由に暴言が吐けたのに、いざ目の前にすると頭が真っ白だ。 「あれ、顔色悪いね。大丈夫?」  倉木が俺の顔に手をのばそうとした瞬間、たえられなくなって勢いよくはじいてしまう。 「あ、悪ぃ…はは。でも大丈夫だから」  俺を心配そうに見下ろすその目は、まるで善人のように気づかわしげに()れていた。  けれど俺は知っている。このすました顔の裏では、俺が動揺しているのを見て楽しんでいるに違いないことを。  …くそが。 「ていうかさあ、ふたりって知り合いなのに、連絡先知らないの?なら今交換しちゃえば?」  サナが口元に指をあて、首をかしげた。倉木は飄々(ひょうひょう)と答える。 「そういえば、LINEまだだったね。せっかくだしそうする?」  本当は、俺が一方的にブロックしているだけだ。けれど、そんなこと言えるはずもなく。 「…スマホ、クロークにあずけちまったから、後でな」  倉木はにこりとほほ笑む。この男は、あくまで俺たちが”ちょっとした知り合い”の体で、この場を進めるつもりらしい。  …ふざけんなよ。どんな拷問(ごうもん)だ。いつまでこの茶番続けるつもりだよ。 「ていうか入江くん、ほんと汗すごいよっ。ほんとのほんとに大丈夫?」 「いや、このタキシード、生地がぶあつくて。…悪いけどちょっとトイレ行ってくる」  会場の出入り口をさがし、すがる思いで足を動かす。途中(とちゅう)倉木と肩がぶつかったが、そのまま早歩きで通りすぎた。  トイレにかけ込むと、手洗い場にもたれかかる。個室がいくつかあったけれどだれも入っておらず、俺は心を落ち着けるためにゆっくりと息を吐いた。  鏡で自分の顔を見ると、ひどくやつれて見える。  その時、トイレのドアが開いて、倉木が悠然と入ってきた。 「入江くん。忘れ物だよ」  にこりとほほ笑み、片手をひらひらとふっている。その手には俺のハンカチがにぎられていた。 「会場の床に落としてたよ」 「うそつけ。どうせ、さっきぶつかった時にでもスったんだろ」 「信用ないなあ」  倉木はクスリと笑いをこぼし、俺の背後にそっと近()る。優雅な動きで、ハンカチを俺のズボンのポケットに入れた。 「これ、返しとくね。もう落としちゃダメだよ」  なでるような手の感触が、太ももに伝わる。びくりと肩をふるわせると、倉木の笑顔が深くなった。 「入江くん、どうしたの。そんなに(おび)えちゃって」  俺は(こぶし)をにぎり、鏡越しに倉木をにらみつけた。 「うるせえよ。つうかいつまでそのキャラやんだよ。気持ち悪い」  倉木は口元に手をあて、その口角を凶悪なまでにつり上げる。ゾッとするような笑みだった。 「だって、この方がお互いありがたいでしょ。兄さん」
/49ページ

最初のコメントを投稿しよう!

67人が本棚に入れています
本棚に追加