無情

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 キッチンへ目をやり、すぐさま見なければよかったと、私は後悔した。  まだ荷物も碌にない部屋だ。引っ越したてで、開けてない段ボールが複数、キッチンと、一つしかないリビングに放られている。  それらの隙間を縫うようにして、一匹の黒いゴキブリが、キッチンの滑らかな床の上に這っていた。夏の夜に相応しい、悍ましい存在。  部屋は閉め切っていた筈だ。それともエアコンのダクトからでも潜り込んだのか。  否、違う。玄関を見てすぐにわかった。ドアポストに、今朝ねじ込まれた新聞が入りっぱなしになっている。おそらくその隙間から侵入して来たのだろう。読みもしないものを、一人暮らしに浮かれて取ったりするからだ。  とはいえ、愚痴っていても仕方がない。これから先長く暮らす部屋だ。望まぬ同居人にはお帰り願うしかない。  さてどうするか。足を床から離さぬように、摺り足でキッチンにジリジリと近づきながら考える。  殺すのは論外だ。あんな大きな虫の死骸を拾い上げて運ぶなんて考えるだけで嫌になる。であれば、追い出すのがいい。バルコニーから飛び立つよう仕向けるか、玄関のドアから立ち去らせるか。  一見して冷静さを保っているようだったが、それらは所詮、黒い生き物を正面から認識するのを恐れるが故のその場凌ぎの思考に過ぎない。事実、私はアレの目の前に立ってもなお、如何様にして闘うか、そのとっかかりすら纏められずにいた。  ゴキブリは私に背を向け、キッチンの壁を睨むかのようにして佇んでいる。一歩も動くことなく、されどその長い二本の触覚は、忙しなく上下左右に振られている。  あぁ、嫌だ、嫌だ。あの動き一つでさえ、私の心を萎えさせる。そこに触れたが最後、触手の如く絡みついてくるのではないかなどと、身の毛がよだつ想像ばかりが駆け巡る。  覚悟を決めて一歩を踏み出した時。  奴もまた、動き出した。  頭を向けていたキッチンの壁ではなく、急反転し、私に向かって勢いよく駆けてきた。  チャンスだ。そのまま掴み取ればいい。そんな風に言えるのは第三者だけだ。実際には、私は通路側を抑えているという利点さえかなぐり捨てて、情けない悲鳴を上げながら右へ飛び上がり、むざむざと忌々しいアイツを、むざむざとリビングへ送り届けてしまった。  しまった。慌ててリビングへ駆け込む。家具自体は少なくても、未開封の箱が散乱する部屋だ。  小さな身からすれば迷宮の如く隠れ家だらけなその中から、本来であれば見たくもないその黒い体を探し出すのは、肉体的にも精神的にも辛いところだ。  ましてや私の華奢な手では、それらの荷物を一つ処に纏めて逃げ場をなくす、という手すら使えない。  だがそれは杞憂だった。幸運にも、不幸にも。  忌々しいゴキブリめは、まるで私を嘲るかのように、部屋の中心に陣取り、その長い触覚を忙しなく振り回しながら、こちらを睨みつけていた。睨みつけていたに違いない。私は対峙し、正面からゴキブリを見据えた。  いい思い出など何もない。以前の家は、やはり唐突に現れたこれのせいで崩壊した。家主が狂ったように暴れ回り、後先考えずに家中をメチャクチャにしてしまったのだ。その余波を受けて、私は引っ越しを余儀なくされた。  人の家に巣食う、まさに寄生虫だ。共生ではない。こいつは何も恩恵など与えない。そのことが余計に私を苛立たせる。  黒い脚が数歩動いた。私を牽制しようとしたのか。上等だ、やってやる。  ゴキブリの背後から、微風が私たちの間を通り抜ける。昔見たことのある絵面だ。西部劇、と言うのだったか。隙を見せたら負けだ。私も一歩を踏み出す。先ほどより力強く。その覚悟が効いたのか、怨敵は今度は一歩後ろに下がる。  私が迫り、奴が下がる。間合いは変わらず、けれど場の優位性は私にある。再び風が巻き起こる。そして気付く。カーテンの向こうのガラス戸も開けっ放しになっていた。全くなんと言う不用心ぶりだろう。これではこの侵入者ばかりを咎めない。  だが同時にチャンスでもある。間合いを保ったままじわり、じわりと追い詰めていく。風にカーテンがはためいた。今だ。私は一気に距離を詰め、それに驚いたゴキブリは、方向転換もそぞろに慌ててガラス戸の外へと逃げ出し、そのまま風に煽られるようにして、バルコニーから落ちていった。  微風の音だけが部屋に響く。勝った。私は望まぬ侵入者を追い出したのだ。過去の悔恨を、ようやく晴らせた気分だった。  父よ、母よ。見ておられるか。私は、私達の暮らしを破綻させた怨敵を追い返したぞ!  後ろで音がして、振り返る。  ドアが開いている。スーツ姿の女性が一人、新聞を手に、私の方を見ていた。私は両手を上げて歓迎する。 「おぉ、家主殿! いいところに戻られた。ご覧になられたか、私の勇姿を! 貴女にとっても悍ましき対象であったゴキブリめは、このセアカコケグモのジョナサンが見事討ち払って見せましたぞ! ついては、この武勲に免じ、私と、ひいては私の家族達の移住を認めてはいただけないか! 何、無論これだけとは言いませぬ。今後も怨敵が現れ次第、我ら一族、全力を持って排除にかかることを約束しま」  言い終わる前に、丸められた新聞紙の鞭が、私に向かって振り下ろされた。
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