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 ぴゅい、口笛が聞こえてくる。  小川のせせらぎと鳥の囀りの間を縫って聞こえてきた人工的な音。森は人間が奏でた不協和音に耐えられないのか静まり返った。  口笛の後に続く言葉は私を探しているのに、私の名を呼ばない。あの人のいつものやり方だ。遠くから低い男性の声で──カイン、そう予想した通りの言葉が聞こえてくる。隣に寝そべるバーニーズ・マウンテン・ドッグの彼は自身の名前を呼ばれ尻尾を振り、主人の声に喜んだ。口笛が聞こえていたときには既に、私の方に大きな瞳を向けていた。その表情と全身を見て分かるのは主人の登場に心底幸福を感じているということ。瞳も体もすべて期待に揺れている。  この家に来て一番はじめに学んだことは、カインがあの人に多大なる忠誠心を持っているということだった。 「呼んでるよ、行きな」  私のその指示に従わず、草木が生い茂る地面にべたりと体を預けているカイン。意識は主人に向かっているのに私の隣から離れない。私の体内で育つ花を心配しているのか、或いは主人の命令だからか。  ──カイン。  一回目に彼を呼んだ声はもう少し遠くにあったはず。大地を覆う緑を蹴散らし、私を探すカインの主人、大森眞琴(おおもり まこと)は確実に私たちに近付いている。 「やぁ、こんなところにいたのか。華」  大森は今しがたカインを呼んでいたはずなのに、一番最初に私の名を呟いた。ダシに使われたカインはそんなこと気にする素振りも見せず、主人、大森に抱きつく。細い身体つきなのに大型犬のカインに押し倒されることなく、涼しい表情で立つ男性。 「お仕事終わった?」 「あぁ、朝食にしよう。カインも腹が減っただろう?」  避暑地として人気のある長野県軽井沢。気候、都心部へのアクセスなど、利便性が高いこの土地は別荘が多く立ち並ぶ。大森もこの場所を愛してしまったらしく、人の出入りが少ない山奥に豪邸を構え住んでいる。私の為にと言って自然豊かな森まで完備したこの場所は、緩やかに流れる小川まで備わっていた。都会の喧騒は一切ない、豊かな生活を送ることができる最適な場所。 「それにしても華。そんな格好で外に出るなと何度も言っているだろう」  穏やかな笑みを浮かべる大森は長身の体を折り曲げ、脇に抱えていたブランケットを私に差し出す。私は余命宣告をされた身。身体を冷やそうがなにをしようが勝手だ。結局死ぬのだから。 「私のことを叩き起こして仕事だから出て行け、って言ったのは眞琴さんでしょ?」 「だからって年頃の娘がキャミソール一枚で出て行くなんて思わないだろう」  三十代前半だと思われる男性は、バツが悪そうに眉間を顰め、小さな溜め息を吐き出す。川に足を突っ込んだまま動く気の無い私と大森の温度差は当初から感じている。この土地に迎え入れられた当初から。分かり合えない、理解しようとしない、理解できるはずがない。 「眞琴さんにも予想外なことがあるのね」  鼈甲眼鏡の奥で、まんまるく形を変える瞳。驚いた眼球が形状記憶のように、また穏やかな笑みに戻っていく。そしてそのまま気味の悪い三日月目になった。  私と大森は根本的なところで似ていると思う。その理解できないものを愉しんでいるのだから。
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