青藍の夢

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 着物をすべて剥ぎ取り、腰巻き一枚にした夜明を布団の上に転がすと、青藍はその脇にすずりを置いた。すずりは最高級の老坑の中でもさらに質の高い水巌である。   焼酎を注いでしゃっしゃと手際よく墨をこすれば、魂も震えるような真っ黒の色が滲み出し、極小の金属の粒が闇の中できらきらと輝いた。ほとんど裸で寝かされた夜明が、 「寒いです、掛け布団ください」  とべそをかく頃には、硯の焼酎はみなとろりとした墨汁に変わっていた。  呑気にしていられるのも今のうちだと口の端でせせら笑い、三本針を仕込んだ道具を口に咥える。肩下まで伸びた髪を結い、仕事着の友禅の袖をたすき掛けにしてぐいと引き縛った。  刺青はしばしば『彫る』と表現される。それは人肌に当てた針先を思い切りよく皮膚に突き立てずんずんと絶え間なく刺していくさまを表しているからだ。  ぎらりと光る三本針を見せつけると、夜明の顔が引きつった。逃げ出そうとする背中に焼酎を拡げて馬乗りになる。  象牙色の背中は傷ひとつない。青藍が値踏みした以上のきめ細やかさと艶を持っていた。ひたと触ればしっとりと掌に吸いつく極上の質感に胸が踊った。  初めに描くのは鳳凰の輪郭である。なめなめとした墨汁に針を浸し、よく濡れた針の先を肌に当てがった。 「ひっ、やっぱりやめっ……、ぁっ、アッ!」  ずん、と初めのひと刺しを受けた背中が大きく波打った。続けざまにずんずんと突き込んでいく。その度に悲鳴があがった。 「ひあっ、ぁ、あっ! 痛っ、痛い! こんなに痛いなんて聞いてな、アッ、そこいやっ、やめてぇ!」  穿たれた傷口に墨の焼酎が沁みるのだろう。それにしても大げさに痛がるので青藍はたまらなく楽しくなってきた。夜明は二十歳だと言っていたが、十五の子供に施した時よりずっと騒がしい。  痛がる客の顔は見ものだから戯れに鏡を立て掛けているのだが、そこに映った夜明の顔は泣き濡れて赤らんでいた。 (これは──)  ぞくぞくとした快感が体中にみなぎる。  鳳凰の輪郭を彫らんとして肩甲骨の間に針を刺し込むと、 「あああッ!」  ひときわ大きく啼いた声には濡れたような艶があった。黒々とした髪が布団に散らばる。 「後生ですから、もうおやめを……これ以外ならば私、何でもしますから」  いいしなにのけ反った背中のいよいよ眩しいばかりの白さに、青藍の手が一瞬止まった。  何でもしますから。  その願い出に不覚にも心を掴まれたのである。  針から解放された身体が喘ぎながら上下する姿はやけに色っぽく、ガキのくせにと思いながらも目を離せなくなっていた。  いっそ願いを受け入れて、肉の快感を貪り尽くしてやろうかという誘惑にかられる。  いや待て早まるなと欲を打ち消し、再び針を取った。これを逃せば一生出会えぬかもしれぬ理想の身体だ、みすみす逃す手はない。針先に新たな墨をつけて柔肌に押し当てた。 「悪いな」  全く悪びれぬ口調でうそぶき、ためらいなく針を刺す。   良い悲鳴が六畳間にこだました。加虐心が高まれば、青藍の針はなおいっそう冴え渡る。  連続して針を刺し込むたび「あっあっあっ」と小刻みに喘ぐさまが殊に艶かしく、青藍は突き上げるような愉悦に任せて鳳凰のくちばしを、羽根を、脚の爪を、その背に刻み込んでいった。ふき出す赤い血を拭い、夢にまで見た天上の鳥を一心不乱に描き上げる。  大物の刺青はふつう何回にも分けて客に通わせ彫るものだが、こいつは駄目だと青藍は悟った。この痛がりぶりでは、いちど手放したがさいご絶対に戻っては来ないだろう。  どれほど時間が掛かっても、一気に彫りあげねばならぬ。そうだ──。
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