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午後の陽射しが障子越しに夜明の頬を照らしていた。
まだ重い瞼を押し上げる。たいそう顔のいい男がじっとこちらを見つめていた。
「よう、起きたか」
「あ……?」
ぼんやり身じろぎをすると、背中がぴりりと痛んだ。それで夜明はこれまでのことをみな思い出した。
勤め先の屋敷の主人に命じられるがまま、吉原の道具屋に目当ての茶碗を探しに行っただけなのに、誤って壺を割ってしまったら、堅気かどうかも疑わしい妙な男につかまった。
刺青されたあげく抱かれ、失神したらしき経緯までもがまざまざと蘇ってくる。
なのに不思議と嫌悪はなく、頬の下に添えられた腕枕は心地良くさえあった。
戸惑った視線を泳がせると、体を起こした青藍が「膝に乗れ」といった。夜明はおずおずとそれに応じ、青藍の膝の中に向かい合う形で座り込んだ。
「見ろ」
青藍のしなやかな指が壁置きの姿見を差した。つられて振り向けば、そこには己であって己でないものが映っていた。
素晴らしく羽根を広げた天上の鳥が、凛として夜明の背中に息づいていたのである。
「あ……」
「綺麗だろう?」
夜明はこくこくと頷いた。
和彫りの刺青は黒、朱、白の三色を組み合わせて成る。背に羽ばたく鳳凰は輪郭と目にのみ黒を用い、羽根や腹の色付けはほとんど白と朱で彩られていた。
曲線美の極地のような羽根の曲がりに、首の角度。この無骨な手から一体どうしたらこんなにも繊細な手仕事が生まれるのかと、夜明は夢見心地でみとれた。
「どうだ。これが俺の、一世一代の図案だ」
「えっ?」
「彫り師にゃ、夢あるのよ……これと見定めた理想の肌に、最高の絵を描きてぇって夢がよ」
「え……それでどうして、私なんです?」
「なぜだと思う」
にぃっと口角を上げる青藍に夜明は引き寄せられた。
首の後ろに回された青藍の指の腹が、夜明の首から背中、背中から尻にかけての曲線をつうとなぞっていく。
「ぁ、やっ……」
それが塞がりかけた無数の傷口を甘やかに滑り、また上ずった声があがった。
「選んだのは、お前を気に入ったからに決まっている」
「でも私なんて……」
「卑下なんかするな。この鳥はな、国宝級のこの俺が彫った鳳凰だ。つまりお前はもう日の本一の女ということだ」
「ひのもと? いち……?」
どうだ嬉しいか。つづく言葉を噛み締めた夜明の目にじわりと涙が浮かんだ。
「よく泣く女だな」
「だって、だって私ひとつも取り柄なんかないし、愚図で泣き虫だって、いつも馬鹿にされるし。でもその通りだから、悪いのは私だから、だから誰にも愛されなくたって、それだって、仕方ないことなんだって、ずっとっ……」
胸の内を吐き出した肩に襦袢が掛けられた。
「鳳凰は何度でも生まれ変わる鳥だ。変わったんだよ、お前は。これからは、きっとこいつがお前を守ってくれる。俺だって、もうお前を離しゃしねぇよ」
「青藍さん?」
「いいか。お前に使ったぼかしの朱は特別に痛ぇ色だ。盗賊の頭が裸足で逃げ出すくれぇにな。お前は堅気のくせに本当によく耐えた。偉かったな」
わしわしと頭を撫でられると、夜明は途方もない安心感に包まれた。こんな風に誰かに褒められたのは初めてかもしれなかった。偉かったな。そのひとことが酷く心に沁みた。
「すみません……こんな、こんなこと、突然いいだすの、変だって思われるかもしれないけれど……私、私もう、青藍さんを……」
声が詰まり最後まで言葉を繋げなかった夜明を、龍のような瞳が見つめ返した。
その目に映る己の体が情念の炎に焼かれ、めらめらと燃え盛るさまを夜明は見た。
背には鳳凰、腰には力強い腕。昨日までとは違う自分に変わっていく快さを確かに感じていた。
寝乱れた髪を引かれる。求められるままに唇を重ねて、目を閉じた。
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