月明かりの中で

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月明かりの中で

 ぷぎっ、  そんな間の抜けた声が聞こえた気がした。  拳に伝わる湿った肉の感触が不快だったが、同時に手応えのようなものも感じていた――思わず、口許が弛む。離した拳の下から「かは、」と乾いたような声も聞こえてきたが、それがなんとも心地いい。私は本来このような嗜虐的な人間ではない、それをこういう風にしたのはこの女だ。私は悪くない、悪いのはこの女なのだ――心の中に生まれた免罪符が、更に拳を動かしていく。  マウントポジションになってしまえば、もう山岸(やまぎし)に逃げることなど不可能だ。この女がここに来たところは、恐らく誰も知らない。この女が誰かと手を組んできているのなら、きっとひとりで、しかもこの私に身体を許すようなことはなかっただろう。この女は単独で来たのだ、もしかしたらここを訪ねることくらいは誰かに言っているかもしれないが、それでもこの女をまたあの頃のように――いや、あの頃よりもしっかりと強く、今度は痛みでわからせてやればいい。  思い知れ、思い知れ!  昔見逃がしてやったのに、また性懲りもなく執着してきて! 「ふぅ、ふぅ、ふぅ……!」  息が切れる、拳が痺れる、汗が落ちる。  目に入った汗が染みて、少しずつ漂ってきた鉄臭さに()せて、それでも手が止まることはなかった。まるで未知の快感に触れたばかりの子どもが貪って反芻(はんすう)しようとするように、ただ夢中で山岸のどう見ても本当に娘たちよりも若い少女にしか見えないその顔に、身体に拳を振り下ろす。  本当に、怖くなるくらい若い頃のままだ。  こんな容姿を保てているのなら、私や美弥(みや)にこだわっていないでさっさと別の幸せを探せばよかったのに、まったく愚かな女だ。十分に反省している様子を見られたら、説教のひとつでも垂れてやろう。こう見えて私はこいつらの“先生”をしていたのだから、また指導してやるのも一興だろう――そしてまた昔と同じように改めてその思い上がりを正してやるのだ。 「ふふふ、ふふっ、ふふはははっ、」  自然と笑いが漏れる。  あぁ、そういえば妻が私と露骨に距離をとるようになって、寝室すら別になって――更には時代の流れだか何だか知らないが、気に入った部下を終業後の付き合いに誘うことも(はばか)られるようになってから、こんな愉快なことがあっただろうか? そういえばなかった、あぁ――これはきっと、長年会社に尽くし、社会に貢献し、真面目に生きてきた私に対する褒美のようなものなのだ。  それなら、こんなに愉快なのも仕方がないな。  ははは、ははは……っ    * * * * * * *  高くなった月明かりが、寝室を見下ろす天窓から差し込んでくる。もうすっかり大人しくなった山岸を見下ろす。……さて、ひとつ説教でも垂れてやるか――いや、もう必要ないな。  それよりも。 「これの始末をしてもらわなくっちゃあな」  私は、家のことはからっきしなんだ。  たとえもうあの頃のような胸を焦がす魅力なんて失われていたって、やっぱりお前にはいてもらわなくちゃならないんだよ、美弥。 「探すか」  今の時代、昔よりも人探しは簡単になってきている。善意なのか自己顕示欲なのか――こちらの窮状を伝えるべく投稿したSNSや掲示板には、次々と美弥の居場所に繋がる返信が届く。  真偽のほどは、探しながら判断しよう。  待っていろ、そして帰っておいで、美弥。  月明かりの下、どこか浮わついた足取りで男は歩く。その目には、獰猛な獣にも似た輝きが灯っていた。
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